第140回 榮猿丸『点滅』

ビニル傘ビニル失せたり春の浜
          榮猿丸『点滅』
 短歌と比較した場合の俳句の最大の魅力は、日常を一瞬にして詩に昇華する魔術のごとき業だろう。短歌では、上句と下句が反射し合い、相関し合って抒情詩としての詩的世界を作るので、意味の比重が大きくなる分だけ、世界の立ち上げに時間がかかる。短歌は意味の世界なのである。これにたいして俳句では意味の比重がぐっと軽くなり、それに反比例して視覚性が高まる。居合のように、光景をスパッと切り取って提示する。しかも有季定型俳句では、切り取った光景のどこかに季節を感じさせる季語が入っていなくてはならない。
 掲出句ではそれはもちろん春の浜である。春なので浜辺には人がいない。天気のよい日で、海はゆったりと波を寄せている。浜辺にビニールを失って骨組だけになったビニール傘がころがっている。コンビニで200円くらいで売られていて、使い捨てられる傘である。骨のいくつかは折れ曲がっているだろう。まるで現代美術のオブジェのように日光を浴びて砂地に細く影を落としている。
 およそ芸術に描かれるような美しいものではない。それが季語を与えられ、定型にはめこまれ、作者の愛情によって磨かれると、日常性は詩的昇華を遂げて美の世界が現出する。絵になる素材を求めて歌枕に吟行するのではなく、私たちがふだん暮らしている日常の中から自分の目で詩的素材を発見する。これが作者榮猿丸のポリシーと見た。
 榮猿丸は1968年生まれ。國學院大學で哲学を学んでいる時に俳句と遭遇するが、その時は短期間に終わり、後に「澤」に入会して小澤實に師事する。二年後に編集に参加し、編集長も務めている。『点滅』は榮の第一句集。正木ゆう子の栞文によると、2008年に榮が「とほくなる」50句で角川俳句賞に応募したとき、審査員だった正木は榮を受賞者に推したのだが、長谷川櫂が反対して激論になったらしい。結局、榮は次席になり、受賞したのは阿倍真理子。選考の経過と受賞作を載せた「角川俳句」の号の表紙には「3時間以上に及ぶ大激論!」という惹句が印刷されて、榮はかえって名を知られることになる。
 高柳克弘が栞文で書いているように、榮の俳句を読んでまず最初に気づくのは、詠まれた素材の新奇さである。宗匠帽を被って縁側で句をひねる風流人ならばおよそ取りあげないような素材を榮は好んで詠む。
しやぶしやぶ鍋真中の筒や葱くつつく
箱振ればシリアル出づる寒さかな
フライドポテトの尖にケチャップ草萌ゆる
山晴れていなりずし照る暮春かな
ガーベラ挿すコロナビールの空壜に
ダウンジャケット継目に羽毛吹かれをり
 一句目、中央に筒が立つしゃぶしゃぶ鍋は、確かに肉や野菜がうっかり筒にくっつくことがある。筒は高温になっているので、そのままじゅっと焦げ付いてしまう。後の手入れが大変だ。二句目は冬の朝食の風景。朝食用のシリアルは確かにたいていの人が箱から振り出している。シリアルが皿に当たる硬質な音が冬の寒さを感じさせる。三句目、ハンバーガーショップのフライドポテトにケチャップやバーベキューソースをつけて食する習慣はいつ頃から始まったものか。ポテトにべったりとケチャップをつけるのではなく、尖端だけに少量つける。ここがポイントである。四句目は解説の必要もないほどそのままの句。春の終わりの光量の増した日光にいなり寿司が照り映えている。穏やかで平和な光景である。五句目のコロナビールは、壜の口からライムをぎゅっと搾って口飲みするのがお洒落とされた都会的アイテムだが、空壜に花を挿して飾るのは、いかにも独身男性の一人住まいを感じさせる。六首目、もうずいぶん長く着ているダウンジャケットなのだろう。身頃と袖の継ぎ目がほつれて中の羽毛がはみ出している。わずかな羽毛に気づいたのだから、ダウンジャケットの色はたぶん黒だろう。
 このように都会に暮らしている私たちの日常の中で、誰でも出会いそうな取るに足らない微細な事象を掬い上げて句にしている。思わず「あるある」とつぶやいてしまいそうだが、このあるある感は日常の中で成立する感覚で、いったん俳句の世界に視座を移すと他にあまり類を見ない句風である。『超新撰21』で榮の解説を書いたさいばら天気はその理由を、榮が俳句の国に暮らしているのではなく、現実という当たり前の世界から「俳句の国」に出かけるからだとする。つまりは俳句の外部から内部へと手を伸ばしているからだという。興味深い見方である。
 私たちが暮らしている現実という当たり前の世界には、カタカナ語が氾濫している。カタカナ語を使わずには一日たりとも過ごすことができないだろう。榮の俳句にカタカナ語が多いのは、奇をてらって素材の新奇性を求めているからではなく、現実の私たちの生活にカタカナ語が氾濫しているからにすぎない。しかし榮の俳句ほどカタカナ語の多い句は珍しいようで、角川俳句賞の選考会でもこのカタカナ語の多さは批判されたという。
 朝日新聞の俳句時評で本句集を取りあげた田中亜美は、俳句は恋愛を詠むのが苦手な形式だが、珍しく恋の句が多いと評しており、それはまた多くの評者の指摘するところでもある。
春泥を来て汝が部屋に倦みにけり
裸なり朝の鏡に入れる君
別れきて鍵投げ捨てぬ躑躅のなか
わが手よりつめたき手なりかなしめる
愛かなしつめたき目玉舐めたれば
髪洗ふシャワーカーテン隔て尿る
われを視るプールの縁に顎のせて
 多いと言ってもこれくらいである。若い人の作るうきうきした恋の句ではなく、苦みの混じった大人の恋である。衝撃的なのは五句目で、ふつうの性愛の動作に飽きたらず相手の目玉を舐めるというのは、愛の切なさと同時に近い別れを予感させる。ボオドレエルの「sed non satiata」(されど我なお飽き足らず)という詩を連想する。栞文でこの句を含む榮の恋の句を取りあげた高柳克弘は、「榮猿丸の相聞句は、まだ信じるに足る愛というものが、この世界に存在していることを教えてくれる。貨幣にも情報にも還元されることのない、かけがえのない愛が」と締めくくっている。
 印象に残った句をあげておこう。
片影や画鋲に紙片のこりたる
若芝に引く白線の起伏かな
ランボー全集全一巻や青嵐
按摩機にみる天井や湯ざめして
ダンススクール西日の窓に一字づつ
トイレタンクの上の造花や冬日差す
ピカソの眼勁し生牡蠣啜りたる
ペットボトル握り潰すや雲の峯
 ちなみに「愛されずしてTシャツは寝間着になる」は藤田湘子の名句「愛されずして沖遠く泳ぐなり」の本歌取りか。高柳克弘の栞文のすばらしさも印象に残った。ちなみに句集題名の『点滅』は、『超新撰21』の巻末合評座談会で師の小澤實が「一句の中で何かが明滅しているような印象です。変わっています」と述べたのを受けての命名か。