第141回 千葉聡『今日の放課後、短歌部へ !』

手を振られ手を振りかえす中庭の光になりきれない光たち
         千葉聡『今日の放課後、短歌部へ!』
 『飛び跳ねる教室』に続く千葉の歌集が出版された。歌集というよりも、エッセーの間に短歌が少し挟まれている構成なので、歌文集と言うべきかもしれない。千葉は1998年に「フライング」により短歌研究新人賞を受賞しし、その後、高校の国語教員になっている。前作の『飛び跳ねる教室』では横浜市の上菅田中学、今回の『今日の放課後、短歌部へ!』では戸塚高校に勤務する汗と涙の日々が綴られている。
 千葉と同じく短歌同人誌『かばん』に所属する先輩の穂村弘は、自分の社会人としての不適格ぶり(自分がいかにアウトな人間か) を自虐的に描くエッセーの名手として評価が高いが、千葉も自分に最も適した表現形式をようやく見つけたと言ってよいかもしれない。それは本書のように実録エッセーと短歌とが照らし合い響き合う形式である。帯に「青春とは、永遠の中の停止した一瞬」(東直子)、「青春とは、無名性の眩しさ」(穂村弘)と印刷されていて、巻末には「短歌には青春が似合う」と題した千葉・東・穂村の座談会が付されており、東と穂村が選ぶ青春の歌十首が添えられている。本書の主題が「青春」であることがわかる。おまけにエッセーの随所に千葉が選んだ青春にちなむ名歌が挿入されていて、これでもかというサービスぶりだ。まるでコンビニで弁当を買ったら、即席味噌汁とペットボトル入りの緑茶まで付いて来たようだ。お買い得と言えるだろう。
 本書の主な内容は中学から高校に転勤になった千葉 (生徒からは「ちばさと」と呼ばれている)の汗と涙の奮戦記なのだが、登場する教員が個性的である (キャラが濃い)。教員室のストーブで餅を焼いて、何でも「そんなことはいいんだ」で済ませてしまうフナダ先生 (フナじい)、バスケ部の鬼顧問で超体育会系のカオリ先生、そんな先生たちに囲まれ助けられながら、悩みつつ教員として少しずつ成長してゆく千葉。この構図はどこかで見たような...そう、これはちばさと版『坊っちゃん』なのである。そう思って読めば本書のキーワードが「青春」であることもうなずける。
 とりわけ印象に残るのは「ラアゲ」というニックネームの女子高校生のエピソードだ。ニックネームの由来は、自分はカラアゲが好きなので、「カ」を取って「ラアゲ」と呼んでくださいと自分から千葉に申し出たことによる。なぜ「カ」を取るのかは謎である。女子高校生には謎が多い。ラアゲはちばさとに『若草物語』『赤毛のアン』『あしながおじさん』を課題図書として与え (生徒が先生に課題図書を出すということがそもそも変だ)、読んだ後に千葉が感想を述べると、「それではまだ深く読んだとはいえません」とダメ出ししたという。そして『スウ姉さん』だけは読まないようにと釘を刺した。ラアゲが千葉に与えた課題図書はすべて、作家や芸術家になることを夢見ている主人公が、さまざまな困難を乗り越えて自分の夢を実現する物語で、『スウ姉さん』は家族のために夢をあきらめるという物語であることに千葉は気づく。千葉が歌人であることは生徒にも知られているのだが、高校に転勤になって部活動の顧問などに忙殺されて、千葉は短歌を作れなくなっていた。そのことを授業中に自虐的に生徒に話していたのだ。ラアゲは「自分の創作活動を自虐ネタにしないで、夢に向かって進んでください」と千葉に伝えたかったのである。こんな生徒を持った教師は幸せだ。
 また千葉は国語の授業の一環として、毎回黒板に自分が選んだ短歌を一首書いていたという。結局、高校には千葉が望んだ短歌部はできなかったけれど、卒業してゆく生徒の心のどこかには黒板に書かれた短歌が残るだろう。
 エピソードばかりに気を取られて収録された短歌に気が向かわないが、何首か引いておこう。
一面に風のかたちを抱きしめてすぐに手放す春のプールは
トレーニングルームに野球部五人いて今日限定で懸垂が流行る
数学を放って食堂へと急ぐ少女の肩に食いつくカバン
グラウンドを駆けゆく背中まっすぐに天空を挿すオールであれよ
一握りほどの光を海底に置くように君は頷きかえす
約束は果たされぬまま約束を信じたころのかたちで眠る
歌に詠み続けよう 今ここにある光、ため息、くちぶえなどを
 千葉の短歌では光を詠んだものが特によい。巻末の座談会で、「自分は東さんと違って、見たものとか経験したものじゃないと書けないっていうのを改めて感じました」と千葉が発言しているのに注意を引かれた。確かに「好きだった世界をみんな連れてゆくあなたのカヌー燃えるみずうみ」という東の歌など、現実にあったことを書いているのではなく、想像から紡ぎ出したものだろう。千葉はそれはできないと言っているのである。つまりは千葉にとって短歌は、言葉を組み合わせることで今までにはない意味の世界を作り出したり、言葉と言葉が軋み合って発光するようなものではないということだ。自分の体験と見聞きした出来事がまずあり、それをもとにして短歌を作ってゆくのである。
 本書のようにエッセーに短歌が混じる構成が千葉のスタンスに適しているのはそこに理由がある。歌集のみでひとつの自立的宇宙を立ち上げるのではなく、経験したエピソードと短歌とが響き合うというスタイルを千葉が選んだのは決して偶然ではあるまい。しかしその分だけ本書で短歌の占める比重が軽くなっているのは否めない。
 千葉が選び随所に挟み込まれた青春短歌を拾い読みするだけでもおもしろい。たくまずして若者向けの短歌入門書となっている。しかし、大辻隆弘の「結局みんな散文に行ってしまうのか」という嘆きがまた聞こえてきそうではあるが。