第145回 穂村弘編『短歌ください 2』

みんな違う理由で泣いている夜に正しく積まれるエリエールの箱
                   たかだま(女・21歳)
 きっとあまり注目されないだろうから、最初にここに書いておくが、澤村斉美の歌集『galley ガレー』(青磁社)が、第48回造本装幀コンクールで最高賞の文部科学大臣賞を受賞した。私も知らなかったが、このコンクールは日本書籍出版協会が、出版文化振興のために毎年開催しているのだそうだ。装幀を担当した濱崎実幸のインタビューが朝日新聞に載っていた。それによると、カバーには印刷所に嫌われることは承知で、手に吸い付くような感触の紙を用いたそうで、また単調さを避けるために、16ページごとに色の異なる紙を使ったという。改めて本の小口を見ると、確かにそうなっている。微妙な所に工夫が施してあるわけだ。ちなみにこのコンクールでは、堂園昌彦の『やがて秋茄子へと到る』(港の人)が日本印刷産業連合会会長賞を受賞している。このコラムでも造本の美しさを褒めたので、受賞は喜ばしいことである。
 こちらで受賞者一覧を見ることができるが、おもしろいことに、書名・装幀者名・出版社名・印刷所名・製本会社名だけが載っていて、作者名がない。本の中身ではなく、物理的実体としての外側だけが評価の対象になるからだろう。私たちはふだんそのような目で本を見ていないので、地軸が数度傾くような感覚を覚えるが、なるほど本は著者だけのものではないのだと納得もするのである。

 穂村弘編『短歌ください その二』が出た。雑誌「ダ・ヴィンチ」の連載企画から生まれたもので、2011年に最初の巻が出版され、このコラムでも取り上げた。最初の巻のあとがきで穂村が書いているが、一般読者から題詠を募集するという企画を考えたとき、ほんとうに投稿が集まるのか不安だったという。ところが案に相違して多くの投稿が集まり、第二巻まで出版されることになったのだから、世の中に潜在的短歌作者はたくさんいるということなのだろう。そのほとんどは伝統的な結社とは無縁の人である。ブンガク魂は意外に多くの人の心に宿っているということか。もちろん投稿者の全員が短歌の素人というわけではなく、第一巻には後に歌集『春戦争』を出す陣崎草子、『かたすみさがし』の田中ましろがいたし、『つむじ風、ここにあります』の木下龍也も常連である。この人たちの多くは「かばん」の同人なので、「ダ・ヴィンチ」の投稿欄が穂村の選歌欄と見なされているのだろう。読書家として知られているピースの又吉直樹も「くす玉の残骸を片付ける人を見た」という歌が一首選ばれている。短歌というより自由律俳句に近い。
 おもしろいと思った歌をいくつか引いてみよう。
どこにでも行ける気がした真夜中のサービスエリアの空気を吸えば
                       木下ルミナ侑介
顔文字の収録数は150どれもわたしのしない表情
                  一戸詩帆
ホームと車体とを他者にした闇によだれを垂らす聖者は8歳
                     冬野きりん
煮え切らぬきみに別れを告げている細胞たちの多数決として
                      九螺ささら
味の素かければ命生き返る気がしてかけた死にたての鳥に
                     九螺ささら
エックス線技師は優しい声をして女の子らの肺うつしとる
                     猿見あつき
みそ汁に口を開かぬしじみ貝はじめて母に死を教わりぬ
                     麻倉遥
だしぬけに葡萄の種を吐き出せば葡萄の種の影が遅れる
                     木下龍也
結界のように真白い冷蔵庫ミルクの獣臭も冷やして
                     高橋徹平
冬の朝窓開け放ちてあおむけば五体にひろがりやまぬ風紋
                      寺井龍哉
 付箋の付いた歌を改めて見直すと、ネット短歌などですでに活躍している人が多い。木下侑介はいつのまにか「ルミナ」というミドルネームが付いている。一戸詩帆は朝日歌壇賞の受賞者である。寺井龍哉は本郷短歌会に所属し、今年の「短歌往来」7月号の「今月の新人」欄に歌を載せている。付箋が付くのはどうしても、このような手練れの人たちになってしまう。今回いちばんたくさん付箋が付いたのは木下ルミナ侑介だった。
水筒を覗きこんでる 黒くってきらきら光る真夏の命
                       木下ルミナ侑介
カッキーンって野球部の音 カッキーンは真っ直ぐ伸びる真夏の背骨
夏の朝体育館のキュッキュッが小さな鳥になるまで君と
君の手のひらをほっぺに押しあてる 昔の日曜みたいな匂い
 いずれも爽やかな青春歌である。いつもの癖でついついこういう歌に付箋を付けてしまうが、素人投稿欄でおもしろいのは素人ならではの破壊力を備えた歌だろう。
エスカルゴ用の食器があるのだし私のための法で裁いて
                      麻倉遥
君を待つ3分間、化学調味料と旅をする。2分、待ち切れずと目を覆い、蓋はついに暴かれた。                   せつこ
鉄分が不足しているその期間車舐めたい特に銀色
                  九螺ささら
アリよ来い迷彩アロハシャツを着た俺が落とした沖縄の糖へ
                        小林晶
 一首目では自分だけの法を要求する根拠にエスカルゴ用の食器を持ち出すところがおもしろい。タコ焼きを焼くような穴のあいた陶器のことだろう。二首目は最初読んだとき、何のことだかわからなかった。穂村の解説によれば、これはカップ麺に湯を注いで3分間待てずに、途中で蓋を開けて食べてしまった場面だという。大幅な字余りと暴走感覚がすごい。三首目、妊娠中や生理のときには、味覚や嗅覚が変化すると聞いたことがあるが、それにしても車を舐めたいとは奇想天外である。「特に銀色」が効いている。四首目もおもしろい歌で、「沖縄の糖」はふつうに考えれば、沖縄名産の黒糖かサトウキビジュースか、あるいはそれらを用いたアイスクリームだろう。作者は女性なのだが、「アリよ来い」という力強い呼びかけといい、意味を読み込みたくなる歌である。

 とまあ楽しんで読んだ一冊だったが、途中から思考はあらぬ方角へ彷徨い始めた。投稿された短歌のほとんどが、日頃読み慣れている近代短歌とどこか決定的に違うと感じたからである。投稿作品のほとんどは口語短歌だが、私が感じた違いは文語と口語の差ではない。もっと深い場所にある違いなのだが、その違いを言語化するのに時間を要した。
 投稿された短歌の多くは「あるある系」の歌なのだ。日頃注意を払うことはないが、改めて指摘されると「ああ、そういうことあるよね」と共感を呼ぶ。この共感が歌の眼目となっている歌のことだ。たとえば次のような歌がそうだろう。
ラーメンを食べてうとうとしているとゴールしていた男子マラソン
                        綿壁七春
試着室くつを脱ぐのかわからない わからないまま一歩踏み出す
                        竹林ヾ来
ドアの隙間に裏の世界が見えました線対称な隣の間取り
                        弱冷房
 「あるある系」の歌とは「共感系」の歌だと言ってもよい。その構造は「何かの出来事に遭遇した私」を中核として構成される。一首目ならばうとうとしてゴールを見逃した私で、二首目では試着室でうろうろしている私、三首目では団地の隣の部屋をドアの隙間から見た私である。一首全体が「何かの出来事に遭遇した私」という単層構造になっている。
 では近代短歌はどうか。ランダムに引いてみよう。
冷蔵庫にほのかに明かき鶏卵の、だまされて来し一生のごとし
                        岡井隆
睡りゐる麒麟の夢はその首の高みにあらむあけぼのの月
                       大塚寅彦
死は道に落ちていたりきあるときはこがねむしの緑光として
                       吉川宏志
 岡井の歌が描く情景は、夜の台所で冷蔵庫を開けたときの卵ケースである。この情景をAとしよう。情景が描かれているということは、潜在的に知覚主体がいるということで、知覚主体をBとする。するとB (A) という関係が成り立つ。AはあくまでBの知覚として成立する事態である。次に「だまされて来し一生のごとし」という感慨はBの抱いたもので、これをCとすると、B (C) となる。するとこの歌の構造は次のように表示できる。

 B (A)
 │
 B (C) 

 ふたつの式をつなぐ縦棒が喩である。しかもこれに加えて岡井の歌には、情景内部の主体Bのほかに、「だまされて来し一生のごとし」と感じているBを外から見ているもう一つの主体Dがある。Dがなければこれは歌にならず、一時の感慨で終わってしまう。D≒Bだが完全に同じものではない。すると上の式は次のように書き換えられる。

  ┌ B (A)
D │ │
  └ B (C) 

 大塚と吉川の歌にもほぼ同じことが言える。大塚の歌ではA=「あけぼのの月」、C=「睡りゐる麒麟の夢はその首の高みにあらむ」で、吉川の歌ではA=「こがねむしの緑光」、C=「死は道に落ちていたりき」である。要するに近代短歌、および近代短歌の流れを汲む現代短歌は、複層構造でかつ複線構造になっているのである。B (A) とB (C) とが複線であり、それらとDとが複層をなす。このような複雑な内部構造になっているからこそ、31文字という限られた言語空間に複雑な意味を盛ることができるのだ。
 これにたいして上に引いた「あるある系」もしくは「共感系」の歌は、単線構造であり同時に単層構造だということに注意しよう。これらの歌の眼目は「そんなことあるある」という共感に訴えることであり、そのためには「昨日こんなことがありました」ということを即物的に提示したほうがよいのである。大事なのはAであり、Bはいてもいなくてもよく、Dは端的に必要ない。なぜなら歌が呼び出す共感は、受け手(読み手)の側に期待されているのであり、送り手(書き手)は相手の陣地にボールを投げるだけでよいからである。
 「あるある系」の歌がしばしば構造的に平板に見えるのはこのような理由による。それは共感という意図された目的により選択された形と言えるだろう。これにたいして、近代短歌と近代短歌の流れを汲む現代短歌は、複層構造かつ複線構造を好むのだが、それは歌の目的が「あるある」という共感ではないからだろう。共感でないとしたら歌の目標は何か。それは文学空間において屹立することである。