第174回 短歌研究新人賞・角川短歌賞雑感

夕焼けの浸水のなか立ち尽くすピアノにほそき三本の脚
            鈴木加成太「革靴とスニーカー」
 今年(2015年)の短歌研究新人賞は遠野真(とおの しん)の「さなぎの議題」が、角川短歌賞は鈴木加成太(すずき かなた)の「革靴とスニーカー」が受賞した。二人とも若い男性歌人である。
 遠野真は平成2年(1990年)生まれの25歳。現在、千葉大学で社会学を学ぶ現役大学生である。今年の3月から未来短歌会に所属して、黒瀬珂瀾の選を受けている。いつから作歌を始めたかはっきりしないが、おそらく歌歴は短い。短歌賞への応募も初めてだろう。
肉親の殴打に耐えた腕と手でテストに刻みつける正答
割れた窓そこから出入りするひかりさよならウィリアムズ博士たち
かたくなに固有振動数だけをまもる虫かご 夏が終わった
ささやかなやさしい詐術 担任のネイルは海のひとときを持つ
 講評で穂村弘は、「子供から大人になろうとする時期の感覚が痛みと瑞々しさ、そして生々しさを伴って描かれている」と述べ、栗木京子は、「肉親との軋轢、自殺願望、孤独といった重いテーマが被害者意識を過剰に先立てることなく詠まれていて、静かな覚悟を感じさせる」と評した。歌の中に「地学教師」「七限」「テスト」「正答」「担任」などの言葉が散りばめられていて、高校生活が歌の舞台であることに触れて、加藤治郎は、他にも高校を詠んだ応募作品があり、注目される傾向だと指摘している。
 鈴木とテーマがかぶって損をしたのが、候補作に選ばれた松尾唯花の「夏、凪いでいる」だろう。
この場所もかつて誰かのフレームで、空き教室に吹きこむ桜
冷蔵庫のひかりまぶしいキッチンでまだ真夜中の街を知らない
夏の花が好きなら夏に死ぬらしく網戸にかける殺虫スプレー
くちびるにマウスピースが触れたときどこかに遠く夏、凪いでいる
 女子の目線から高校生活をのびやかに詠っていて好感が持てる。また「つめたい」「ぬるい」「まぶしい」などの感覚形容詞が随所に使われていて、感覚に軸を置く世界把握が押さえられているのもよい。松尾は平成3年生まれの大学院生で、ポトナム・京大短歌・奈良女短歌所属とあり、おそらく奈良女子大の学生だろう。私は奈良女子大にも教えに行っているので、個人的ながら応援したい気持ちになる。
 次席に選ばれた杜崎アオの「鋏とはなびら」にも注目したい。プロフィールや所属は不明(非公表)。杜崎は平成23年にも「たまごのおんど」で応募するも受賞を逃している。『短歌研究』11月号の「新進気鋭の歌人たち」にも選ばれて十首出詠しているが、こちらもプロフィールは空白である。
気づかないうちにせかいはくれてゆく歯医者の目立つ駅前通り
帰れると思ってしまうしんしんと折りかさなってさびる自転車
鳥の家 鳥のいる家 鳥かごのある家 鳥の墓のある家
わたりゆく夜から夜へせいけつな息を止め合うふたりはそっと
人の家 人を待つ家 (ひとはみなみじかい) 人の墓のない家
川だけがまちを出てゆくゆるやかに送ってあげる霧雨のあと
 今回の応募作のなかで最も修辞力のある人だ。短歌は文芸であり詩であるので、想いの素直な吐露ではだめで、修辞の工夫がなくてはならない。漢字と平仮名の配合、字空け、リフレイン、括弧書きなどを駆使して、自分の世界を作り上げている。ただ講評ではそれがやや裏目に出たようで、架空の町を作り上げる手法はおもしろいが、あまりに抽象的すぎるという審査員の意見もあり、次席に留まったのが残念である。
 三首目は特におもしろく、「鳥の家」は意味がよくわからないが、「鳥のいる家」なら鳥が飼われている家だろうと推測がつく。「鳥かごのある家」で一気に不穏な気配が漂う。鳥かごだけがあるということは、中の鳥が死んだか逃げたかしたということだ。最後に「鳥の墓のある家」で、鳥は死んで庭に埋葬されたと知れる。リフレインを少しずつずらして最後に落とし込む手法が秀逸である。この歌が五首目と対になっているのは明らかで、「人の墓のない家」まで来るとハッとさせられる。
   角川短歌賞の鈴木加成太は平成5年(1993年)生まれで、今年22歳か23歳の大阪大学の学生である。大阪大学短歌会所属で、高校生の時に作歌を開始。平成23年にNHK短歌大賞を受賞し、平成25年の角川短歌賞で「六畳の帆船」が佳作に選ばれている。
アパートの脇に螺旋を描きつつ花冷えてゆく風の骨格
やわらかく世界に踏み入れるためのスニーカーには夜風の匂い
平日のまひるま喫茶店にいる後ろめたさに砂糖剥きおり
水底にさす木漏れ日のしずけさに〈海〉の譜面をコピーしており
エクレアの空気のような空洞をもち革靴の先端とがる
 スニーカーは若さと学生の象徴で、革靴は就職活動と社会人のシンボルである。まもなく社会に出なくてはならない若者の心情を抒情とともに描いていて、審査員全員から高評価を得た。米川千嘉子は、被害者意識とか暗い方に傾く歌が多い中で健やかな感じがするところがよいと評価し、島田修三は、もう少し文語脈を取り入れたほうが歌が締まると注文を付けている。
 次席に選ばれたのは佐佐木定綱の「シャンデリア まだ使えます」だが、私は受賞を逃した飯田彩乃(未来)の「WHERE THE RIVER FLOWS」に注目した。
ゆつくりと目を瞑つてはわたくしを瞼の裏にしまひこみたり
見る夢の端から端まで伸ばしてもオクターヴには届かない指
雨音ももう届かない川底にいまも開いてゐる傘がある
ふくらはぎは魚のごとくに瞬いて夜と闇とのあひへと還る
組み立てのテーブルは脚を与へられここにまつたき獣となりぬ
 連作の題名はおよそ「河が流れているところ」というような意味で、全体に水の流動的なイメージが基調となっている。やや抽象的で夢幻的な描き方ながら、静かな音楽かかすかな衣擦れのように、感覚的世界を立ち上げている。しかし、審査員からはイメージはきれいだが観念的で外部が描かれていないと厳しく評されている。島田修三は最後の講評で、「作者の外側に存在している現実、他者にどう向かい合っているかを考えながら読みました。現実とか他者は、我々がどう思おうが、誰の前にも確かな重さを持ってのしかかるように存る。我々はそこから逃げられない。リアルってそういうこと」と述べていて、飯田のような歌は評価していない。しかし私は小林久美子のような歌も好きなので、どうしても島田は厳しすぎると感じてしまう。
屠られるのを待つ鳥がうつくしい闇へと吐きだす口中の青  『恋愛譜』
さまよえる夢のおわりを棄てるとき飛沫があがる砂嘴のむこうに
 また佳作に選ばれた碧野みちる(平成2年生 かりん)の「鋏」も取り上げておきたい。
「神と逢ふ場所」と言ふ君われの住むベッドタウンの川に橋あり
乳ふさのまへに賢治をひらきもち母に抱かれぬひとの詩を読む
くちづけの最中にふいの雨を嗅ぐ東京の水にに麦芽がにほふ
野菜庫の底の塵みな拭きとりてなにゆゑか往き場うしなふわれは
 生後すぐに母親を失った恋人との別れまでがテーマで、相聞が少なかった応募作のなかで注目される。「みどり児の君は授乳スタンドよりミルク吸ひたり叔母の背後で」のように、他に見られない独自の視点で詠っているところに個性を感じる。
 ちなみに短歌研究新人賞次席の杜崎アオの連作は「鋏とはなびら」で、短歌研究新人賞と角川短歌賞の両方の応募作に「鋏」という語のあるのが、偶然とはいえおもしろいと感じた。これを手がかりに時代の気分を論じることもできそうだが、鋏と言えばすぐ「切断」「断絶」が想起され、ありがちな論になりそうなのでやめておこう。
 短歌研究新人賞は25歳の青年、角川短歌賞は22、3歳の青年が受賞し、いずれも現役大学生である。鈴木は阪大短歌会の所属で、近年あい次ぐ大学短歌会会員の受賞がまたひとつ増えたことになる。短歌研究新人賞はそうでもないが、角川短歌賞の予選通過者の顔ぶれを見ると、奈良女短歌会、九大短歌会、京大短歌会、外大短歌会などがずらりと並んでいる。まともに活動しているのが全国で早稲田短歌会と京大短歌会くらいだったひと昔前を思えば隔世の感がある。なぜ全国で雨後の竹の子のように大学短歌会が誕生したのか謎である。
 応募作品に「生きづらさ」を詠ったものが多いのも特徴と言える。角川短歌賞では、佐佐木定綱の「シャンデリア まだ使えます」や、ユキノ進の「中本さん」、宇野なずきの「否定する脳」がそうであり、短歌研究新人賞では、北山あさひの「風家族」、月野桂の「階段の上の子ども」が該当する。家族の軋轢、親による子供のネグレクト、不安定な非正規雇用などの問題が扱われており、世相を反映していると言えるのかもしれない。このご時世で相聞で30首または50首作るのは難しいのか、純粋な相聞が少ないのも特徴と言えるだろう。