第148回 中川佐和子『春の野に鏡を置けば』

無差別は格闘技ではなく殺傷の島国に藤の花房垂るる
           中川佐和子『春の野に鏡を置けば』 
   格闘技の無差別級は、体重制限による階級制のある格闘技で、体重を問わない階級を意味するが、実際は最重量級のことである。掲出歌は無差別殺傷事件を詠んだもので、おそらく2008年の秋葉原での事件だろう。次に「死ぬときに握っていたい手があるかダガーナイフの閃く日本」という歌が配されている。こちらはかなり直截な詠み方になっているが、掲出歌はより間接的である。日本と名指さずに島国とし、藤の花を配して季節感と死を悼む気持ちを滲ませている。この「滲ませる」というスタンスが短歌では重要で、中川はこの手法がうまい。短歌は政治的なスローガンではなく抒情詩である。作者には社会詠が少なからずあるのだが、このスタンスを外れることがないのが特徴的と言えるだろう。
 『春の野に鏡を置けば』は『霧笛橋』に続く第五歌集で、2007年から2012年までに制作された歌をほぼ編年体で納めている。中川は「未来」所属だが、「未来」の中では前衛的傾向や表現志向が薄い歌人で、「コスモス」や「心の花」所属だと言われてもおかしくはない。もともと河野愛子に憧れて短歌の道に入ったので、「アララギ」から「未来」の系譜に連なる位置にいると考えられる。
 一読して感じるのは、中川が短歌において目ざしているのは、現実(出来事)を詠むのではなく、現実(出来事)に接したときに生じる心の襞なのではないかということである。この世には自分の身に直接降りかからないことも含めて、毎日さまざまな出来事が起きている。それらの出来事はその大小にかかわらず、人の心に波紋を起こす。物理法則に作用と反作用があるごとく、出来事の作用は人の心に反作用を引き起こす。中川の短歌はそのように心に生じた波紋をていねいに掬い上げている。例えば次のような歌である。
人体に正しい野菜作りだす野菜工場よろこぶべきか
数本の管に繋がれ生終えし父を思へば明日はわれら
割箸が家にだんだん増えてゆく邪魔にならないはずの割箸
自販機にカット林檎が売り出される東京メトロ霞ヶ関駅
駅前の街路樹の雀去らしめて難民とせり冬の電飾
 一首目は無菌の野菜工場、二首目は病院で延命治療を受ける姿、三首めはコンビニ弁当を買うたびに増えてゆく割り箸、四首目は地下鉄の自販機でカット林檎が販売されるというニュース、五首目はどこの繁華街も冬には電飾を飾るようになり、そのためにねぐらを追われるスズメを詠んでいる。作者自身の体験もあれば、TVニュースのこともある。いずれも社会的な大事件ではないが、接する人の心に波が立つ。それを声高になることなく抑制して詠むところに中川の基本的スタンスがある。
 波風は作者自身に及ぶこともある。あとがきによれば、自身二度にわたる手術を経験し、夫君も同様に二度手術を受けている。
アキレス腱切ってしまってこうなればこうなるのかと病室のなか
松葉杖つく日々なれば不機嫌な四本足の生き物として
健康な人らのための駅ゆえにエレベーターまで大回りとなる
 先日私も不注意から左腕を負傷したのでよくわかるが、そうならないとわからないことがある。片腕が使えないと、食事・入浴・着替えのひとつひとつがままならない。上に引いた歌はそのような認識と狼狽がよく出ている。単に事実を述べるのではなく、コトに接した時の〈私〉が至る所にいる。それは最初に引いた歌群では、「よろこぶべきか」「邪魔にならないはずの」や、上の歌の「こうなるのか」などの措辞によく現れている。「べき」や「はず」などは、言語学ではモーダル表現と呼ばれている。文の表す意味内容に対する話し手の判断を表す言語要素である。疑問や否定などもこの範疇に入る。モーダル表現は話し手、つまり〈私〉を前景化する。読んでいて〈私〉の存在が強く感じられるのである。中川の歌を読んでいると、「自販機にカット林檎が売り出される東京メトロ霞ヶ関駅」のように表面上はモーダル表現が見られない歌においても、潜在的に「これはほんとうによいことなのだろうか」というモーダル表現が隠れているように感じられるのである。
 歌意の取れない歌が非常に少ないのも中川の短歌の特徴だろう。定型へと落とし込む技量はまぎれもない。また近くに住む母親の老いを見つめる歌も身につまされる。集中では次の歌に特に美質が現れていると思った。
この世からうすく離れてランニングマシーンに乗りぬ棚曇る午後
生きる身は犇めき合って出棺を待てり白梅ひらく真昼間
ラ・フランスの滑らかな線に沿うごとき言葉を交わす夜のはじめに
歳月の火影に見えてくる鳥よ一羽ずつその空負いながら
男物扇子が電車の席にあり春のひとつの謎のごとくに
邪魔になる感じというのがよくわかる白皿にのる疲れたパセリ