歌集を手にするとき、とりわけ作品を初めてまとめて世に問う第一歌集を読むときは、作者がどのような立ち位置に身を置いて世界を眺めているのか、世界を構成する素材のうち何に着目しているのかという切り口で歌を読むと、その作者の拠って立つ世界観が見えてくることが多い。そのような目で本歌集を眺めると、作者の眼差しはとりわけ光と風と時間の移ろいに注がれていることがわかる。
さてここで『風のむすびめ』というタイトルについて考えてみると、詩的でありながら不思議なタイトルである。風は大気の運動であり、物理的実体を持つものではない。そんな風にむすびめがもしあるとするならば、それは風という客体側にあるものではなく、風を感じている主体側、すなわち〈私〉の側にあると推測される。感じる主体としての〈私〉の側から見れば、風は常に〈私〉に吹いている。確かに遠くの葉群が揺れていれば、「あそこに風が吹いている」と知ることはできるが、それは認識であり体験ではない。〈私〉が感じる風は常に〈私〉に向かって吹く風である。だから「風のむすびめ」とはとりもなおさず、四方八方に吹く風の結節点としての〈私〉にほかならない。そしてそれは単に風のみに留まるものではなく、作者が歌に詠む光や雨や水の流れにも言えることであり、つまるところ森羅万象が一点に収斂する焦点としての〈私〉ということになろう。作者の歌における立ち位置とはこのようなものである。
短歌史という大きな流れの中に置いてみると、紀水の短歌は自我の詩としての近代短歌の中に位置づけられるとまずは言えよう。しかしながら明治・大正・昭和初期の近代短歌に見られる抒情の主体もしくは生活の主体としての輪郭のくっきりした〈私〉は紀水の歌には希薄なようである。
紀水が光や風や時の移ろいにとりわけ惹かれる理由もこれでわかる。これらは特に現象的特質が顕著だからである。しかしさらにもう一段階考察を進めてみれば、近代以前の古典和歌の作者たちもまた、〈私〉とは現象にすぎないと考えていたのではなかろうか。もしそうだとすれば、紀水の短歌は近代短歌を飛び越して、古典和歌の世界へと架橋するものと見ることもできる。短歌が千数百年にわたって連綿と続いてきた短詩型であることを考えれば、それも不思議なことではない。
水滴は濡れる春野の乳色を映し子どものやうに揺れをり歌集冒頭近くに並んでいる歌を引いたが、これらの歌に通底する感性を感じることができる。一首目、春の雨粒か露の水滴にクローズアップする視野があり、水滴に乳色の春の野が映っている。水滴が揺れているのは微風があるからだろう。静止画でありながら、水滴の揺れによって微細な時間の経過が感じられる。二首目はもっとはっきり時間の流れがあり、蜂の羽音に促されるように花が開く様が詠まれている。ここにあるのは都市に暮らす現代人の性急な時間ではなく、ゆったりと流れる時間である。三首目にもまた揺れがあるが、今度は光である。太陽光の届く浅い海底かと思われるが、このように歌われることによって、媒体なくして存在しえない光が自立的に存在するかのようだ。四首目、子どもの遊びか、シャボン玉の球面に秋が映っている。シャボン玉の震えが表す小さな時間と、「空渡りゆく」というおおらかな措辞が示す大きな時間の両方が封じ込められており、詩的完成度が高い歌である。
花群は蜂の羽音に開きゆくスローモーションビデオのやうに
水底の珊瑚の砂にゆらゆらと光の網が絡み揺れをり
ふるふると震ふシャボンの薄膜に空渡りゆく秋の映ろふ
みぬちなる音盤は風にほどけゆき雪ふる空のあなたへ還る風が詠まれている歌を引いた。見てすぐわかるように、風は作者にとって肯定的価値を持つアイテムである。体を凍えさせたり、思い出を吹き飛ばしたりするような、否定的価値を持つものではない。このことは歌集に『風のむすびめ』というタイトルを付けていることからもわかる。作者にとって風は、内なる音楽をかき立てたり、紙風船を膨らませたり、懐かしい子供時代や青春期に頭上を吹いていたりするものである。
しぼんでた紙ふうせんをふくらます五月の明るい風をとらへて
あのころの風が写ってゐるやうだすぢ雲のある青い空には
さてここで『風のむすびめ』というタイトルについて考えてみると、詩的でありながら不思議なタイトルである。風は大気の運動であり、物理的実体を持つものではない。そんな風にむすびめがもしあるとするならば、それは風という客体側にあるものではなく、風を感じている主体側、すなわち〈私〉の側にあると推測される。感じる主体としての〈私〉の側から見れば、風は常に〈私〉に吹いている。確かに遠くの葉群が揺れていれば、「あそこに風が吹いている」と知ることはできるが、それは認識であり体験ではない。〈私〉が感じる風は常に〈私〉に向かって吹く風である。だから「風のむすびめ」とはとりもなおさず、四方八方に吹く風の結節点としての〈私〉にほかならない。そしてそれは単に風のみに留まるものではなく、作者が歌に詠む光や雨や水の流れにも言えることであり、つまるところ森羅万象が一点に収斂する焦点としての〈私〉ということになろう。作者の歌における立ち位置とはこのようなものである。
短歌史という大きな流れの中に置いてみると、紀水の短歌は自我の詩としての近代短歌の中に位置づけられるとまずは言えよう。しかしながら明治・大正・昭和初期の近代短歌に見られる抒情の主体もしくは生活の主体としての輪郭のくっきりした〈私〉は紀水の歌には希薄なようである。
あふぎみる花梨の空の深みまでしんと冷やせりのど飴ひとつこれらの歌を読んで後に残るのは、ただ残像としての喉の冷えや鴉の声や白鳥の光であり、それらを感じているはずの〈私〉は光や声の中に溶解してしまうかのようである。それは紀水が〈私〉を世界を高みから睥睨する不動の地点として捉えているのではなく、風が吹けばそこにしばらく生じてまた消えてしまう「むすびめ」と感じているからであろう。そのような把握においては、〈私〉は近代思想の根底をなすデカルト的主体ではなく、〈私〉もまたひとつの現象とみなされることになる。これが紀水の短歌に通底する認識ではないかと思われる。
ゆふやみへ消ゆる鴉のフェルマータ呼ぶ声たかくとほくをはりぬ
ハクチョウは飛ぶ舟のやう散らされたひかりのなかを昇りゆきたり
紀水が光や風や時の移ろいにとりわけ惹かれる理由もこれでわかる。これらは特に現象的特質が顕著だからである。しかしさらにもう一段階考察を進めてみれば、近代以前の古典和歌の作者たちもまた、〈私〉とは現象にすぎないと考えていたのではなかろうか。もしそうだとすれば、紀水の短歌は近代短歌を飛び越して、古典和歌の世界へと架橋するものと見ることもできる。短歌が千数百年にわたって連綿と続いてきた短詩型であることを考えれば、それも不思議なことではない。
中部短歌会『短歌』2014年8月号に掲載