第175回 学生短歌会

これの世に咲き残れるもあはれにて祈りのやうに秋薔薇剪りぬ
      安田百合絵「風景のエスキース」『本郷短歌』vol. 3
 前回、学生短歌会のことを話題にしたので、今回はその流れで学生短歌会の会誌を取り上げてみたい。『外大短歌』vol. 5の巻頭の三井修の文章によれば、『外大短歌』を出している東京外国語大学短歌会以外にも、北海道大学短歌会、釧路公立大学短歌会、東北大学短歌会、慶應義塾大学短歌会、東京大学本郷短歌会、東京工業大学短歌会、山梨学生短歌会、大阪大学短歌会、岡山大学短歌会、九州大学短歌会などが近年陸続と誕生し、立命館大学短歌会のようにしばらく休止していたのが活動を再開した団体もある。ちょっとしたブームの観を呈しているのである。その理由はいろいろと考えられるが、ブログ・SNS・ツイッター・LINEなどのITツールによって人と人とが繋がりやすくなったこと、またそもそも短歌のような短詩型はツイッターのようなツールに向いていることが挙げられるだろう。メールやツイッターが文字を綴ることへの抵抗を減らしたことも否めない。また穂村弘や東直子が短歌参入の敷居を低くしたこともまちがいない。学生短歌会に参加している人の多くが、短歌を始めたきっかけとして穂村の名を挙げており、穂村の『短歌ください』(メディアファクトリー)のような試みが多くの潜在的歌人を掘り起こしたことは大きい。
 学生短歌会の最大の弱点は卒業である。中心的役割を果たしていた人が卒業してしまうと、がくっと活動が弱体化し、やがて立ち消えになる団体も少なくない。名門の早稲田短歌会のように、継続して活発に活動している団体は稀である。せっかくこうして発足した学生短歌会なのだから、できるだけ長く活動を続けてほしいと願う。
 さて、いくつか短歌会の会誌を取り上げる。最初は東京外国語大学の『外大短歌』5号である。東京外国語大学短歌会は卒業生の三井修を顧問格とし、石川美南の働きかけで誕生している。さすがに外大だけあって、メンバーは、ドイツ語科、ヒンディー語科、ペルシャ語科、日本語科など多彩だ。
かつて父を殺さんとした包丁も厨にあれば水菜をきざむ
                      山城周
棺桶のようだと訪問入浴のバスタブ嫌う背骨の脆さ
かりかりに油まわして鶏を焼く よりよく生きる誓いのように
                       黒井いづみ
昨日からいろいろあったこととかの全部うそだと言いたくて晴れ
 山城の歌はいささか剣呑だが、初句六音もはまっていて姿のよい歌になっている。ちまちまと細い水菜という選択も効いている。二首目は祖父の歌のようで、確かに機械入浴のバスタブは棺桶を思わせる。素材に個性が見られる。一方、黒井は軽々とした口語短歌で、言葉が弾んでいるようだ。しかし黒井も現代の多くの口語短歌と同様に、結句の最後が「歩む」「嬉しい」「よこす」「紅茶飲む」のように、用言の終止形ばかりで、出来事感が薄く単調になるきらいがあるので、工夫が必要だろう。
 次は岡山大学短歌会の『岡大短歌』3号である。編集後記を見ると、メンバーはわずか4人のようだ。がんばってもらいたい。
季語のない教室に来る日々がある 画びょうに積もるチョークの埃
                        山田成海
ハンバーガーの「バー」のあたりをこぼしつつあなたが語る唯物史観
捨てられてしまったような一室の絵画の中のパリは夕暮れ
                        川上まなみ
過去になる人が君にも私にもいてしんしんと降りつもる雪
 山田はなかなか達者な詠み手である。一首目はたぶん高校時代の回想だが、短歌では細かいものが大切なことをよく知っている。二首目の「バー」のあたりもおもしろい。こちらから見たハンバーガーの真ん中あたりということだろう。川上の一首目はそれこそ絵画のような歌で、絵の中が夕暮れなのか、それとも絵が置かれた部屋が夕暮れなのか、一瞬迷うところがよい。二首目の「いてしんしんと」は句跨がりになっているが瑕疵ではない。
 立命館短歌会にはかつて清原日出夫、坂田博義、安森敏隆といった歌人が在籍していたことがあるが、しばらく活動を休止していて、このたび第5次立命短歌会として活動を再開した。創刊号と第3号に宮崎哲生が書いている「立命短歌史」に会の消長が詳しく書かれており、なかなかの労作である。第3号には先輩諸氏も寄稿していて、144ページの大部である。
つむじ風 小春日和と名をつけたスカートゆるくはらみてゆけり
                         稲本友香
私たちとても自由で夜の街へたとえばドーナツを買いに行く
塔のある街に暮らせばさえざえと座標となりぬきみもわたしも
空咳のたびにうしなつた扁桃腺を思ひ出すゆふまぐれ
                         村松昌吉
座らせてあなたに缶を手渡せばあらゆる花としてさくらばな
新設の書架のひかりを浴びながらレーニン全集 とほい呼吸よ
                         濱松哲朗
明け渡す春のロッカー僕たちの叶はなかつた苗床として
 稲本は非常にうまい。言葉の柔らかく無理のない連接で、等身大の若者の感覚を詠っている。ただし、一首目の「はらむ」は「帆が風をはらむ」のように使う動詞なので、本来は「スカートが風をはらむ」でなくてはいけないのが逆になっているのが惜しい。村松の一首目は、意味で区切ると五・八・七・五・五となり、リズムが悪いがなかなかよい歌である。「ゆふまぐれ」は村木道彦以来青春のシンボルとなった感がある。村松には他に「うすきひかりをまとふジレット」とか、「水面に指ひたすごと文字を打つ君」など魅力的なフレーズがあるので、もう少し歌の姿にこだわるとよいだろう。濱松もまた青春歌だが、「叶はなかつた苗床」は意味はわかるがつながりがやや飛びすぎではないか。
 次は『本郷短歌』4号である。
明晰の涯にきらめく絶望を充たして『バンセ』の頁あかるし
                         安田百合絵
この雨はシレーヌの嘆息(いき) しめやかな細き雨滴に身は纏はるる
浜風にもろきともし火 まばたけば闇夜の海と空溺れあふ
                        小原奈実
冬鴉空のなかばを曲がりゆきひとときありてとほく来るこゑ
雪折れの多き植物園ゆけりやがて古びむ傷を数へて
                       川野芽生
折りたたみ傘のしづかな羽化の()に雷のはるかなるどよめき
海ぎはの街をちひさき廃船と思へばわれら夜ごと出できぬ
 『本郷短歌』は歌のレベルの高さで飛び抜けており、なかでも安田はほんとうにうまい。安田は「心の花」にも所属していて、59回の角川短歌賞において「静かの海」で予選通過している。その魅力はなんといっても言葉の柔らかさと清新な感受性だろう。小原もたいへん実力のある歌人なのだが、最近は文語度を深めて技巧的な歌を作るようになり、少し技巧が行き過ぎかなと感じることがある。平成22年の角川短歌賞に次席入選した折の「水溜まりに空の色あり地のいろありはざまに暗き水の色あり」とか「いずこかの金木犀のひろがりの果てとしてわれあり 風そよぐ」のような歌が私は好きなのだが。川野も59回の角川短歌賞において 「紙の透度」で予選通過を果たしている。川野もまた文語で姿のよい歌を詠むが、句をまたぐごとに屈折するような陰影が魅力である。本郷短歌会には2014年に現代短歌評論賞を受賞した寺井龍哉もおり、評論にも力を入れているのが頼もしい。
 さて、最後は京大短歌21号である。早稲田短歌の44号には及ばないが、継続的に会誌を刊行している。
死に花の花の名前を教えてよ せめて遠くに投げるバレッタ
                        坂井ユリ
ゆっくりとあなたが櫂を動かすとすでにあなたは夕映えの(よく)
駅前でハンサムなおとこのひとがビンタされててそのうつくしい弧
                          橋爪志保
その腕をかかげて夕陽を遮ればあなたはあなたの静かな水際
                        牛尾今日子
曲がらなかった道だったけど植え込みに椿のはなびらは朽ちてゆく
 京大短歌の歌は京大生と同じく自由でばらばらであり、定まった歌風というものはない。みなそれぞれに歌を詠んでいるものと思われる。坂井の歌の死に花という花はもちろん存在しない。下句が良くて採った歌である。バレッタはあまり見かけなくなったが。一首目の「せめて」と二首目の「すでに」という副詞の置き方がよい。このような副詞は出来事にかかるので、時間的あるいは認識的な奥行きが短歌に生まれる。橋爪の歌は上句が破調になっていて惜しい。「そのうつくしい弧」で採った歌。牛尾の「その腕を」という入り方はよい。ソの指示対象が宙づりになるので、歌に緊張感が生まれる。21号に寄稿している京大短歌会の先輩諸氏の名を見ると、大森静佳、藪内亮輔、吉岡太朗、吉田竜宇、黒瀬珂瀾、島田幸典、林和清とそうそうたる顔ぶれだ。現役学生会員にもがんばってほしいものだ。
 卒業し就職して短歌から離れるとしても、学生時代の数年間短歌と濃密に付き合ったことは得がたい経験となるだろう。誕生して間もない学生短歌会に Bonne continuation ! (どうぞしっかり続けてください)と呼びかけよう。