第144回 紫陽花の歌

あじさいに降る六月の雨暗くジョジョーよ後はお前がうたえ
                       福島泰樹 
 今週は別のテーマで短歌批評を書くつもりだったのだが、今朝起きてふと紫陽花の歌にしようと思いついた。梅雨時の街のあちこちで紫陽花が花をつけている。この時期をおいて他に書ける時はない。紫陽花は「今週の短歌」時代に一度取り上げているので重複するが、まあかまわないだろう。
 紫陽花は近代短歌が好んで題材とした花である。小池光も『現代歌まくら』で項目に挙げていて、次の歌を引いている。
森駆けてきてほてりたるわが頬をうずめんとするに紫陽花くらし
                          寺山修司
色変えてゆく紫陽花の開花期に触れながら触れがたきもの確かめる
                          岸上大作
 寺山の歌はこれ以上はない寺山節の青春歌で、青春の昂揚と裏腹の暗さを紫陽花が象徴している。岸上の歌は掲出した福島の歌と遠く響き合う。小池も触れているように、紫陽花は六月の花であり、六月は60年安保の記憶と結びついて、ある世代以上の人の脳裏に刻印されている。岸上の歌では紫陽花が色を変えるという特徴に焦点を当てて、それを思想的変節と呼応させているのだろう。
 『岩波現代短歌辞典』によると、紫陽花は日本原産であり、古来から日本にあった花だが、古歌ではあまり詠まれていないという。近代になってから好んで短歌に詠まれるようになったようだ。原種は現在目にする紫陽花よりも地味な額紫陽花で、人の目につきにくかったからかもしれない。大きな花をつける今の紫陽花は品種改良の成果である。紫陽花寺と呼ばれる名所もあるくらい好まれる花だが、紫陽花には路地が似合うような気がする。民家の建ち並ぶ路地の軒先でひっそりと咲くのがふさわしい。
 『角川現代短歌集成』の第3巻「自然詠」にも、千勝三喜男編『現代短歌分類集成』にも紫陽花の歌が多く収録されているが、よく見るとほとんど重複する歌がない。それほど現代短歌では紫陽花がよく詠まれているということだろう。紫陽花で焦点化されるのは、その球形の花の様子と、花の色が変化するという特徴と、何より雨の中で咲くという点だろう。
紫陽花のその水いろのかなしみの滴るゆふべかなかなのなく
                          若山牧水
あぢさゐのおもむろにして色移るおほかたの日数雨に過ぎつれ
                             吉野秀雄
あじさいはあわれほのあかく移りゆく変化へんげの花と人のすぎゆき
                          坪野哲久
 牧水の歌では紫陽花に降る雨が「かなしみの滴る」と表現されている。吉野と坪野の歌は花の色の変化に焦点を当てている。NHK衛星放送で放映されている「美の壺」という番組で知ったのだが、紫陽花の色の変化は色素が土中のアルミニウムと結合することで起きるもので、最初は青く次第に赤に変化するそうだ。だから「ほのあかく移りゆく」なのである。
光なき玻璃窓一めんにあぢさゐの青のうつろふ夕ぐれを居り  五味保義
あぢさゐの花をおほひて降る雨の花のめぐりはほの明かりすも
                          上田三四二
紫陽花のぼくのうへなる藍いろとみどりまじはりがたく明るむ
                           小中英之
 梅雨時の雨に降り込められた庭は昼間でも薄暗い。そんななかで咲く紫陽花は明るさの点景として捉えられる。五味の「光なき玻璃窓」はまるで額縁のように紫陽花を映している。上田と小中の歌では、紫陽花がぼんぼりのように灯りを点した姿で描かれている。
戸口戸口あぢさゐ満てりふさふさと貧の序列を陽に消さむため  浜田到
どの家も紫陽花ばかりが生き生きと貧しき軒を突き上げて咲く
                           長谷川愛子
 上の二首は珍しく紫陽花の社会詠とでも呼ぶべき歌である。紫陽花が一面に咲くと玄関口の貧富の差が隠れてしまう。長谷川の「貧しき軒」が並んでいるのは、古くて小さな民家が密集して建つ路地にちがいない。余談ながら、私はタモリにならって坂道探訪を趣味としているが、最近、それに階段と路地が加わり、小林一郎『横町と路地を歩く』という本まで買ってしまった。暗渠と廃墟にも食指が動くが、なかなかそこまで手が回らない。
美しき球の透視をゆめむべくあぢさゐの花あまた咲きたり  葛原妙子
昼の視力まぶしむしばし 紫陽花の球に白き嬰児ゐる
斑らなるひかり散りゐて紫陽花はつめたき熱の嚢とぞなる
 好んで紫陽花を詠んだ歌人に葛原妙子がいる。幻視の女王の異名を取るくらいだから、葛原の歌では視覚が優位であり、とりわけその花の球形であるところを好んだようだ。「球の透視」とは占いの水晶玉の連想だろうか。
観る人のまなざし青みあぢさゐのまへうしろなきうすあゐのたま
                            高野公彦
廃駅をくさあぢさゐの花占めてただ歳月はまぶしかりけり  小池光
 高野の歌は『短歌研究』6月号で小島ゆかりが「四季のうた」で取り上げていた歌である。小島は「まへうしろなき」という発見を強調していたが、私はむしろ「観る人のまなざし青み」のほうに感心した。紫陽花を見ている人のまなざしが青みがかるというのだが、現実にそのようなことが起きるわけではない。しかしそのようなことが起きてもおかしくないほど、紫陽花の藍が鮮やかなのである。
 紫陽花というと冒頭に挙げた福島の歌と上の小池の歌が頭に浮かぶ。福島の歌を最初に見たときは「ジョジョー」が「抒情」のことだとわかるのに少し時間がかかった。小池の歌は収録されている歌集『廃駅』のタイトルにもなった歌で、小池の代表歌と言ってもよい。「廃」には、廃墟、廃市、廃校、廃坑、廃位などに見られるように、哀れさとノスタルジーが付きまとう。廃駅に咲いているのは大輪の栽培種ではなく、花の小さな草紫陽花でなくてはならない。この歌の主題は「時間」なのだが、廃駅に草紫陽花を配して時間を感じさせたところがこの歌の魅力の秘密だろう。