第166回 河野美砂子『ゼクエンツ』

プルトップ引きたるのちにさはりみる点字の金色きんの粒冷えてをり
                    河野美砂子『ゼクエンツ』
 必ずしも河野の作風を代表する歌ではないのだが、一読して思わず「アッ」と叫んだ歌を掲出歌に選んだ。そうだったのか。プルトップの横のブツブツは点字だったのか。調べてみると、視覚障碍者がアルコール飲料とジュースなどの非アルコール飲料とを区別するために付けてあるのだという。知らなかったという衝撃がおさまると、あらためてこの歌を味わうことができるようになる。作者はピアニストなので、指先の感覚が一般人よりも遙かに鋭いと思われる。ピアノでは、指先で鍵盤を押すタッチが音楽のすべてを生み出すからである。ふつうの人はプルトップの横にブツブツがあることなどには気がつかない。たとえ指先が偶然触れても、一般人の指先の感覚は鈍いので知覚すらできまい。作者の感覚の鋭敏さをよく表す一首である。
 『ゼクエンツ』は第一歌集『無言歌』から11年の時を経て上梓された第二歌集である。題名の「ゼクエンツ」はドイツ語で、音程などを変えながら反復されるパッセージをさす。英語の sequenceに当たる。
 誰でもそうだと思うが、私は歌集を読むときに、すっと歌集の世界に入って行けることもあれば、入り口で行きつ戻りつを繰り返し、なかなか入って行けないこともある。歌のどの部分に波長を合わせればよいのかがわからず、何度も調律をやり直すのである。しばらく我慢して読み進むと、たいていはその歌人の基本波長と思われるものに行き当たる。そうしたら、その波長をベースラインに設定しておき、そこから上下への変化を感得することができる。河野の場合はどうかと言えば、なかなか入って行けない部類に属する。読者は言葉の世界の中で五感のセンサーを研ぎ澄まして読むことを求められるからである。
 河野の感覚の鋭敏さを示すのは次のような歌だろう。
階段の木が古いのですのぼりゆく音のむかしのその足の次
飼犬がしつぽをまるめ籠もりをり匂いはつかにいかづちがくる
ひらかれたノートの上をうすうすとよぎる翳あり魚の匂ひす
ゆびさきに凹凸感ず秒針のひびき影なす漆喰壁に
ひややかにローションのびてなにかしらてのひらうすくめくれるここち
骨切りの身にほのかなりこう透きて生身の鱧をしっとりと置く
植物に水をあたへてしばらくを耳すましをり濡れてゆく音
 一首目、木の階段がギシギシ鳴るのを聞いているのである。音感の鋭い作者ならばひとつひとつの音程を聴き分けることもできるだろう。「むかし」とあるから、過去にまで遡って音を記憶しているのだろうか。二首目、犬はたいてい雷を怖がるが、作者は雷に伴うオゾン臭に敏感に反応している。私は雨の匂いはよく感じることがあるが、雷の匂いは感じたことがない。三首目、「よぎる翳」が何をさすのか判然としないが、ここでもふと漂う魚の匂いが感覚されている。四首目、漆喰壁のわずかな凹凸を感じるのはピアニストの鋭敏な触覚だが、この歌にはもうひとつ「秒針のひびき影なす」という読みのポイントがある。素直に読めば「秒針の影」とは、秒針が文字盤に落とす影となるが、実は影を落としているのは秒針ではなくその「ひびき」である。常識的には音が影を作ることはないので、これは共感覚的表現ということになろう。五首目、手のひらにローションを伸ばして塗ると、手の皮が薄くめくれたような気持ちがするということは、手のひらの感覚がより鋭敏になったということだろう。六首目、はもは夏の京都を代表する食材だが、小骨が多いため、細かく骨切りしなくてはならない。骨切りしたら湯でさっとゆがいて、氷水に入れて身を締める。この歌では骨切りされた透き通るような白身にわずかに血の赤が滲んで見えると詠っている。繊細な観察と言えよう。七首目は驚くべき歌で、植物が濡れてゆく音が聞こえるというのである。想像もつかないがそのような音があるのだろうか。だとしたら河野ひとりに聞こえる音にちがいない。
 和歌には伝統的に、正述心緒と並んで寄物陳思という技法があり、形を変えつつも近代短歌に引き継がれている。物に寄せて思いを詠む方法であり、近現代短歌で重要な位置を占める喩はそのヴァリエーションと言ってよい。ところが河野の歌においては、詠まれている事物は自らの心情を仮託する対象ではない。「生クリームのやうな濃い闇ひとところ梔子匂ふ一角を過ぐ」という歌を例に取ると、「生クリームのやうな」という直喩は「濃い」にかかるが、その意味作用は局所的で歌全体に及ばない。また「濃い闇」や「梔子」が何かの短歌的喩として置かれているわけではなく、「暗闇から梔子が匂った」というのは、経験された事態そのままであって、それがもう一度位相を変えて別の意味作用を起こすことはない。
 このように河野の短歌では、事物から心情へと達するベクトル構造が不在なのだ。それでは河野の短歌世界を構成する基本構造は何かと言えば、それは「万物に感応する知覚の結節点としての〈私〉」というものではないだろうか。歌に詠まれたすべての景物は〈私〉の知覚というフィルターを通したものであり、〈私〉のフィルターでいったん漉されて再構成された世界に読者は立ち会うことになる。このため読者は感覚の肌理きめの目盛りをその世界に合うように微調整しなくてはならない。読みの際に強いられるそのような調整操作が、河野の短歌の世界を入りにくいものにしているように思われる。
 河野の短歌のベースラインは上に引いたような鋭敏な知覚を核として構成された歌なのだが、歌集後半になると少し趣の異なる歌が散見される。次のようにどこか奇妙な歌である。
舟を焼く歌書きしのち秋が来て呼びさうになる呼ばなくなつた名を
ふくざつな雲のすきまに六月のひかりさし貝釦かひぼたんをすてる
百合樹ゆりのきがあなたの夜に咲いてゐて門灯を消す一本のゆび
水平に耳に来てゐる夕暮れの橋を渡りぬ遠くなる耳
枯れ枝で春の地面に輪を描いてたれか入りゆけりその輪のなかに
 一首目、まず「舟を焼く歌」という出だしがよい。何か過剰な感情を感じさせる。呼ばなくなった名とは、別れた恋人の名と取るのが順当かもしれないが、他のどんな名であってもまたよかろう。意味を一意的に追い込むのではなく、下句に多義性を残すことによって謎めいた魅力を生んでいる。このことは二首目にも言えて、なぜ貝釦を捨てたのかを語らないため、いつまでも消えない残臭のように読後に空虚が揺曳する。三首目、電灯のスイッチを切るときは人はたいてい指一本で切るが、その指をことさらにクローズアップすることで何かの過剰が生まれている。四首目、夕暮れが耳に水平に来るという認識にまず驚く。そのうえ橋を渡ると耳が遠くなると言われると、どこかに耳を置いて来たようにも感じられてすこぶる奇妙である。五首目は奇妙というよりもミステリアスな歌で、地面に描いた輪の中に人が入って消えてしまうという。これらの歌は鋭敏な感覚を軸とする世界の再構築というラインとは方向性のちがう歌で、河野のもうひとつの可能性を示すものかもしれない。
 最後に心に残った歌を挙げておこう。

街なかにぶあつい昼の響きつつときをり井戸のかげ冷ゆる街
ふれがたく黒白の鍵盤キイ整列す美しい音の棺のやうに
ふかくさす傘のうちがは冥ければ新緑のあめうをびかりする
ついらくの距離やはらかく抱きよせて雨ふれり地に人に時間に
魚に降る雪はるかなれふる塩のなかにゆめみる鱈といふ文字
咲きかけの花しろじろととどけらる時かけて死は位置をるのに
橋の上に曇り大きな喪の野あり百合鴎らはなまなまと飛ぶ
道しろく風死んでをり秋蝶のはたたく音の聞こゆるまひる