第160回 『かばん』新人特集号

引き上げしスワンボートの首はづし杭に懸けおく冬のみづうみ
                嶋田恵一「スワンボート」
 「かばん」の新人特集号が出た。vol.6となっていて、前のvo. 5は2011年に出ているので、4年ごとの企画と思われる。前号まではB5版だったが、今号からはひと回り小さいA5版に変わっている。活字の様子も変化していて、vol. 5ではいかにもワープロで打ったものを複写したような誌面で、昔の名残か黒々としたゴチック体が目立っていたが、vol.6では標準的な活字と組版になっていて読みやすい。昔、「かばん」のゴチック体は目にきついので何とかならないかと苦言を呈したことがあった。しかし、こうして標準的な活字・組版になってみると、いかにも同人誌的でアナーキーな外観が薄れたことに一抹の淋しさを感じるのだから、人間とは勝手なものである。
 vol. 5の新人のなかには、2009年に角川短歌賞を受賞した山田航や、2013年に同じく角川短歌賞を受賞することになる伊波真人がおり、vol. 6には2015年に同賞を獲得した谷川電話がいる。どうやら「かばん」は角川短歌賞と相性がよいらしい。「かばん」の新人特集号は外部から招いた評者の豪華さでも際立っており、今回も加藤治郎・松村正直・笹公人・米川千嘉子・奥村晃作・堂園昌彦・光森裕樹などが名を連ねている。外部評は仲間褒めにならないので、苦言を述べたり添削する人までいて、それもおもしろい。ざっと読んで注目した人、感心した人が何人かいたので、少し書いてみたい。
 いちばん驚いたのは冒頭に挙げた嶋田恵一しまだ けいいちである。プロフィールによれば、短歌を作り始めて10年になるという。外部評の米川千嘉子が新聞歌壇でときどき目にしていた名前だと書いているが、私は知らなかった。驚いたのは嶋田の作る短歌が「かばん」調でなく、写実を基調とする文語定型であることだ。
ピアニスト退場ののち残りたるピアノと椅子とマズルカの影
父乗せし霊柩車ゆく飾られて祭りの準備すみたる街を
母と妻惑星ふたつの重力にしづかに歪むゆふぐれの虹
広がりし野火踏み消せば靴底のゴムの焦げたる匂ひのぼり来
恐竜の鳥となりし夜羽毛ある雛にまばゆき天空の川
あかねさす蟹のはさみのあひだほど海かがやけよぼくの発つ朝
 掲出歌「引き上げしスワンボートの首はづし杭に懸けおく冬のみづうみ」はおそらく実景と思われる写実である。シーズンオフの冬になり、行楽地の湖のスワンボートの首の部分だけが取り外されて、湖畔の木の杭に懸けれらているという光景で、叙景に徹していて心情は述べられていないものの、詩情が漂う歌になっている。上の一首目は、コンサート終了後の心地よい余韻を「マズルカの影」で表現したもの。二首目は、祭りの飾り付けが施された街と父親を乗せた霊柩車の対比がポイント。三首目は妻帯者にとっては膝ポン短歌で、母親と妻は楕円のふたつの焦点のように、子であり夫である自分を間に挟んで重力波を送りあうのだ。それを虹が歪むほどだと表現したところがコワい。四首目はアララギにでもありそうな叙景歌で、ここにも心情は述べられていないが、確かな感覚で捉えられた世界が立ち上がる。五首目は写実ではなく空想の歌で、最近になって羽毛のある恐竜の卵が発見されたいうニュースに触発されたものかもしれない。鳥になったものの、まだヒナなので空を飛ぶことはできないが、成長すれば空の住人となるのであり、夜空に輝く銀漢がまるで祝福しているかのようである。六首目は連作の最後の歌で、枕詞の「あかねさす」は「蟹」にはかからないが、蟹の赤さを表現したものだろう(余談だが、カニは茹でないと赤くならない)。「あかねさす蟹のはさみのあひだほど」までが「(ほんの少しの)あいだ」を導く序詞的に働いている。結句の「海かがやけよぼくの発つ朝」は、今どき珍しく明るい決意表明で、さわやかに連作を締めくくっている。
 米川も嶋田が「かばん」新人特集のメンバーと知って驚いたと書いているが、風景のなかからポイントとなる点を取りだして、それを核として歌を組み立てる手腕は実に達者な手さばきである。意味不明な歌がないものよい。
 次は川合大祐かわい だいすけの「グッド / バッド モーニング / ナイト」。
手のなかに握りしめたい虹がある三日月の下噴水浴びて
手をほどく眠りに噴き出す無意識をほんとうの無へ返せるように
海を見るための地図買うローソンで真黒い窓の自分は見ない
TV点けそこに映らぬ人生を噛みしめるようブロッコリー噛む
何もかも見えすぎる朝水盤に手指浸ければもう見失う
 嶋田とは真逆の作風と言ってよい。川合の関心事は「自分」すなわち〈私〉である。それは上の二首目、三首目、五首目に表れている。眠りに就くと無意識が頭をもたげる。それはもう一人の自分である。川合はそれを本当の無へ返したいと願っている。夜のコンビニの窓に映った自分の姿は見ないようにする。鏡像もまたもう一人の自分である。朝起きると、知覚・思考が研ぎ澄まされて見えすぎるという感覚に襲われるが、洗面するだけでその感覚は去る。川合は「短歌は短くて長い叫びである」と書いているが、そこに川合が短歌に向き合う真摯な思いがこもっているのだろう。連作題名の「グッド / バッド モーニング / ナイト」も、二値的な極を行き来する自分の喩と思う。
 次は桐谷麻ゆききりたに まゆきの「日と火と灯」。
天窓が割れるくらいのあかるさでそれでも迫りくる寒気団
寄宿生のように駅舎を行くひとはみんな揃いのつむじをつけて
夕映えのサラダボウルに異国語の名しか持たない野菜は群れて
平原の面影のこしその麦の宿命どおりに焼けあがるパン
パレードに踏みしだかれてゆったりと腐るつばさのかたちのレタス
パパ、あのひとはパパとよばれて雨粒は半濁音をひらかせて咲く
 内部評を山田航が書いているが、桐谷は山田と同郷で北海道出身らしい。山田によれば北海道の冬は明るいのが特徴で、それが桐谷の短歌によく出ているという。また札幌という街の「空白性」も反映していて、桐谷の歌には「中身のないからっぽのあかるさ」が感じられるとしている。
 言葉の選択と素材の配置に清新な詩情が漂う。たとえば三首目、「夕映えのサラダボウル」と情景を設定し、そこに「異国語の名しか持たない野菜」を配するのはなかなかである。具体的な野菜名を挙げずに表現しているところがよい。そういえば最近は八百屋にルッコラとかチコリとかロマネスコなどという野菜が並んでいて、「あなたはいったいどこの誰?」と思うことがある。「異国語の名しか持たない野菜」という表現に淋しさが滲む。四首目もおもしろい。麦はパンになって焼かれる宿命を宿していたという発想である。ただし「焼けあがる」は「焼きあがる」だろう。外部評を書いた堂園昌彦がこの歌を取り上げて、渡部泰明の『和歌とは何か』とからめて論じた文章がおもしろい。堂園がこんな本を読んでいるのが意外だった。五首目では「ゆったりと」が気になる。怖かったのが六首目で、これは妻子ある男との不倫の歌だろう。男の家族との団欒を物陰からこっそり見ている。舞台は雨の遊園地かショッピングモールの屋上がよかろう。初句の七・七・五が二音で切れるところに切迫性があり、結句の「半濁音をひらかせて咲く」という喩も美しい。美しいがコワい歌である。
 次は睦月都むつき みやこの「雲雀のワイン」。
八月の君の午睡が醒めぬよう街につめたく満ちるはちみつ
さざなみに揺れる琥珀の古代湖へ静かに垂らしてゆく栞紐
レプリカと呼ばれるときも微笑めば私を欠けさせてゆく様式美
帽子屋の娘の花ふる婚姻へ送るちいさなちいさな迷路
日々のことを素数をかぞえるようにしてたとえば豆腐を切り分けている
 独自の不思議な世界を展開している人である。三首目の「娘」に「レプリカ」とルビを振っているあたりに告白的な私性を感じるが、全体としてひとつの物語に収斂するわけではない。しかしながら詩情溢れる世界観で、どこか小林久美子の世界にも通じるところがあり、魅力的な歌人だ。
 巻末で総合評を書いた井辻朱美が、ある同人の歌を取り上げて、「この意識のあり方はツイッターのようだ」と書いているのが目に留まった。近代短歌のセオリーは「対象化」にある。日々の歌でも空想の歌でもよいが、ある情景なり出来事なりをいったん自分から切り離して対象化し、たとえ描く情景に自分自身が含まれていたとしても、それをもう一人の自分が視ているように描く。斉藤斎藤の言い方を借りれば「私性とはななめうしろから撮ること」ということになる(『短歌ヴァーサス』vo. 11所収「生きるは人生とは違う」)。対象化には必然的に一旦停止がある。しかしTwitterは「○○なう」が示すように、一旦停止のないなまの生きている時間をだらだらと垂れ流すものだ。近代短歌では詠まれた出来事時 (t1)とそれを詠んだ作歌時 (t2)の間に対象化に必要な時間が経過している(t1<t2)。しかしTwitterではその時間差がないのである(t1=t2)。今度の新人特集号を読んでいると、確かにTwitter的な、一旦停止のない歌、つまりは対象化のない歌が多いと感じる。それが現代の若い歌人の作る歌の潮流となっているかどうかは私にはわからない。それが主流となって新しい現代短歌の定型を作るかはもっとわからない。が、とまれ、近代短歌を愛する私にはあまり好ましいことではない気もするのである。

【補記】
 本日(2015年3月16日)の朝日新聞朝刊大阪版に掲載された短歌時評を読んで、穂村弘もついに「共感」から「ワンダー」に舵を切ったかと思うと、感慨ひとしおである。