第168回 春野りりん『ここからが空』

イチモンジセセリ一頭の重さあり指に止まりて羽ばたく須臾に
                 春野りりん『ここからが空』
 日本語には物を数えるときに用いる類別詞 (classifier)という語種があり、敷居の低い言語学の話をするときに話の枕に使うことがある。刀剣は「一振」、箪笥は「一棹」、烏賊は「一杯」、論文は「一本」、神様は「一柱」、ウサギは「一羽」で、チョウチョウは「一頭」と言うとたいていの学生は驚く。ふだんは「一匹」としか言っていないからである。類別詞の背後には、日本語を超えた名詞クラス (noun classe)という一般言語学的問題が横たわっているのだが、それはさておき、掲出歌では正しく「一頭」と表記されている。イチモンジセセリは本州全土に分布する小型の蝶で、一頭の重さはどれくらいあるだろうか。ほんのわずかであることはまちがいない。それが指に止まって羽ばたく瞬間に、私の指にその重さが感じられるというのである。尋常ならざる感受性によって計量された蝶の重量とは、心で感じた一頭の蝶の命の重さに他ならない。その命のはかなさが仏教用語である「須臾」によってくきやかに彫琢されているところに一首の価値がある。また「一頭」と表記することによって、蝶の重さが増すように感じられるのもポイントである。この歌は「短歌人」2010年1月号に掲載された初出時には結句がちがっていて、「イチモンジセセリ一頭の重さあり指に止まりて羽ばたきをれば 」であったという。歌集に収録するに当たって改作したのだろう。成功した改作例と言えよう。
 春野りりんは1971年生まれで、「短歌人会」同人。作歌を始めて10年間の作品を収録したのが第一歌集『ここからが空』(本阿弥書店 2015)である。栞文は林望・黒瀬珂瀾・三井ゆき。「りりん」は古代ヘブライ語で夜の精霊の呼び名だと博識の黒瀬が書いているが、むしろ私には春の音を表すオノマトペのように聞こえる。
 さて、春野の歌集を一読して、何がこの歌人の特質かと考えると、それは一首に閉じ込めた世界のスケールの大きさではないかと思われる。
大神が弓手に投げし日輪を馬手に捕らへてひと日は暮れぬ
めじろ来て「地球は球」と啼くあしたまだ闇にゐるひとをおもへり
あめつちをささふるものかあさあけにふとくみじかき虹はたちたり
待ち針のわれひとりきり立たしめて遊星は浮く涼しき闇に
あさがほの黒くしづもる種のなかうづまき銀河は蔵はれてあり
 一首目はまるで古代の神話世界のようで、太陽が東から昇り西に沈む様を、神が太陽を右手で投げて左手で受け止めるようだと表現している。このスケール感は尋常ではない。二首目、「地球は球」は流布しているメジロの聞きなしかと思ったが、そうではないようだ。メジロは朝早く人家の近くに飛来して美しい声で啼く。その声を愛でながら、作者は地球の裏側にいて眠っている人に思いを馳せるのである。三首目では虹を天地を支える柱に見立てている。その発想もさることながら、「あめつち」「ささふる」「あさあけ」の[a]音の連続が広・大・開を暗示し、「ふとく」「みじかき」「虹」の[u]音、[i]音が狭・小・閉を共示する上句と下句の音的対比が印象的で、実際に声に出してみるとそのことがよくわかる。また「虹」一字を残してすべて平仮名表記にすることで、「虹」が平仮名部分の天空を支えているかのような視覚的印象も生み出している。四首目、作者はバスか友人を待って独りぼつねんと立っているのだろう。その様を「待ち針」に喩えるのはそれほど独創的とは言えないかもしれないが、いきなりカメラが引きの画像になり、人工衛星から映したような、虚空に浮かぶ地球の絵に切り替わるのは独創的である。「遊星」は「惑星」と同義だが、コノテーションが異なり、「さくらばな陽に泡立つを目守りゐるこの冥き遊星に人と生れて」という山中智恵子の名歌に繋がる点でも短歌的匂いのする語彙と言えるだろう。五首目は純粋な想像の歌で、朝顔の黒い種の中に発芽してぐんぐん伸びる蔓の萌芽が入っているというのだが、伸びる蔓がやがて宇宙に渦巻く銀河へと至るスケール感に並々ならぬものがある。
 このような歌柄の大きさは、ややもすれば等身大的日常を詠うことに傾きがちな現代短歌シーンにおいては貴重な資質である。かといってスケールが大きい歌だけでなく、冒頭に挙げたイチモンジセセリの歌のように、微細なものに寄せる眼もまた持ち合わせている。
 面白いと思ったのは次のような歌である。
ガウディの仰ぎし空よ骨盤に背骨つみあげわれをこしらふ
ヒトの目に見えざる色のあることを忘れて見入る花舗のウィンドウ
子を抱きて夕映えの富士指させばみどりごはわが指先を見る
今日ここにわれら軌跡をかさねあふ注げよ花火銀冠菊
ふくびくうを花野としつつ朝の気は身のうちふかくふかくめぐりぬ
息継ぎをせざる雲雀ののみどより空へと溢れつづけるひかり
 一首目、ガウディはバルセロナの聖家族教会を設計した異色の建築家で、空へと屹立するゴシックの尖塔と脊柱の椎骨とを二重写しにした歌である。ガウディの建築が生物を思わせる形をしているところから生まれた連想だろう。二首目、「ヒト」と片仮名書きしてあるのは生物種としてのホモ・サビエンスを意味する。花屋には色とりどりの花が売られているが、改めて考えてみると、それらはすべてヒトに見える色である。色は物体が反射する光なので、可視光線ということになる。歌には「忘れて」とあるが、それは作者の仕掛けた工夫で、そう言われることによって改めて思い出す作用がある。三首目、親は指さした夕映えの富士を見てもらいたいのだが、子は親の指先を見る。大人が見ている世界と子供が見ている世界は同じようでちがうというずれを歌にしたもので、はっとさせられる。四首目の「銀冠菊ぎんかむろきく」とは菊の花びらのように広がって流れ落ちる打ち上げ花火のこと。「今日ここにわれら軌跡をかさねあふ」とは、見知らぬ人が今日ここに花火を見るために集っているという一期一会の思いと、流れ落ちる花火の火が交差しあう様子を重ねたものだろう。「花火の歌」を集めるとしたらぜひ入れたい歌である。五首目、朝の空気に漂う花の香りを詠んだ歌だが、ポイントは初句の「ふくびくう」だろう。漢字にすれば副鼻腔で、鼻腔すなわち鼻の穴の横の骨にある空洞をさす。「ふくびくう」と平仮名書きにすると、何やら異国のお伽話に出て来る人物のようにも聞こえる。「ふくびくう」「ふかくふかく」と一首に [hu]音と[ku]音が連続するのも工夫だろう。六首目は揚雲雀の歌で、息継ぎも忘れて天空高く囀る雲雀の喉から光が溢れ出ると詠んでいる。高野公彦の名歌「ふかぶかとあげひばり容れ淡青の空は暗きまで光の器」とどこか呼応するようにも見える歌である。
 このような歌以外にも、相聞歌や厨歌や母親の視線で子供を呼んだ歌なども収録されていて、主題や作歌法の幅の広さも魅力的だ。また東日本大震災の後に南相馬を訪れた折に「とどめようもなく生まれた歌」には鬼気迫るものが感じられる。
方舟に乗せてもらへぬ幼らの悲鳴のやうな朝焼けを浴ぶ
黄揚羽のとまりゐるわが脇腹より土地の負ひたる悲しみは入る
水鏡ゆきあへるひとみなわれにみゆるたそがれ手触れむわれに
折鶴の天よりくだるこゑは地にあふれて白き木蓮となる
 最後に私が集中で最も美しいと感じた歌を挙げよう。
はつなつのやはらかきしろつめくさをかすかに沈めむくどり翔てり
 初夏の公園かどこかに青々と広がる絨毯のようなクローバーの群落からムクドリが飛び立つ様を活写した歌で、ポイントはもちろん「かすかに沈め」にある。羽ばたくときに生じる下向きの風圧で、クローバーの葉と花がわずかに沈む。このような歌を読むと、ふだんは何気なく眺めている世界に、突然、高解像度の望遠鏡か顕微鏡が向けられ、同時に時間の流れも緩やかになって出来事が精緻に微分されるような感覚に捕らわれる。これがポエジーの持つ「世界を新しくする力」である。また初句の「はつなつの」から「かすかに」までを平仮名書きすることによって、音読時間が長くなるように韻律を調整し、ムクドリが飛び立つまでの準備時間をあたかもスローモーションのように感じさせているのも作者の工夫だろう。