第187回 千種創一『砂丘律』

このストールを巻くたびに遭うかなしみの砂漠へ放つ、一羽の鷹を
                      千種創一『砂丘律』
 昨年 (2015年)12月に上梓された千種の第一歌集のなかから、いちばんカッコいい歌を引いた。切れの多い文体が特徴の作者にしては珍しく四句まで切れがなく、立ち上がる映像も鮮明である。砂漠でストールが必需品なのは、絶えず風に乗って運ばれる砂が鼻や口に入るのを避けるためだ。私の世代だと砂漠に白いストールというと、ピーター・オトゥール主演の名作「アラビアのロレンス」を思い浮かべてしまう。千種が砂漠に放つ鷹の背後には、寺山の句「目つむりていても吾を統ぶ五月の鷹」が揺曳していよう。青春歌として申し分ない愛唱性を持つ歌である。
 千種は1988年生まれだから今年28歳の歌人である。東京外国語大学で卒業生でもある三井修の「短歌創作論」を受講し、その縁で塔短歌会に入会。「外大短歌会」の創立に参加する。2013年に塔新人賞を受賞、2015年に歌壇賞次席に選ばれている。東京外国語大学でアラビア語を専攻し、現在中東のレバノンで働いているという経歴は、先輩の三井と同じだ。めきめき頭角を現している若手歌人である。
 その千種が上梓した第一歌集は、まずその造本と装幀が話題になった。ペーパーパックのような荒い紙質と縦長の版型、何と呼ぶのか知らないが漫画雑誌のような背の綴じ方、背表紙から表紙にかけて張られたガーゼのような布地、「千種創一歌集 砂丘律」と印刷された黄色のラベル。その一見するとぞんざいな造本は、「この歌集が、光の下であなたに何度も読まれて、日焼けして、表紙も折れて、背表紙も割れて、砂のようにぼろぼろになって、いつの日か無になることを願う」というあとがきの言葉と照応しあう。
 さて、歌集の中身だが、あらゆる言語は形式と意味の結合であることを反映して、千種の歌も形式面と意味面においてきわだつ特徴を持っている。基本はゆるやかな定型意識に基づく口語短歌であるが、定型から逸脱することもしばしばである。
瓦斯燈を流砂のほとりに植えていき、そうだね、そこを街と呼ぼうか
マグカップ落ちてゆくのを見てる人、それは僕で、すでにさびしい顔をしている
砂の柱にいつかなりたい 心臓でわかる、やや加速したのが
窓のすきまから春風が、灯油くさい美術室舞う、羽根っすかこれ
なつふくの正しさ、あとは踊り場の手すりに挿していったガアベラ
 編年体ではないという歌集の冒頭付近から引いた。一首目は巻頭歌で、三句目まではふつうに進行するが、四句目で突然転調して会話体になり人の声が響く。この響く声が千種の歌に特徴的である。三句の終わりに大きな切れがあり、一首はふたつに分断されている。二首目もよく似た構造をしており、最初は叙景かと思えば、やはり三句目の終わりに転調が待っている。三首目は定型の韻律からかなり外れていて、三つに分断された句が島のように浮かんでいる印象を与える。四首目も読点がなければひとつの流れとして読むことも可能なのだが、わざわざ読点を付して切れを作っている。また結句の「羽根っすかこれ」で突然声が響くのは一首目と共通である。五首目で二句目の句割れを引き取る「あとは」の使い方は、現代短歌でもあまり見られない用法だろう。
 読む側の印象としては、スナップショットを並べて構成しているようにも見える。その結果、一首全体が流れるように一つの情景を描いたり、一つの意味を浮かび上がらせることがなく、心象もまた分断される。おそらくこのような作り方は意図的なもので、近代短歌のコードとは異なる歌法を模索しているのではないかと思われる。
 意味の面における特徴は、千種が暮らす中東という日本とは対極的な風土の景物だろう。
難民の流れ込むたびアンマンの夜の燈は、ほらふえていくんだ
新市街にアザーンが響き止まなくてすでに記憶のような夕焼け
林檎売る屋台のそばの水たまり静かだ、林檎ひとつを浮かべ
たましいの舟が身体と云うのなら夕陽のあふれている礫砂漠
骨だった。駱駝の、だろうか。頂で楽器のように乾いていたな
 湿潤な日本の風土とはまったく異なる乾燥と砂漠の中東である。一般に旅行者の羇旅詠は、目にした景物の物珍しさに引きずられて景物のみが前景化するきらいがあるが、千種の短歌がその弊を免れているのは、旅行者ではなく生活者だからである。一首目の増えてゆく灯火、二首目の祈りを促すアザーンの響き、三首目のリンゴ屋の屋台、四首目の礫砂漠、五首目のラクダの骨、これらに注ぐ眼差しは、中東に暮らし中東の風土を内在化した人でなければ詠えないものだろう。
 中東は戦火の絶えない地域であり、中東に暮らす人は戦火ともまた無縁ではいられない。
北へ国境を越えればシリアだが実感はなくジャム塗りたくる
召集の通知を裂いて逃げてきたハマドに夏の火を貸してやる
映像が悪いおかげで虐殺の現場のそれが緋鯉に見える
君の村、壊滅らしいとiPhoneを渡して水煙草に炭を足す
ちまみれの捕虜の写真の載る面を裏がえすとき嗅ぐオー・デ・コロン
 とはいえ自分は戦争の直接的な関係者ではない。だから煙草の火を貸すとか、水煙草に炭を足すとか、オー・デ・コロンの香りを嗅ぐといった、ごく日常的な仕草でしか関わることができない。このような歌を取り上げた吉川宏志は、「異国の他者の死を、自分の文学の中で扱っていいのか、という問いが、つねに心の中にあるのではないか」と分析しているが(ブログ「シュガークイン日録3」)、確かにそのような「畏れ」は感じることができる。
 「短歌研究」5月号の作品季評で、穂村弘・水原紫苑」吉岡太朗が『砂丘律』を俎上に乗せて論じているのがおもしろい。水原は「みずべから遠くでマッチを擦っているおととい君を殴ったからには」とか「美しく歳をとろうよ。たまになら水こぼしても怒らないから」といった歌を取り上げて、「すごくむかついた」と発言している。要するにマッチョで上から目線の女性差別ではないかという趣旨なのだが、そこを突くかという気がしないでもない。穂村は「今までに見たことのない何かがあるという印象は僕も持ったんだけど、それが何なのかはっきりわからなかった」と述べて、千種の短歌の新しさは認めつつその魅力のありかは言い淀んでいる。おそらくその新しさは、上に書いたように千種の短歌の形式面と意味面の特徴が相乗して生まれたものだろう。
 最後に印象に残った歌を挙げておこう。
焦点を赤い塔からゆるめればやがて塔から滲みでた赤
図書館も沈んだのかい沿岸に漂う何千という図鑑
海風を吸って喉から滅ぶため少年像は口、あけている
どら焼きに指を沈めた、その窪み、世界の新たな空間として
エルサレムのどの食堂にもCoca-Cola並んで赤い闇、冷えてます
油絵の前大統領閣下(ちち)の笑顔にかこまれて君の羽根ペンの落下は静か
駅前に受け取る袋いっぱいの梨の重さへ秋はかたむく
世界を解くときの手つきで朝一、あなたはマフィンの紙を剥ぐ
燃えはせず朽ちてゆく木の電柱のその傾きに降る冬の雨