第16回 吉川宏志『風景と実感』批評会始末

 今週は学務多忙により歌人論を書く時間が取れなかったので、先日の吉川宏志評論集『風景と実感』批評会のレポート風の実録でお茶を濁すことにしたい。学務多忙とはいったい何をしていたのかというと、来年度のフランス語科目の時間割を作成し、非常勤講師の手配をしていたのである。大学教授がそんな仕事をするのかと驚かれる向きもあるかもしれないが、これがするのですね。国立大学法人は国からの交付金を毎年を1%ずつ削減され、事務職員の定員も減らされているので、事務仕事が私たちの肩に重くのしかかっている。研究は空いた時間にしているのが実情だ。
  それはさておき、去る平成20年9月27日に京都のみやこメッセで、吉川宏志さんの待望の評論集『風景と実感』の批評会が開かれた。私は川野里子さんと松村正直さんとともにパネリストを務めた。当日は快晴で絶好の批評会日和となった。
 打ち合わせのため12時にみやこメッセ1Fのレストラン「浮舟」に行く。すでに吉川宏志さん、奥さんの前田康子さん、お嬢さんのさやちゃん(小学生ですでに「塔」会員で詠草も出している)、司会の松村さん、それにオーガナイザーの江戸雪さん、批評会第一部に登場する花山周子さんとご母堂の花山多佳子さんが集まっておられる。みなさん初対面で、一斉に紹介されどぎまぎする。私は歌壇の外部にいてふだんは歌人の方々とお付き合いがないので、どこに行ってもアウェー感を強く感じてしまう。どぎまぎする理由は他にもある。歌集をていねいに読み込むと、作者の心の秘密の部分に触れることがある。生身の作者ご本人にお会いすると、初対面にもかかわらずその人の心の秘密を知っているという、非常に居心地の悪い立場に立たされることになるのである。私はこの居心地の悪さにどうしても慣れることができない。歌人のみなさんはどう対処しておられるのか知りたいものだ。
 そうこうするうち、川野里子さんと発起人の一人青磁社の永田淳さんも遅れて現れて、みんなでカレーライスやざる蕎麦など食べながら、かんたんな打ち合わせをする。その間、第一部で吉川さんと一対一で質疑応答をすることになっている花山周子さんは、少し離れた席でコーヒーを呑みながら煙草をひっきりなしにふかしている。極度に緊張していて食事も喉を通らないのだ。江戸さんにうかがうと今日の参加者の8割は「塔」の会員だという。この分ではもし吉川さんを批判したりしたら袋叩きに合いそうである。
 そろそろ移動ということになり、みんなトイレに行ったりばらばらに会場に向かう。大きな施設なので迷いそうになるが、要所要所に澤村斉美さんや西之原一貴さんたち「塔」のメンバーが立って道案内して下さる。みんなで役割を分担して今日の会を支えているのだ。結社の結束力恐るべし。
 第一部は歌集『屋上の人屋上の鳥』で注目された若手歌人花山周子さんが、吉川宏志さんに質問するQ&A形式で行われた。花山さんは緊張しながらも吉川さんに批評集の意図などについて質問し、吉川さんもていねいに答えていたように思う。なかでも「問いがあって書くのではなく、書いてから問いが見つかり、自分はこれが書きたかったのかと思うことがある」という吉川さんの発言が印象に残った。また短歌創作を通じて自然の美しさも人に伝えたいと述べておられた。
 第二部はパネリストの報告と議論という形式で、松村正直さんの司会進行で進められた。川野さんは次のような基調発言をなさった。『風景と実感』を理解するキーワードは風景ではなく実感の方で、今、実感への渇望が広がっているように思う。その意味で吉川と穂村弘の認識のベースは共通だろう。ただちがいは、吉川が実感の回復へと向かうのに対して、穂村は出口を求めてあがいている。穂村は短歌を世界にぶつけた時の瞬間のきらめきに賭けるため、時間性は解消される。これに対して吉川は近代に根を下ろして時間性を抱えこむので、どうしても吉川の方が不利になる。(要約ここまで)
 世代的に近く作風が対照的な穂村弘と吉川さんは、よく比較対照されて論じられることが多い。「俺は穂村とはちがうよ」と内心で思っているにちがいない吉川さんからすると、この扱いは不本意なことかもしれない。
 次に私が発言したが、その全文は別項を見ていただきたい(ホームページのtopからリンクあり)。私は吉川さんが本書でこだわっている「実感」と「身体性」を取り上げて、短歌はコトバでできているにもかかわらず、どうしてそこに「実感」と「身体性」が感じられるのかという問題を、認知言語学とアフォーダンス心理学の考え方に基づいて明らかにしようとした。これは私が以前から目論んでいる企ての一環で、言語学が開発してきた概念を援用して短歌の意味生成のメカニズムを解明してみたいと思っているのだ。しかし後で聴衆の方々から、「講義を聴いているようでした」という感想が寄せられたので、私は「修行が足りん」と内心大いに反省した次第である。
 次に松村正直さんは、短歌総合誌などで『風景と実感』を取り上げた論評などをたくさん引用して、本書がどのように受け止められたかを紹介された。松村さんは本書のいちばん脆い部分は、心理学や哲学を援用している第一章の「実感とは何か」だと指摘された。大辻隆弘さんも、吉川さんが「実感」に最も迫っているのは、第一章の理論編ではなく、歌人論だと述べておられたことがある。これは考えさせられる指摘である。
 その後ひとしきりパネリスト同士での議論が行われたが、私の印象に特に残ったのは川野さんの次のような発言だった。近代リアリズムは賞味期限切れである。しかしみんなそれに替わる方法論を見いだすに至っていない。茂吉は明治期の短歌革新において人麻呂を抱え込み、その落差をみずからのエネルギーとした。それにひきかえ吉川は『風景と実感』では明治期までしか遡っていない。これでは革新のエネルギーを得るには時代的に落差が短すぎるのではないか。(要約ここまで) 短歌を大きな視野から眺めている川野さんならではの言葉だと感じた。
 続いて司会者の指名により、会場からの発言が続いた。コスモスから鈴木竹志さんと大松達知さんが、「塔」応援団一号と二号と自己紹介されて会場を笑わせた。その他、発言したのは島田幸典さん、斉藤斎藤さん、石川美南さん、大辻隆弘さんなど。最後に俳人の坪内稔典さんが、「吉川さんを始めとして、みなさんお利口すぎる。もっとバカになりなさい」と会場を沸かせた。「桜散るあなたも河馬になりなさい」「三月の甘納豆のうふふふふ」などという俳句を作っている人らしい発言である。会場のみんなは笑って済ませたようだが、私は内心では重い言葉だと受け止めた。昔から伝統的文芸に関わって来た人には今の歌人・俳人がお利口すぎると見えるところに、伝統文芸が近代的文学に解消しきれない何かがあるのだろう。
 最後に永田和宏さんが挨拶をして批評会を締めくくった。批評会の前日に東京で短歌研究賞・短歌研究新人賞・短歌評論賞の授賞式があったのだが、出席していた永田さんが短歌研究賞を受賞した穂村弘の受賞の挨拶を紹介された。「自分は今まで〈てにをは〉には気を配らずに歌を作って来たのだが、これからは〈てにをは〉に気を配って歌を作りたい」と穂村は言ったらしい。これを聞いて「今まで気にしなかったんかい!!」と心の中でツッコミを入れた人は多かろう。
 批評会は終了し、懇親会まで少し時間があったので、連れだって近所のギャラリーで開かれている写真家の展覧会を見に行き、6時から「浮舟」で懇親会が開かれた。私も少しだけ参加させていただいた。話は前後するが、批評会終了後、いろいろな方にお会いした。尾崎まゆみさんからは新刊の歌集をいただき、また大ファンである山下泉さんご本人にお会いできたのも嬉しかった。新しい歌集を編んでおられるそうで、今から刊行が待ち遠しい。
 懇親会では多少ビールの酔いも進んだ頃、隣にいた吉川さんが「僕は理論や図式で現実を裁断するのが嫌いなんですよ」とおっしゃった。私はやはりそうなのかと思う所があった。実は、私が当日触れなかった問題がひとつあり、吉川さんのこの発言を聞いて、やはりあえて触れるべきだったかなと思ったのだ。それは大辻隆弘さんが時評集『時の基底』で、「手ざわりのあるもののみを信じる吉川は、一個の短歌的人格である」と断じたこととも深く関係する。
 『風景と実感』は、現代短歌シーンで言葉が無味乾燥な記号と化していて、実感が失われているという危機感を基調として書かれている。吉川さんはこのような認識のもとに、短歌から風景と身体性が立ち上がり、そこに実感が生まれる過程をていねいに論じておられるのだが、では短歌には実感があればそれで万事OKなのだろうか。「吉川は実感信仰なのか」と問題を言い換えてもよい。本書の中で吉川さんは武者小路実篤の例などを引いて、手放しの実感礼賛が狭量な世界観に陥る危険性を指摘してはいる。しかし、〈私〉を中心とする半径50m程度の限られた空間においてのみ、確かな手触りと実感は担保されるのではないか。では半径50mを超えた所には何があるか。そこには実感では統御できず認識することもできない「世界」がある。「世界」を動かしているのは、思想や宗教やイデオロギーであり、政治や経済などを支える論理である。これらを「体系とシステム」と言い換えてもよい。実感は「体系とシステム」に太刀打ちできない。それは竹槍を振りかざして戦車に立ち向かうようなものだ。実感が〈私〉を中心とする半径50m以内の範囲でのみ有効なものだとすると、半径50m以内の〈私〉の空間とその外部に存在する「世界」とを何らかの手段で接続する必要が出て来る。内側の「実感」と外側の「体系とシステム」との間を架橋することを要請される局面が必ずある。しかし「理論や図式で現実を裁断する」ことを嫌う吉川さんにこれが可能かどうか、私は疑問に思えてしまうのである。このことは、本書の最も脆い部分は「実感とは何か」と題された第一章だとする松村さんの発言とも深く関わることだろう。