第15回 松本典子『いびつな果実』

われをめがけ降る雪のあれ たれのたれの脚注でもなき道をゆくとき
                   松本典子『いびつな果実』
 近代短歌の歩みを歴史的に概観するとき、作風や意匠の違いは流派個人によりまちまちであっても、共通してその底を流れている希求は個の解放だろう。短歌ではアララギ系より明星系にそれが強く見られるといった濃淡の差はあれ、小説も含めた近代日本文学の一大テーマが個の解放だったのだから、それも驚くには当たらないと言えるかもしれない。明治期に西欧から移入された近代小説よりも古い伝統を引きずった短歌の世界でも、子規の改革によって短歌が個を詠うものとなって以来、歌は個の器として多く機能してきたのである。
 このような歴史的背景を踏まえて掲出歌を読むとき、この現代短歌が近代短歌の王道を深く踏まえていることが感じられるだろう。「真砂なす数なき星の其の中に吾に向ひて光る星あり」という、青年の矜恃に溢れた子規の歌を思い出させる。「われをめがけ降る雪のあれ」という力強い断定は、命令形の乏しくなった現代短歌では珍しいほどの直情を感じさせる。「たれの脚注でもなき道」という喩にさらに「たれの」をかぶせた三句は、定型の要である三句五音をあえて六音に増音することで淀みを作り、沈み込むような深い断定を生み出している。これにより孤独を怖れずに自分一人の生を生きたいという願いが、力強い措辞によって表現されていると言えよう。
 松本典子は1970年生まれ。1997年頃から作歌を始めて「かりん」に入会。2000年に「いびつな果実」50首で角川短歌賞を受賞している。同年受賞は佐々木六戈。松本は作歌を始めてから3年で受賞したことになる。『いびつな果実』は2003年に刊行された第一歌集で、受賞作を含む350首を収録している。序文は師である馬場あき子。歌集題名は「乳ふさのあはひを風が吹きくだるわれは君よりいびつな果実」から採られており、男性にはない乳房を持つ女性の体のことだとわかる。
 一読して気付くのは相聞の多さである。「一巻のほとんどが人思う歌で埋まっている歌集は近年珍しい」と馬場も書くほどである。いくつか引いてみよう。
君以外だれも容れずにびんと鳴る弓弦のごときわれの右側
つねにつねに瞠(みきらき)しまま口づける男なり 時雨やや強まりぬ
朝なさな覚めやらぬままに啜るカフェ君の唯一のわれであれかし
われはわれの海図をひろげ航(わた)りゆくごとく凛々しく君は恋ひたき
蜻蛉(せいれい)の捕らへどころも覚えそめ歩く速度をゆるめゆく恋
君の名を口にする時われはまた小さく息を整へてゐつ
 一首目、恋人以外の人を自分の右側に歩かせないという堅い決意が、びんと張った弓弦(ゆづる)という喩によって表されている。持ち出されたアイテムの伝統性も相俟って、古風さを感じさせる恋人の姿である。二首目では四句の句割れ「男なり時雨」が一字空けによって分断されていて、動から静へ、外界から内面への移行が効果的に表現されている。四首目は掲出歌と同じく直情の強度を感じさせる歌で、海図の喩によって一首に大きな広がりが出ている。五首目の意味は、子供がトンボを捕らえるときに、体のどの部分を指で掴めばよいかを覚えるように、恋人の間でも相手とテンポを合わせたり、相手を思うように動かしたりするコツを会得したということだろう。下句の「歩く速度をゆるめゆく恋」が恋の深まりをうまく表現していて、表現のポイントが高い。
 どれも相手にまっすぐに向き合う歌で、斜に構えたり被害者意識に溺れるようなことがまったくない。これが松本の美質であり、現代短歌シーンでは貴重な資質となりつつある。もはや絶滅危惧種と言ってもよい。それは人と人との関係において、まっすぐ向き合うことが難しくなっている現代社会の反映かもしれない。松本の歌がどこか古風な印象を与えるのは、近代短歌の伝統を重んじる「かりん」の会風と馬場あき子の薫陶によるものだけではなく、歌の随所に示されている「まっすぐさ」が、今ではまるで昭和の遺風のように懐かしくすら感じられることによる。
 80年代中期のライトヴァースの興隆から90年代前期のニューウェーヴ短歌の勃興にまたがる時期に起きたのは、修辞という短歌の形式面での変化・革新だけではなく、「世界の見え方」の地滑り的変容であった。この変容は、マクロなレベルでは「トータルな世界認識の不可能性」(世界の断片化)として、ミクロのレベルではディスコミュニケーション(人間の分断化)として発現した。この時代の空気を先取りするかのように、ひりひりする皮膚感覚で表現したのは早坂類だろう。
生きてゆく理由は問わない約束の少年少女が光る湘南
居てもいい場所ではなくて片すみのスケートボードをながく見ている
うつくしい朝のしたくを整えて整えて待つ深夜の一人
これらの歌を収録した『風の吹く日はベランダにいる』は93年の刊行である。その後に登場したポストニューウェーヴ世代の若い歌人たちの歌の基調には、それを主要なテーマとするか、それとも歌の低音部に低く響かせるかのちがいはあれ、ディスコミュニケーションの影が揺曳している。そんななかで松本の「まっすぐさ」はますます希少なものと見えてくるのである。
 これは大学で近代日本文学を学んだ後、国立能楽堂を経て国立劇場調査資料部に勤務し、みずからも能楽に親しんでいるという松本の経歴にも関係があるかもしれない。本歌集にも伝統芸能に関係する歌が収められている。
金泥の眼もて泣きゐる面に対(む)きわが剥落の箇所を押さへつつ
ゆづられぬ恋と思はむ時にこそわが取り出だす〈陵王〉の面
君が舞ふ邯鄲のゆめ万象のひとつにして万象を統べたり
 最初の二首は古典芸能のアイテムを借りて感情を表現したもの。一首目の「面」は能舞の面で、面と対峙することで自らの心の剥落を意識している。二首目の「陵王」は、古代中国のある国の王が優しい面立ちであったことから、敵と戦うときに恐ろしげな形相の面を付けて大勝したという故事にちなむ舞で用いられる面をさしている。だから作者が恋敵と戦う時に取り出す面は鬼のような形相の面なのである。三首目の邯鄲も中国の故事にちなむ能舞の曲目で、眼の前で舞われている舞はひとつの現象にすぎないが、舞台の上では世界の中心となるという一瞬の奇蹟を詠っている。古典芸能に材を得た歌は、ややもすれば門外漢には近寄りがたいものになりがちだが、その弊に陥ることなくうまく消化されている。
 松本の「まっすぐさ」は日常の感情の揺れ動きを詠んだ歌にも現れている。
みづからを荷ひ過ぎぬやう三十歳(さんじふ)の夏はじめての日傘を選ぶ
手ばかりは母に似たると湯上がりの肌(はだへ)にシッカロール置きゆく
液状のかなしみ掬ひやうもなく屈めばわれの犬寄り来たる
やはらかく子をなさぬこと問われゐて牡蠣鍋の湯気あはあはと立つ
父の茶碗われの茶碗は仕舞はれてあり独りゐの母のくりやに
 働く日常と家族との関係が細やかに詠われており、これも近代短歌の王道だと改めて感じさせる歌群である。〈私〉の内面や感情という「近景」と、世界の命運という「遠景」の中間に位置し、伸ばせば手の届く距離にある「中景」を構成するのは家族・友人・職場・通勤電車からの風景などであり、近代短歌はこれらの主題を詠うことで成立した。ポストニューウェーヴ世代の若い歌人たちの歌からこの「中景」が欠落していることは、しばしば指摘されることである。松本の歌には「中景」がしっかりと軸としてあり、それを中核として「近景」とわずかな「遠景」が配されているところに安定感が感じられるのだろう。
何よりも疾く色づかな秋風に新しきリップスティックを購ひぬ
片方のパンプスを脱ぎ足裏(あなうら)をあそばせている夜の地下鉄
ほどかるる帯に呼吸を吹きかえし身は捩れつつひらく朝顔
表紙絵の二尾の鮎と見てあればふいに波立つ車窓のひかり
 一首目に歌われた女性ならではの心の華やぎ、二首目の倦怠感の漂う夜の風景などに見られる身体感覚もまた松本の歌を清新なものにしている。三首目は着物の柄のことだろうか、それとも自分の身体の喩か、判然としないながらも魅力的な世界である。四首目は本か雑誌の表紙の絵が引き金となって起きる一瞬の感覚の覚醒を詠って美しい歌となっている。
 『いびつな果実』に収録された歌を辿ると、作者の個を生きる覚悟とまっすぐな眼差しが紙背から伝わって来る。このような歌に出会えることもまた、短歌を読む深い喜びのひとつである。短歌表現の先鋭性に焦点を当てる立場から見れば、松本の歌はひょっとしたら周回遅れに見えるかもしれない。しかしみずからの個としての生を生きることに較べれば、表現の先鋭性など何ほどのものかと思える日もあることも、また事実なのである。