第158回 梶原さい子『リアス / 椿』

ああみんな来てゐる 夜の浜辺にて火を跳べば影ひるがへりたり
                  梶原さい子『リアス / 椿』
 作者の梶原は塔短歌会所属の歌人で、宮城県で高校の教員をしている。昨年 (2014年)の5月に上梓された『リアス / 椿』は第三歌集。作者は勤務先の高校にいたときに、東日本大震災に遭う。実家は気仙沼市唐桑にあり、一帯は大きな震災被害を受けた。本歌集には震災前に作られた歌と後にできた歌が、第一章「以前」と第二章「以後」の二章に別れて収録されており、あの震災と津波によって作者の人生が「以前」と「以後」にきっぱりと二分されたことを強く窺わせる。
 本歌集の圧巻は地震と津波到来時の様子を詠んだ「その時」と題された一連だろう。
来る。来る、来る、重き地鳴りにこみ上ぐる予感なりただ圧倒的な
倒れうるものはたふれて砕けうるものはくだけて長き揺れののち
校庭に地割れは伸びて雪の飛ぶ日暮れを誰も立ち尽くしをり
津波、来てゐる。確かに、津波。どこまでを来た。誰までを、来たのか。
 作者は塔の歌風である写実に立脚した端正な文語定型歌を作る歌人なのだが、「その時」の一連の歌のなかには大きく定型を外れたものがあり、それがかえって「その時」の緊迫感を強い臨場感とともに伝えている。一首目と四首目にそれが強く出ており、特に四首目の結句の「誰までを、来たのか」には、実際に津波被害に遭った人でなくては書くことのできない生々しいリアル感がある。
甥つ子を二階の窓より投げて受けて山を上へと駆けのぼりたり
地獄だと言ひてそののちおとうとの携帯電話は繋がらざりき
お母さんお母さんと泣きながら車で行けるところまでを行く
安置所に横たはりたるからだからだ ガス屋の小父さんもゐたりけり
配給のエビカツやつて来たりけり白身の中に赤身の混じる
 思わず息を呑む歌だが、重大な体験を詠むなかにも、作者が確かな短歌的技術を凝らしていることにも注意すべきだろう。たとえば一首目の「投げて受けて」の動詞のテ形の連続や「山を上へと」という表現によって、津波が迫っていて時間がないという緊迫感がよく出ている。また五首目の「白身の中に赤身の混じる」のリアル感覚は、日頃からモノに即した観察による写実を旨とする作者ならではだろう。
 この歌集を全体的に俯瞰すると、いろいろ問題を抱えながらもそれなりの日常を送っていた作者が、「その時」によって非日常の奈落に突き落とされ、時間とともに少しずつもとの日常を取り戻してゆく展開になっている。そのプロセスで重要なのは慰撫と鎮魂であり、そのいずれにも短歌が大きな役割を果たしていることには意味がある。人は思いを吐き出すことによって慰撫され、鎮魂の祈りを捧げることで悲しみを昇華するからである。これこそが文学の魂に他ならない。
ありがたいことだと言へりふるさとの浜に遺体のあがりしことを
入学式ができるしあはせ言ひながら式辞・祝辞・代表のあいさつ
流れ着くすべてのものがあの波の記憶のままに目開きてをり
受け取ることの上手ではなき人々があらゆるものをいただく苦しみ
 一首目、せめて遺体が上がるのがありがたいことだと言う人の悲しみに胸を突かれる。二首目のように、4月を迎えて入学式はなんとか行うことはできたが、いまだ日常は遠いかなたにある。四首目は読んではっとする歌だ。震災の後、全国から救援の手が差し伸べられたが、人からもらう苦しみを詠えるのは当事者だけにちがいない。
 この歌集を通読して最も心を打たれるのは、鎮魂の果てに悲しみが昇華され、それが神話的な空間に結晶したかに見える歌である。
潮を汲む 透きとほりたる腕を足をひらきしままのくちびるを汲む
従叔父をぢはこなた従叔母をばはかなたの湾の底 引き上げられて巡り逢ひたり
夜の浜を漂ふひとらかやかやと死にたることを知らざるままに
水底に根を降ろしたる死者たちのほのかに靡くひとところあり
 一首目は震災から半年ほど経た秋の神社の祭りの様子である。お神輿を船に載せて潮を汲む儀式を詠っている。津波に流されて戻って来ない人々が、「透きとほりたる腕を足をひらきしままのくちびる」と形象化されているのが美しく悲しい。二首目はもうほとんど神話の世界で、上句の対句構造が歌の神話性を高めている。最初に上げた掲出歌もこの部類に入り、上の三首目と似ていて、死者たちが亡霊となってこの世を彷徨っている姿である。岡野弘彦の「またひとり顔なき男あらはれて暗き踊りの輪をひろげゆく」という歌を彷彿とさせる。四首目は実は震災前の歌で、三陸海岸は過去に幾度も津波被害を受けており、その犠牲者に思いを馳せた歌なのだが、たくまずして過去の死者を詠って現在の死者に捧げる歌となっている。
 このように本歌集は、亀裂と修復、つまりは魂の死と再生の書であり、これこそが古今東西の文学が追究してきた永遠のテーマである。文学に効用ありとせば、この一点を措いて他にはない。この歌集を読むと、歌が魂の死からの再生にいかに力を持つかを実感することができる。それを前にしては、新しい表現の追求など何ほどのこともない。
 このように感じるのは最近胸ふたぐことが多いからかもしれない。私は昨年秋から大学で役職に就いたため、文部科学省や中央教育審議会など、要するに「お上」と「省庁」の情報にじかに触れることになった。阿倍政権下で大学は「日本経済再生の資源」と位置づけられて、「国立大学ではもう文科系の学部はいらない」などと公然と語られているのである。大学は経済界に使いやすい人材を供給すればよいということなのだ。「大学は学問の府であり、経団連のご用聞きではない」とじかに言ってやれないのが口惜しい。そんなときに本歌集を繙くと、荒野に泉を見つけたごとくに、あらためて文学の持つ大きな力に勇気づけられる思いがするのである。