第198回 吉川宏志『鳥の見しもの』

砂肝にかすかな砂を溜めながら鳥渡りゆくゆうぐれの空
吉川宏志『鳥の見しもの』
  掲出歌は一見すると叙景歌のように見えるが実はそうではない。上句の「砂肝にかすかな砂を溜めながら」は実景ではないからである。砂肝の中身は見えない。私たちは知識によって砂肝には砂が含まれていることを知っているにすぎない。だから上句は鳥を見て「あの鳥たちの砂肝にもきっと砂が溜まっているのだろうな」と思う〈私〉の思念である。また内臓に砂を蔵して空を飛ぶ鳥の姿にはかすかな悲しみが漂う。かくて上句は抒情となり下句の叙景と呼応してポエジー溢れる一首となる。このような作りの歌の背景には、〈私〉と〈世界〉との往還運動と相互規定を信じる信念が横たわっている。そして吉川はそのような信念を最も強く持っている歌人なのである。
 『鳥の見しもの』は今年 (2016年) 8月に上梓された吉川の第七歌集で、第21回若山牧水賞を受賞した。吉川は宮崎県の出身であり、ゆかりの深い牧水賞受賞は嬉しいことだろう。「橄欖追放」の前身「今週の短歌」では、2005年6月に吉川を取り上げたが、その時点ではまだ第一歌集『青蝉』、第二歌集『夜光』、第三歌集『海雨』までしか出ていなかった。あれから11年経過して再び吉川を論じることになったが、その間に第四歌集『曳船』、第五歌集『西行の肺』、第六歌集『燕麦』が出版され、永田和宏の後を襲って塔短歌会の主宰に就任したのは周知の通りである。この短歌コラムでは意識して歌集を出したばかりの若い歌人を論じるようにしているので、吉川のように評価の定まったベテラン歌人は取り上げる機会を逸することが多い。
 さて、『鳥の見しもの』だが、ひと言で感想を要約すると、「さすがの安定感」と「芽生えつつある新たな顔」となろう。
 「さすがの安定感」を感じるのは例えば次のような歌である。
石段の深きところは濡らさずに雨は過ぎたり夕山の雨
支社の人叱りていたり電話から小きざみの息感じながらに
白菊の咲く路地をゆく傘ふたつ高低変えてすれちがいたり
手に置けば手を濡らしたり貝殻のなかに巻かれていた海の水
立ち読みをしているあいだ自転車にほそく積もりぬ二月の雪は
ゆらゆらと雪の入りゆく足もとの闇をまたぎて電車に乗りぬ
 一首目、短時間で止む通り雨は石段の水平面と垂直面が交わる深い部分には届かないという吉川らしい着眼点が光る歌である。二首目は職場詠で、電話で支社の人を叱っている。その電話の向こうに叱られている人の息遣いを感じているという歌で、ほんとうに相手の息遣いが聞こえているかとは無関係に、叱りながらも叱られている人に想いを馳せている点がポイントだろう。三首目は狭い路地で傘を差した人がすれ違うとき、傘がぶつからないように一人は高く上げ一人は少し下げる様を詠んだ歌。些細な日常風景ながら他人への気遣いが感じられる。四首目、手に零れた水はもとは大海原の水であり、貝殻=死と海=生の対比に貝殻=小と海=大の対比が重ねられて広がりのある歌になっている。五首目のポイントは「ほそく」である。なぜ「うすく」ではないのか。それは自転車のハンドルやタイヤカバーが曲面だからである。鉄棒のような棒状の物体に雪が積もるとき、曲面部分の雪はすぐ落下するため積もらず、上面の細い部分、山で言えば尾根に当たる部分にしか積もらない。言われて初めて気づく観察である。六首目は雪が降る電車のホームの情景で、電車の車体とプラットホームの間に少し隙間があって、その闇に雪が吸い込まれて行く。足もとの闇が誤って落ちれば死ぬ闇であることは言うまでもない。日常に潜む不穏の歌と読むこともできて、「ゆらゆら」という擬態語が効果的だ。
 2005年に吉川を論じたときは、「一行空けの人」というキーワードを用い、吉川の直喩の嗜好を指摘したが、今回はもう少しちがう角度から吉川の短歌の巧さを見てみよう。それは歌の中の〈私〉の視点の確かさと、それを読者に感じさせる工夫である。
雨のあと光の沈む路をゆくムラサキシノブの枝は斜めに
向かいのビル壊されてゆく窓だったところに冬の雲がはいりぬ
 一首目では初句「雨のあと」でまず空気感を出し、「光の沈む路」だからおそらく夕方だろうという時間設定がある。次に「路をゆく」で歌中の〈私〉の位置が確定される。一首すべてが歩行する〈私〉の視点からの光景として定位される。ムラサキシノブは初夏に花を付ける植物なので季節は初夏という季節感まである。道を歩く〈私〉の目の前にムラサキシノブの枝が斜めに張りだしている。このように歌の中での〈私〉の立ち位置と視線の方向が明確に描かれているため結像力が強い。二首目では「向かいのビル」で職場の窓から見る風景であることが示される。「窓だったところ」で窓硝子と窓枠がなくなりコンクリートに開いた穴であることがわかる。その穴を通して向こう側に冬の雲が見えるという歌である。この歌でも〈私〉の立ち位置と視線の方向がはっきりとしていて、こちらにいる〈私〉、向かいにある解体中のビル、その向こうにある空という、近・中・遠のパースペクティブが明快だ。吉川の歌が一読して意味がわかり、抜群の安定感を見せるのは、このような細かい工夫によるところが大きいのである。
 ではこの歌集はいつもの吉川かというとそうではないところがある。「芽生えつつある新たな顔」が随所に顔を出すからだ。
見るほかに何もできない 青海に再稼働を待つ大飯原発
反対を続けている人のテントにて生ぬるき西瓜を食べて種吐く
原発をなおも信じる人の目には我は砂男のごとく映らむ
透明の傘にて顔を薄めつつ列に加わる秋雨のデモ
耳、鼻に綿詰められて戦死者は帰りくるべしアメリカの綿花
 最初の四首は原発再稼働反対運動に加わった折の歌で、五首目は安保関連法案が国会を通過し集団的自衛権の行使が可能になったことを受けての歌である。吉川は近年社会派の傾向を強めており、2015年12月6日に早稲田大学で開かれた「時代の危機と向き合う短歌」という緊急シンポジウムの呼びかけ人にもなっている。『鳥の見しもの』にはこれ以外にも東日本大震災の被災地を訪問した折の歌も収録されている。果たしてこれらの歌は成功しているか。判断の難しい問題である。少なくとも吉川は「紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ」という態度には与しないということだ。本歌集には小高賢の訃報に接した時の歌も収録されており、その一連の中に「論争は死後も終わらぬ 原発をどう歌うか君に問いかけている」という歌がある。短歌は短い詩型であり、近代短歌は私性を基軸として展開して来たために、集団的自衛権とか原発のような「大きな問題」は不向きである。〈私〉を始点とする近景・中景が近代短歌の主領域であり、遠景にはなかなか手が届かない。著書『風景と実感』で実感の大切さを説いた吉川がこの課題をどのように解決するのか注目したい。
 『塔』の11月号には今年の8月20日に岡山で開かれた全国大会の報告が掲載されている。報告の冒頭にマンガ『ベルサイユのばら』の著者池田理代子と吉川と永田紅の鼎談の記録があり、なかなかおもしろい。永田はベルばらの熱烈なファンらしく、「暴走したら止めてください」と言っているが、吉川は少年マンガしか読んでおらず、ベルばらも読んでいないようだ。実にもったいないことである。萩尾望都や竹宮恵子や佐藤史生や吉田秋生らによって、少女マンガはテーマの拡大のみならず表現手段も多様化しており、それは少年マンガ以上と言える。吉川の短歌にはサブカル的要素はほとんど登場しないが、『鳥の見しもの』には次の歌が一首ポツリと置かれていて思わずニヤリとした。
空条くうじょう承太郎を共通の友として息子と暮らす冬深きころ
 空条承太郎は荒木飛呂彦のマンガ『ジョジョの奇妙な冒険』の主人公の一人である。わが家も愛読者でシリーズ全巻揃えてある。思春期を迎えた息子と父親はなかなか会話が成立しないが、愛読するマンガのことなら話せる。そんな家庭の雰囲気がうかがえる一首だ。
 最後に次の歌を挙げておこう。
さむざむと風は比叡を吹き越すも酢の華やかに匂える夕べ
 「物名歌」と詞書きがある。物名歌ぶつめいかとは物の名を詠み込んだ歌のこと。この歌では「越すも酢」に「コスモス」が掛けてある。技巧的な歌だが、そのことを忘れてもよい歌だ。

 

第63回 青磁社創立10周年記念シンポジウム見聞記

青磁社シンポジウム「ゼロ年代短歌を振り返る」
 11月7日(日)に立冬とは思えないうららかな陽気のなか、京都会館会議場で青磁社創業10周年記念シンポジウム「ゼロ年代短歌を振り返る」が開かれた。大きな会議場がほぼ満員になる盛況ぶりだった。短歌出版でがんばっている出版社が創業10年を迎えたことは喜ばしい。私は歌人の方々とほとんど面識がないので、会場では永田淳さんにお祝いを述べたあと、松村正直さんと魚村晋太郎さんにご挨拶し、田中槐さんが数列前におられるなと認識した程度で、あとはさっぱりわからない。
 第一部は高野公彦の講演「ゼロ年代短歌の動向」。私は高野公彦と小池光の初期短歌が現代短歌の精粋だと思っているので、演壇の高野を遠くからでも初めて見られたことに満足した。
 第二部は「缶コーヒー・肉・アマゾン その他」という奇妙な題の吉川宏志と斉藤斎藤の対談。二人は買ってきた缶コーヒーを机に並べて、「最近、缶コーヒーのネーミングがおもしろいよね」という枕から話は始まった。誰がこの二人を対談させようと思いついたのかは知らないが、途中からグダグダの会話になり、肉の話は出たものの、ついに最後までアマゾンの話は出なかったので、なぜアマゾンなのか未だに謎である。にもかかわらず私にはこの対談はとてもおもしろかった。それは対話を通して歌人としての吉川と斉藤の体質の差が浮き彫りになったからで、なかんずく斉藤の本質がよく見えたからである。
 吉川はまず「自販機のなかに伊右衛門も若武者も眠らせて二ン月の雪は降り積む」(久々湊盈子)、「下痢止めの〈ストッパ〉といふ名づけにも長き会議のありにけんかも」(大松達知)といった歌を引いて、言葉にまつわるおもしろさが見られる歌を論じたが、議論が途中から予期せぬ方向に進んだので、吉川がゼロ年代短歌の動向をどう総括して見ているのかはわからない。これに対して斉藤は「〈特別〉から〈ふつう〉へ、〈わがまま〉から〈なかよし〉へ」と題した第一章で、「牛乳が逆からあいていて笑う ふつうの女のコをふつうに好きだ」(宇都宮敦)という歌を引いて、ゼロ年代以前の短歌の方法論は「特別なレトリックで特別なことを詠う」もしくは「特別なレトリックで日常を詠う」のに対して、ゼロ年代の歌人はそのような方法論に嘘くささを感じて、「ふつうのレトリックでふつうの日常を詠う」態度へとシフトしたと指摘した。いわゆる短歌の「棒立ち化」で、この点は第三部のバネルデッスカッションでも話題になった。続いて第二章「下がって」では、「3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって」という中澤系の歌を引いて、「電車が通過します。危険ですからお下がりください」という駅のアナウンスは、形式は依頼表現だが実は命令なのだと述べたが、時間の不足からか斉藤の趣旨はよく理解できなかった。第三章「肉」では、吉川が最近しきりに「ふるさとの牛が殺されゆく今を我はドリルで歯を削られる」のような食肉屠殺に関する歌を作っていることを取り上げた。吉川の故郷宮崎での口蹄疫騒ぎがその背景の一つにあろう。このあたりから斉藤の鋭い突っ込みが始まったのである。斉藤は、「考えれば十センチ以上の生き物を殺していない我のてのひら」のような歌を作るくらいなら、ヴェジェタリアンになろうと考えたことはありませんか、と吉川に問うたのである。
 吉川は返答に窮して一瞬口籠もった。その後も斉藤の問いかけを受けて議論を盛り上げようとはしなかった。斉藤の質問の真意を測りかねたのかもしれない。しかし私には斉藤の質問の意味がよくわかった。斉藤は吉川に向かって、「あなたは思想 (=言葉)と行動が一致していない。それでいいのか」と迫ったのである。第三部にパネリストの一人として登壇した穂村弘は、「斉藤斎藤さんの対談相手に選ばれたのが僕でなくてよかった」と述懐していたので、穂村にも斉藤の質問の意味が突き刺さったのだろう。吉川はこれに対して、自分も確かに歌を作りながらその一方で資本主義に加担して金儲けの片棒を担いでいるが、そのような矛盾を内蔵することで歌はむしろ豊かになるのではないか、と答えていた。大人の答えである。
 私はこのやり取りを聞いて、ようやく今まで掴みかねていた斉藤斎藤の本質を垣間見た気がした。斉藤は原理主義者(ファンダメンタリスト)なのである。ここで言う原理主義とは、思想 (=言葉)と行動との完全な一致を個人のレベルにおいて厳格に要求する立場を言う。
腹が減っては絶望できぬぼくのためサバの小骨を抜くベトナム人
                        『渡辺のわたし』
勝手ながら一神教の都合により本日をもって空爆します
 このような歌を作る斉藤を、かねてより倫理観の強い人だとは感じていたが、その漠然とした印象はまちがってはいなかったわけだ。しかし原理主義が厳しい道であることはもちろん、危険な道であることもまた覚えておかなくてはなるまい。個人の生の態度としての原理主義の行き着く所は畢竟、革命(=テロ)か宗教しかない。思想 (=言葉)と行動の不一致を劇的に解消するには、世界を根底から変革するか、自分を根底から変えるかのどちらかしかないからである。そしてその二つはほとんど同じ性質のものである。だから斉藤がある日、墨染めの衣をまとって現れても私は驚かないだろう。それにしても斉藤は弁が立つ。現代短歌シーンで屈指の能弁であることはまちがいない。
 第三部のパネルデッスカッション「ゼロ年代短歌を振り返る」は、穂村弘、松村由利子、広坂早苗、川本千栄をパネリストとして、島田幸典の司会で進行した。島田の事前の要請によりパネリストたちは、(1)ゼロ年代の注目すべき課題、(2)印象に残った作品、(3)ゼロ年代を通じて明らかになった課題、の三点をまとめた資料を用意していた。穂村は資料には歌を並べただけで、島田の要請には当日口頭で応える形を取ったが、松村は(1)として新しい「私性」、他者との距離の取り方を、(3)に「われ」の本質・位置と、仮名遣いと漢字を挙げた。広坂は(1)として文語と口語の問題を挙げ、川本は(1)に口語化の流れの中での文語の行方、不安定な自我、老い・介護を、(3)に理屈の歌と理の通らない評論とを資料に挙げた。後日こうしてじっくり資料を見直してみると、パネリストたちの関心は、ゼロ年代ににわかに不安定化しフラット化した短歌の〈私〉と口語化の問題に集中していたことがわかる。司会役の島田の周到な準備により、討議が予定されていた流れで進行していたら、ゼロ年代の短歌を総括する展望が得られていたかも知れないが、誰も知るとおり集団での討議は生き物であり、島田には気の毒だったが予定どおりの展開にはならなかったのである。
 最初に発言した穂村は、『短歌研究』誌四月号の作品季評での印象的な体験から話を始めた。評者の久々湊盈子・永井祐・穂村のあいだで、栗木京子の作品の評価が真っ二つに割れたというのである。久々湊と穂村は、「みづからの体のほかは知らざりし乙女にて夜々数学解けり」のような歌をよいとしたが、永井は「身をゆすりながらバナナを食む子をり花火を持てる荒川の土手」を選んだという。穂村の目には永井が選んだ歌は、措辞の短歌的必然性に弛みがあり、言葉が動く歌と見えた。この経験から穂村は、永井に代表されるゼロ年代歌人の感覚を次のように推測した。永井たちは、従来共有されてきた短歌のレトリックによってポエジーを立ち上げる秀歌性を嘘くさいものと感じて拒否していて、自分たちにとってのリアル(=ふつうの日常)がポエジーの必然性に吸収されることを否定しているのであると。永井たちにとってのリアルとは、「牛乳が逆からあいていて笑う ふつうの女のコをふつうに好きだ」のような歌のフラットさだけがすくい取れるものだということで、これは第二部の吉川と斉藤の対談でも取り上げられたポイントである。
 その後、松村・広坂・川本ら他のパネリストが準備した資料に基づいて発言したのだが、途中から議論は予期せぬ方向に展開した。「牛乳が…」のような歌のほうがリアルだと言っているのは誰なんですか、という川本の発言がきっかけである。川本が威勢のよい関西弁で滔々と述べたのは、おおむね次のようなことである。
 短歌がフラット化し修辞が棒立ちになったのは、そもそも2001年に『短歌研究』が創刊800号記念に行ない、穂村弘・加藤治郎・坂井修一が審査員を務めた「うたう作品賞」からである。この企画から盛田志保子、加藤千恵、赤本舞(今橋愛)らが世に出た。また『短歌ヴァーサス』を舞台として自分たちの手で歌葉作品賞を作り、審査員を務めたのも穂村である。これらの賞に応募してきた若い歌人たちの歌を「棒立ちのポエジー」と評して、短歌のフラット化を推し進めた張本人は穂村ではないか。『短歌研究』誌四月号の作品季評で永井と評価が割れたことをショックだと言っているが、そのような事態を招いたそもそもの責任は穂村にあるのではないか。
 川本は自分の資料の「理の通らない評論」の項目に穂村の文章を引いていたくらいだから、もともと期するところがあったのかもしれない。かなりきつい調子で以上のようなことを述べた。これにたいして穂村はいつもの小さ目の声で低く語る調子で、次のようなことを述べるに留まった。
 囲碁や将棋には「定石」というものがある。定石とは局所的な盤面において、こう打ったほうが勝率が高くなるという経験則の集合である。しかし定石は最初からあったわけではなく、棋士が長年にわたって積み重ねてきたものである。短歌も同じで、こう作ったほうがよい歌になるという定石があるが、これも最初からあったわけではなく、近代短歌以降に蓄積されたものである。永井たちの棒立ち歌をよい歌だと感じられないとすれば、それは受け取る私たちのなかにそれに反応する回路がまだできていないからである。もし回路ができれば新たな定石となる可能性があると僕は考えていた。ところがなぜか短歌には、ひとつの定石が別の定石と反発して受け入れないという生理がある。今起きているのはそのようなことではないだろうか。
 こうして壇上の穂村が槍玉に挙げられた訳だが、これはむしろ本人にとって名誉なことだろう。加藤治郎・荻原裕幸とタッグを組んでニューウェーブ短歌を推し進めてきたのが穂村であり、川本が苦々しげに述べたように、穂村が「枝毛姉さん」の歌を取り上げればみんながこぞって論じ、穂村が「水菜」の歌を褒めると他の人たちも注目するというように、90年代後半からの短歌評論シーンで穂村は中心的役割を果たしてきたからである。「短歌のくびれ」「棒立ちの歌」「修辞の武装解除」「命の使いどころのない酸欠世界」など、穂村はキメ科白の達人でもある。しかし短歌の棒立ち化・フラット化を前にして、伝統的近代短歌派の歌人は苦々しい思いを噛み締めていたはずで、それが当日、川本の口を借りて噴出したと見ることもできよう。
 さて短歌の棒立ち化と、その背景にある新しい(と見えなくもない)〈私〉像をどう考えるべきか。シンポジウム当日は考えがまとまらなかったが、後日次のような考えに到った。私はこの状況に対して二つの見方が可能だと思う。一つはこの現象はローライズパンツ(または腰パン)のようなものだとする見方である。ローライズパンツとは、股上の浅いズボンをわざと下にずらして穿くファッションで、ヒップホップの流行とともに若者にはやった。下着のパンツが見えることもあり、年長者からは「だらしがない」ファッションとして評判が悪い。しかし若者の目から見ると、年長者のきちんとした服装は「カッコ悪い」のである。つまりこれは世代間闘争ということだ。世代間闘争には原理的に解決策はない。年長者が死に絶えることで問題が消滅するだけである。だからもし棒立ち短歌が世代間闘争の一種であるのなら、私たちにできることは何もない。ファッションがいつまでも続かず新しいファッションに置き換えられて行くように、棒立ち短歌も見過ぎて飽きられたら消えて行くだろう。
 もう一つの見方はもう少し大きな視野に立って、近代とそれを支えてきた〈私〉像が液状化を起こして溶解し始めており、棒立ち短歌はその表れではないかとする見方である。哲学者ミッシェル・フーコーはすでに80年代に、私たちがふつう考えている「人間」像は近代の産物であり、浜辺の砂に書いた文字が波に洗われて消えるように、いつかは消えてしまうだろうと予言した。これは大きすぎる問題で私にはほんとうにそうなのかどうか判断がつかないが、もしこの見方が正しいとするならば、やはり私たちにできることは何もない。大規模なパラダイム・シフトは文明規模で起きる現象であり、私たちが個人レベルで何をしてもそれは蟷螂の斧である。私たちは昨日と変わらず自分たちの小さな生を生きるしかない。
 司会の島田が最後にまとめと総括をあきらめてパネルディスカッションは終了した。企画した人たちが意図した方向には進まなかったかもしれないが、以上のようなことを考えさせられたという意味で、十分におもしろい討議だったと言えるだろう。

第16回 吉川宏志『風景と実感』批評会始末

 今週は学務多忙により歌人論を書く時間が取れなかったので、先日の吉川宏志評論集『風景と実感』批評会のレポート風の実録でお茶を濁すことにしたい。学務多忙とはいったい何をしていたのかというと、来年度のフランス語科目の時間割を作成し、非常勤講師の手配をしていたのである。大学教授がそんな仕事をするのかと驚かれる向きもあるかもしれないが、これがするのですね。国立大学法人は国からの交付金を毎年を1%ずつ削減され、事務職員の定員も減らされているので、事務仕事が私たちの肩に重くのしかかっている。研究は空いた時間にしているのが実情だ。
  それはさておき、去る平成20年9月27日に京都のみやこメッセで、吉川宏志さんの待望の評論集『風景と実感』の批評会が開かれた。私は川野里子さんと松村正直さんとともにパネリストを務めた。当日は快晴で絶好の批評会日和となった。
 打ち合わせのため12時にみやこメッセ1Fのレストラン「浮舟」に行く。すでに吉川宏志さん、奥さんの前田康子さん、お嬢さんのさやちゃん(小学生ですでに「塔」会員で詠草も出している)、司会の松村さん、それにオーガナイザーの江戸雪さん、批評会第一部に登場する花山周子さんとご母堂の花山多佳子さんが集まっておられる。みなさん初対面で、一斉に紹介されどぎまぎする。私は歌壇の外部にいてふだんは歌人の方々とお付き合いがないので、どこに行ってもアウェー感を強く感じてしまう。どぎまぎする理由は他にもある。歌集をていねいに読み込むと、作者の心の秘密の部分に触れることがある。生身の作者ご本人にお会いすると、初対面にもかかわらずその人の心の秘密を知っているという、非常に居心地の悪い立場に立たされることになるのである。私はこの居心地の悪さにどうしても慣れることができない。歌人のみなさんはどう対処しておられるのか知りたいものだ。
 そうこうするうち、川野里子さんと発起人の一人青磁社の永田淳さんも遅れて現れて、みんなでカレーライスやざる蕎麦など食べながら、かんたんな打ち合わせをする。その間、第一部で吉川さんと一対一で質疑応答をすることになっている花山周子さんは、少し離れた席でコーヒーを呑みながら煙草をひっきりなしにふかしている。極度に緊張していて食事も喉を通らないのだ。江戸さんにうかがうと今日の参加者の8割は「塔」の会員だという。この分ではもし吉川さんを批判したりしたら袋叩きに合いそうである。
 そろそろ移動ということになり、みんなトイレに行ったりばらばらに会場に向かう。大きな施設なので迷いそうになるが、要所要所に澤村斉美さんや西之原一貴さんたち「塔」のメンバーが立って道案内して下さる。みんなで役割を分担して今日の会を支えているのだ。結社の結束力恐るべし。
 第一部は歌集『屋上の人屋上の鳥』で注目された若手歌人花山周子さんが、吉川宏志さんに質問するQ&A形式で行われた。花山さんは緊張しながらも吉川さんに批評集の意図などについて質問し、吉川さんもていねいに答えていたように思う。なかでも「問いがあって書くのではなく、書いてから問いが見つかり、自分はこれが書きたかったのかと思うことがある」という吉川さんの発言が印象に残った。また短歌創作を通じて自然の美しさも人に伝えたいと述べておられた。
 第二部はパネリストの報告と議論という形式で、松村正直さんの司会進行で進められた。川野さんは次のような基調発言をなさった。『風景と実感』を理解するキーワードは風景ではなく実感の方で、今、実感への渇望が広がっているように思う。その意味で吉川と穂村弘の認識のベースは共通だろう。ただちがいは、吉川が実感の回復へと向かうのに対して、穂村は出口を求めてあがいている。穂村は短歌を世界にぶつけた時の瞬間のきらめきに賭けるため、時間性は解消される。これに対して吉川は近代に根を下ろして時間性を抱えこむので、どうしても吉川の方が不利になる。(要約ここまで)
 世代的に近く作風が対照的な穂村弘と吉川さんは、よく比較対照されて論じられることが多い。「俺は穂村とはちがうよ」と内心で思っているにちがいない吉川さんからすると、この扱いは不本意なことかもしれない。
 次に私が発言したが、その全文は別項を見ていただきたい(ホームページのtopからリンクあり)。私は吉川さんが本書でこだわっている「実感」と「身体性」を取り上げて、短歌はコトバでできているにもかかわらず、どうしてそこに「実感」と「身体性」が感じられるのかという問題を、認知言語学とアフォーダンス心理学の考え方に基づいて明らかにしようとした。これは私が以前から目論んでいる企ての一環で、言語学が開発してきた概念を援用して短歌の意味生成のメカニズムを解明してみたいと思っているのだ。しかし後で聴衆の方々から、「講義を聴いているようでした」という感想が寄せられたので、私は「修行が足りん」と内心大いに反省した次第である。
 次に松村正直さんは、短歌総合誌などで『風景と実感』を取り上げた論評などをたくさん引用して、本書がどのように受け止められたかを紹介された。松村さんは本書のいちばん脆い部分は、心理学や哲学を援用している第一章の「実感とは何か」だと指摘された。大辻隆弘さんも、吉川さんが「実感」に最も迫っているのは、第一章の理論編ではなく、歌人論だと述べておられたことがある。これは考えさせられる指摘である。
 その後ひとしきりパネリスト同士での議論が行われたが、私の印象に特に残ったのは川野さんの次のような発言だった。近代リアリズムは賞味期限切れである。しかしみんなそれに替わる方法論を見いだすに至っていない。茂吉は明治期の短歌革新において人麻呂を抱え込み、その落差をみずからのエネルギーとした。それにひきかえ吉川は『風景と実感』では明治期までしか遡っていない。これでは革新のエネルギーを得るには時代的に落差が短すぎるのではないか。(要約ここまで) 短歌を大きな視野から眺めている川野さんならではの言葉だと感じた。
 続いて司会者の指名により、会場からの発言が続いた。コスモスから鈴木竹志さんと大松達知さんが、「塔」応援団一号と二号と自己紹介されて会場を笑わせた。その他、発言したのは島田幸典さん、斉藤斎藤さん、石川美南さん、大辻隆弘さんなど。最後に俳人の坪内稔典さんが、「吉川さんを始めとして、みなさんお利口すぎる。もっとバカになりなさい」と会場を沸かせた。「桜散るあなたも河馬になりなさい」「三月の甘納豆のうふふふふ」などという俳句を作っている人らしい発言である。会場のみんなは笑って済ませたようだが、私は内心では重い言葉だと受け止めた。昔から伝統的文芸に関わって来た人には今の歌人・俳人がお利口すぎると見えるところに、伝統文芸が近代的文学に解消しきれない何かがあるのだろう。
 最後に永田和宏さんが挨拶をして批評会を締めくくった。批評会の前日に東京で短歌研究賞・短歌研究新人賞・短歌評論賞の授賞式があったのだが、出席していた永田さんが短歌研究賞を受賞した穂村弘の受賞の挨拶を紹介された。「自分は今まで〈てにをは〉には気を配らずに歌を作って来たのだが、これからは〈てにをは〉に気を配って歌を作りたい」と穂村は言ったらしい。これを聞いて「今まで気にしなかったんかい!!」と心の中でツッコミを入れた人は多かろう。
 批評会は終了し、懇親会まで少し時間があったので、連れだって近所のギャラリーで開かれている写真家の展覧会を見に行き、6時から「浮舟」で懇親会が開かれた。私も少しだけ参加させていただいた。話は前後するが、批評会終了後、いろいろな方にお会いした。尾崎まゆみさんからは新刊の歌集をいただき、また大ファンである山下泉さんご本人にお会いできたのも嬉しかった。新しい歌集を編んでおられるそうで、今から刊行が待ち遠しい。
 懇親会では多少ビールの酔いも進んだ頃、隣にいた吉川さんが「僕は理論や図式で現実を裁断するのが嫌いなんですよ」とおっしゃった。私はやはりそうなのかと思う所があった。実は、私が当日触れなかった問題がひとつあり、吉川さんのこの発言を聞いて、やはりあえて触れるべきだったかなと思ったのだ。それは大辻隆弘さんが時評集『時の基底』で、「手ざわりのあるもののみを信じる吉川は、一個の短歌的人格である」と断じたこととも深く関係する。
 『風景と実感』は、現代短歌シーンで言葉が無味乾燥な記号と化していて、実感が失われているという危機感を基調として書かれている。吉川さんはこのような認識のもとに、短歌から風景と身体性が立ち上がり、そこに実感が生まれる過程をていねいに論じておられるのだが、では短歌には実感があればそれで万事OKなのだろうか。「吉川は実感信仰なのか」と問題を言い換えてもよい。本書の中で吉川さんは武者小路実篤の例などを引いて、手放しの実感礼賛が狭量な世界観に陥る危険性を指摘してはいる。しかし、〈私〉を中心とする半径50m程度の限られた空間においてのみ、確かな手触りと実感は担保されるのではないか。では半径50mを超えた所には何があるか。そこには実感では統御できず認識することもできない「世界」がある。「世界」を動かしているのは、思想や宗教やイデオロギーであり、政治や経済などを支える論理である。これらを「体系とシステム」と言い換えてもよい。実感は「体系とシステム」に太刀打ちできない。それは竹槍を振りかざして戦車に立ち向かうようなものだ。実感が〈私〉を中心とする半径50m以内の範囲でのみ有効なものだとすると、半径50m以内の〈私〉の空間とその外部に存在する「世界」とを何らかの手段で接続する必要が出て来る。内側の「実感」と外側の「体系とシステム」との間を架橋することを要請される局面が必ずある。しかし「理論や図式で現実を裁断する」ことを嫌う吉川さんにこれが可能かどうか、私は疑問に思えてしまうのである。このことは、本書の最も脆い部分は「実感とは何か」と題された第一章だとする松村さんの発言とも深く関わることだろう。

107:2005年6月 第2週 吉川宏志
または、微分された喩的照応は微細撮影のなかに

アヌビスはわがたましいを狩りに来よ
      トマトを囓る夜のふかさに

吉川宏志『青蝉』
 
 アヌビスは古代エジプトの神で死を司り、黒犬の姿で描かれることが多い。この歌で〈私〉はアヌビス神に「わがたましいを狩りに来よ」と呼び掛けている。つまり自ら死を願っていることになる。下句は一転して〈私〉がトマトを囓っているという日常的風景が歌われているがそれは表面的なことで、「夜のふかさに」の結句に沈み込むような沈思の世界が開けている。アヌビス神は真っ赤な首輪をしていて、それは歌の中の「トマト」の赤さと呼応する。黒犬の赤い首輪と、漆黒の夜にトマトの赤さ、上句と下句はともに、「黒・赤」という色彩のコントラストを基本に作られていて、なかなか技巧的な作品なのである。そして吉川宏志が技巧派であることは、誰もが知っていることだ。

 吉川は1969年 (昭和44年)生まれ。故郷宮崎の高校の先生に志垣澄幸がいて、吉川が京都大学文学部に進学するにあたり、永田和宏への紹介状を書いてもらったという。これを機に休眠中であった京大短歌会が復活し、梅内美華子・林和清島田幸典・前田康子らが参加して、京大短歌会のひとつの黄金時代を迎えることになる。当然のことながら「塔」短歌会に入会し、現在も編集委員を務めている。第一歌集『青蝉』(1995年、現代歌人協会賞)、第二歌集『夜光』(2000年、ながらみ現代短歌賞)、第三歌集『海雨』(2005年)がある。

 私が初めて吉川の短歌を読んだのは『新星十人』(立風書房1998年)という10人の歌人を集めたアンソロジーだった。短歌を読み始めたばかりの私には、吉川の短歌は正直言って「とても地味」なものとしか映らなかった。それもそのはずである。『新星十人』には、荻原裕幸(1962生)、加藤治郎(1959生)、紀野恵(1965生)、坂井修一(1958生)、辰巳泰子(1966生)、林あまり(1963生)、穂村弘(1962生)、水原紫苑(1959生)、米川千嘉子(1959生)といった個性豊かな面々が顔を揃えていたのである。この顔ぶれの中で目立つのは容易なことではない。しかも吉川は最年少で第一歌集を出したばかりである。『新星十人』には「現代短歌ニューウェイブ」という副題が冠せられていて、ライトヴァースや記号短歌など表現上の新しさを感じさせる他の歌人と並んだとき、吉川の一見地味な短歌はあまり「ニューウェイブ」という印象を与えない。むしろ古風な近代短歌と言ってもいいくらいである。しかし第三歌集『海雨』と前後して、邑書林のセレクション歌人シリーズから『吉川宏志集』が刊行されたのを期に、今回すべてを通読して吉川の歌人としての実力を改めて感じることができた。

 「塔」短歌会は1954年に高安国世を中心に発足した結社であり、高安はもともとアララギ派の歌人であったから、「塔」短歌会も写実を作歌の基本とするアララギの流れを汲んでいる。この意味でも吉川は「塔」の本流を行く歌人と言ってよい。吉川のように手堅く隙のない短歌を作る人は、とても批評しにくい。こういう時にはキーワードで攻めるにかぎる。私が考えたのは「一字空けの人」というキーワードである。

 セレクション歌人シリーズ『吉川宏志集』に谷岡亜紀が吉川宏志論を書いているが、谷岡がまず注目したのは吉川の初期作品である。

 伯林(ベルリン)にルビふるごとき夜の雪 教室にまだきみは残れり

 ガリレオの鉄球木球ふたすじにわれと落ちゆくひとの欲しかり

 サルビアに埋もれた如雨露 二番目に好きな人へと君は変われり

 谷岡が着目しているのは上句と下句とがたがいに「像的喩」または「意味的喩」として機能する歌の姿である。叙景と叙情、事物と人事を上句と下句に配置し、そのあいだに喩的関係を組み立てるのは、吉川の師である永田和宏の「問と答の合わせ鏡」論のヴァリエーションであり、和歌・短歌の王道と言ってもよい。加えて「伯林にルビふるごとき」という直喩、「ガリレオの鉄球木球ふたすじに」というやや舌足らずな比喩は、直喩を作歌の基本に据える吉川の資質をすでによく示している。吉川が直喩をよく使うことはたびたび指摘されていることである。

 死亡者名簿の漢字の凹凸が噛みあうように隣り合いたり

 ガラス壺の砂糖粒子に埋もれゆくスプーンのごとく椅子にもたれる

 しばらくの静謐ののち裏返るミュージックテープは魚のごとしも

 炭酸のごとくさわだち梅が散るこの夕ぐれをきみもひとりか

 なぜ吉川は直喩を多用するのか。それは写実を基本とする作歌方法において、直喩は読者をハッとさせる一首の核となる発見を導くからである。永田和宏は評論集『喩と読者』で比喩論を展開し、「能動的喩」という概念を提唱している。「能動的喩」とは、すでにある比喩関係をなぞるものではなく、「世界が秘めている意味、潜在性として蔵している価値、それらを一回性のものとして剔抉してくれるような喩」である。要するに、それまで考えられなかったAとBの結びつきにより、読者が新しい発見をし、世界の認識を更新するような比喩ということだ。喩が成立するためには、「喩えるもの」と「喩えられるもの」とが分離されて提示される必要がある。そしてそのあいだに喩的緊張関係を作り出すために「一字空け」が効果的なのである。第一歌集『青蝉』には一字空けがかなり見られる。一字空けは句切れを作り出し、喩的関係を強調する。ただし吉川においては一字空けのない歌においても、句切れの鮮明さは際立っている。だから「一字空けの人」というキーワードは、「句切れの鮮明な人」というほどの意味と取っていただきたい。

 句切れのない文体を三枝昂之は「流れの文体」と呼んだことがある。吉田弥寿夫によると、句切れのない文体はモノローグ的であり、「集団から疎外された単独者の文体」なのだそうだ(『雁』4号)。たとえばすぐ頭に浮かぶのは次のような文体である。

 目のまえに浮くカナブンが虹をだし動かなくなるまでをみていた  伴風花

 ゆれているうすむらさきがこんなにもすべてのことをゆるしてくれる  今橋愛

 ここには何かを見て何かを感じ、また何かを感じては何かを見るという〈私〉と世界の往復運動がない。〈私〉と世界とがお互いを照らし出すという相互関係がない。それにかわって言いしれぬ孤独だけがある。このような文体から紡ぎ出される歌の世界には〈私〉だけがいて他に何もいない風景が広がっている。それは私たちの認識が、外的事物 (=世界)と知覚者 (=私) のあいだで展開する相互行為の織物としてできあがっているということを忘れているからだ。〈私〉とはその相互行為の織物の肌理として析出される何物かである。だから〈私〉と無関係な世界はなく、世界と無関係な〈私〉もない。それはどちらも語義矛盾である。このようなことを念頭に置きつつ「一字空けの人」吉川の歌を眺めると、「流れの文体」の歌の世界とのちがいが際立って感得される。

 ガラス戸にやもりの腹を押しつけて闇は水圧のごときを持ちぬ   『青蝉』

 似ていると思うは恋のはじめかなボート置場の春の雷(いかづち)

 夕闇にわずか遅れて灯りゆくひとつひとつが窓であること

 ひのくれは死者の挟みし栞紐いくすじも垂れ古書店しずか    『夜光』

 ふるさとで日ごとに出遭う夕まぐれ林のなかに縄梯子垂る

 あみだくじ描(か)かれし路地にあゆみ入る旅の土産の葡萄を提げて

 一首目、上句は室内からヤモリの白い腹を見た「叙景」であり、下句は外の闇に水圧のようなものを感じた観察者の〈私〉の想念である。景物の観察を契機として〈私〉の想念が生み出される。その機序を「問と答の合わせ鏡」の枠組みのなかに収めたこのような歌の短歌的完成度は極めて高いものと言わなくてはならない。二首目、今度は想念が先に来て叙景が下句に付けられており、全体として恋の予感を暗示する青春の歌となっている。三首目、上句「夕闇にわずか遅れて灯りゆく」に吉川らしい微細な発見が表現されていることに注意しよう。私たちは日暮れと同時に電灯を点すのではない。いつのまにかあたりが暗くなったことに気がついてから電灯を点すのだ。だから点灯は闇の訪れにわずかに遅れるのである。この「わずかな遅れ」を発見し表現するところに吉川の真骨頂がある。四首目、古本から栞紐が垂れているのは単なる観察であるが、それを「死者の挟みし」と感じたのは作者の主観である。それを薄暮の世界に配置したこの歌の静謐感は深い。五首目、吉川は故郷の宮崎に帰郷したときの歌をたくさん詠んでいるが、これはちょっと不思議な味わいの歌。林の中に垂れる縄梯子というのが不思議で忘れ難い。六首目、句切れは明確だがこの歌には上句・下句の喩的緊張関係はない。全体が〈私〉の行為の描写として描かれているのだが、ピントの合い方に手際が冴える。路地に子供が描いたものと思われるあみだくじが残っている。この狭い路地で幸運と不運との決定が偶然によって下されたのである。だからこの路地はもうふつうの路地ではない。〈私〉はそこに葡萄を下げて歩み入る。このごく日常的な光景のなかに神話的香りすらただよっている。

 吉川の歌を読んでいるとときどき、特殊なカメラを用いた微細撮影を見ているように感じられることがある。

 傘立ては竹刀置場に使われて同じ高さに鍔は触れあう    『青蝉』

 バグダッド夜襲を終えし機の窓に白人なれば顔のほの浮く

 中途より川に没する石段の、水面までは雪つもりおり

 円形の和紙に貼りつく赤きひれ掬われしのち金魚は濡れる

 くだもの屋の台はかすかにかたむけり旅のゆうべの懶きときを  『夜光』

 竹刀の鍔が同じ高さに触れ合うというのは当たり前だが、言われてみてそうかと気づく。二首目は米軍空爆の模様を夜間撮影したTV映像を見て作ったものだろうが、ほの浮く白い顔に焦点が当たっている。三首目は水面までは雪が積もっているという小さな発見、四首目は金魚が水から出てはじめて濡れるという発見が歌の核となっている。五首目はもっと精妙で、旅行先で見た青果店の陳列台がわずかに傾いているというだけなのだが、この歌では「かすかに」がポイントであることは言うまでもない。

 『短歌研究』2005年4月号の作品季評で穂村弘が吉川の歌に触れ、「必ずどの歌にもポイントがあり、そういう詩的なポイントを作ろうという意識が高い」と述べている。穂村はさらに言い進んで、「どこかにポイントを作れば歌が成立すると思っているふしがあり」、「パーツを持って来て作るやり方にどこかニヒルな感じがする」と述べている。同席した一ノ関忠人と日高堯子は穂村の見方に賛成していない。私もあまりニヒルな感じはしないのだが、「どの歌にもポイントがある」というのはその通りであり、ポイント制で採点すると吉川の打率はかなりの高率になるだろう。

 さて、最新歌集の『海雨』だが、第一歌集・第二歌集で見られた鮮明な句切れは、『海雨』に至って逆に目立たなくなる。しかしそれは後退ではなく前進であり、喩的照応をさらに一層歌のなかに巧みに溶け込ませている。

 五階より見れば大きな日なたかな墓の透き間を人はあゆめり

 水のあるほうに曲がっていきやすい秋のひかりよ野紺菊咲く

 冬の日は器ばかりが目立つかな茶碗に藍の草なびくなり

 木のまわりだけが昨日の感じして合歓の花咲く川の向こうに

 うすあかきゆうぞらのなか引き算を繰り返しつつ消えてゆく鳥

 このような歌を読むと、吉川はもうピシッと決まる像的喩を組み立てることにあまり興味はなく、むしろ喩的照応をさらに微分して日常的叙景のなかに溶解させようとしているかのようである。ここまで来ると短歌の初心者にはその味わいを読み取ることがなかなか難しいかもしれない。その安定感と破綻のない文体にはますます磨きがかかっていて、おそらくプロのあいだでは評価の高い歌集になることはまちがいあるまい。