第136回 澤村斉美『galley』

冬鳥の過ぎりし窓のひとところ皿一枚ほど暮れのこりたり
              澤村斉美『ガレー galley』
 「黙秘の庭」で2006年に角川短歌賞を受賞し、第一歌集『夏鴉』で現代歌人集会賞、現代短歌新人賞を受賞した澤村の第二歌集である。題名の「ガレー」は、古代西洋の手漕ぎ軍船「ガレー船」を意味すると同時に、活版印刷時代から用いられている「ゲラ刷り」をも指す。両者の関係は詳らかにしないが、活字を組んだ組版を入れておく箱をもともとgalleyと呼んだらしく、澤村はそこから想像の翼を羽ばたかせ、ゲラ箱に並ぶ活字の群れと軍船を漕ぐ漕ぎ手を結びつけている。新聞社の校閲部に勤務する作者にとってゲラは日常馴染み深い物であり、ゲラ箱に並ぶひとつひとつの活字が、群衆の中の一人一人の人に見えるのだろう。ここには作者の世界観が如実に表れている。それは自分を選ばれた特別な人間と見なすのではなく、通勤電車に揺られる勤労者群衆の一人にすぎないとする見方である。
 第一歌集『夏鴉』の評において、澤村は近景 (=私)と遠景 (=世界)の中間に属する中景すなわち家族・職場・友人・同僚などが構成する「世間」をていねいに詠んでいると書いたが、その印象は第二歌集においても変わらない。「地味に生きている」自分の日常を淡々と歌にしている。いささか淡々としすぎるほどだと言ってよい。
 一巻を通読して読みとることができたテーマは「時の移ろい」で、目についたキーワードは「窓」である。作者は大学を卒業し、新聞社に就職して結婚するという人生の節目を通過したわけだが、そのような節目が殊更に歌に起こされているわけではない。ここで「時の移ろい」というのは、何気ない日常における時間の経過をいう。たとえば次のような歌にそれを感じることができるだろう。
月、火と雨が降りをり水曜はしづくのひかるゑのころを思ふ
思ひがけず車内を照らす月のひかりけふの仕事も過去になりゆく
すりがらすを薄く光が満たしたり朝は無人の職場の扉
一夏を立ち尽くしたる蓮の茎は骨折するもたふれきらざる
朝の窓に白く前向く鳥居あり夫はいつしか見なくなりたり
テーブルに置き手紙増ゆ味噌汁のこと客のこと電池なきこと
 一首目では一昨日、昨日と二日続いて雨が降り、今日は降らないという天気の変化が詠まれているが、それ自体は取り立てて言うほどの大事ではない。ここでのポイントはそのような時の移ろいを感じている〈私〉であり、それが下句に表されている。二首目、深夜帰宅するタクシーの中だろうか。今日の仕事が過去になったとは、おそらく深夜を挟んで日付が変わったということか。ここにも時の移ろいが刻印されている。三首目、新聞社では朝刊を作る深夜が最も忙しい時間帯で、早朝は無人なのである。四首目は敗荷を詠んだ歌で、敗荷は秋の季語である。作者が暮らすアパートの前には神社の鳥居があるらしく、いくつか関連する歌があるが、その鳥居をよく見ていた夫はいつしか見なくなったという変化が詠まれている。五首目、共働きの夫婦の間では置き手紙が増えるという歌。
 どの歌を見てもそこに表れる時の移ろいは日常のものであり、決して大きな変化ではない。ふつうならば気づかず通り過ぎるような移ろいである。だから一首だけ取り出して見ると、なぜこんなことを歌に詠むのかといぶかしむ気持ちすら湧いて来る。しかし歌集一巻を通読すると、作者が歌で表現したかったのは、このような淡々とした時を生きている〈私〉なのかなと思えるのである。
 澤村の歌には窓がよく登場する。仕事場の窓、自宅アパートの窓、それから電車の窓である。
ハンガーにカーディガン揺れ夏の窓はおとろへてゆくばかりの光
窓に立ちて外をながめる心などを思へり廊下のつきあたりの窓に
窓の外に白い袋が浮いてをり部長の頭ごしに見るそのふくろ
踏切を過ぎてゆく窓、くもり窓 かほの並んでゐる窓もある
天象をかかはりのなきものとしていとほしむなり十一階の窓に
 記者ならば外出も多いだろうが、校閲部に所属する作者はずっとデスクでひたすら文字を読むのが仕事である。当然ながら外界とのつながりは窓を通して外を見るということになる。そういう職場の事情もあろうが、どうもそれだけではないような気もする。澤村の歌の特徴のひとつにアイテムの象徴化の不在がある。歌に詠まれている事物に象徴的な意味が付与されていることはほとんどない。しかし窓だけは作者にとって、外界との通路、ひいては人と人の交通の象徴としての意味があるのではないかと思う。
 読んでいておもしろく感じたのは、校正という仕事に関する歌である。
遺は死より若干の人らしさありといふ意見がありて「遺体」と記す
「被爆」と「被ばく」使ひ分けつつ読みすすむ広島支局の同期の記事を
人を刺したカッターナイフを略すとき「カッター」か「ナイフ」か迷ふ
七行で済みし訃報の上の方、五十行を超えて伝へきれぬ死あり
 「遺体」と書くか「死体」と書くかで迷っているのが一首目で、二首目は「被爆」と「被曝」の使い分けである。「曝」は常用漢字にないので平仮名で記されている。「被爆」とは原水爆や放射能の被害を受けることを、「被曝」は放射能にさらされることを言う。私も校正で山ほど訂正された経験があるが、新聞社や大きな出版社の校閲部はどんな小さな誤字・誤用でも見逃さない。
 近代短歌では仕事の歌が多く詠まれたが、現代短歌ではずいぶん減っている。それは現代短歌の社会性の喪失過程とおそらく平行した現象だろう。短歌はどんどん私的になったのである。歌集を読んでもどんな仕事をしている人かまったくわからないことが多い。『ガレー galley』には職場詠と仕事の歌がかなり見られ、それは澤村と同年代の若手歌人には見られないことである。それはよいのだが、ほとんどすべてが日々の折々の歌で占められており、もう少し主題性のある歌に挑戦してもよいのではないかとも感じる。
 最後に私的な感慨で恐縮だが、次の歌に思わず目を止めた。
師匠島崎健 弔ふと出町柳「あじろ」にて夜を更かしをり夫は
「けふの講義、不調だった」と落ちこめる島崎健とあじろの夕日
 島崎健は私の同僚の国文学者で、研究室も目と鼻の先にあった。体を壊して定年退職の一年前に辞職し、その後一年くらい経った頃に訃報が届いて驚いた。島崎の講義には熱心なファンがついていたという話を後ほど耳にした。澤村の夫君は島崎さんの教え子だったのか。冥福を祈る。