第189回 中津昌子『むかれなかった林檎のために』

ああすべてなかったことのようであり凌霄花は塀をあふれる
 最近「プレバト」が面白い。関西では毎週木曜の午後7時から、毎日放送で放映されているTV番組である。ゲストの芸能人に書道、生け花、料理の盛りつけなどの課題を課して、その出来映えを格付けするという趣向である。なかでも俳句コーナーに人気がある。俳人の夏井いつきが先生役で、出てきた俳句を容赦なく「才能アリ」「凡人」「才能ナシ」と断定する。「才能アリ」と判定された人は手放しで喜び、「才能ナシ」とされた人はがっくりと落胆する。夏井の歯に衣きせぬ毒舌が人気の秘密だが、それ以上に、出詠された句に少し手を加えるだけで見違えるようによくなる様がおもしろい。夏井は「季語を生かすように言葉を選ばなくてはならない」と繰り返し述べているが、このことは季語のない短歌にも言えることだろう。ちなみに夏井には『絶滅寸前季語辞典』という楽しい著書がある。近頃あまり使われなくなった季語を拾い出して例句を挙げて解説し、適当な例句がなければ自作している。なかでも私が特に気に入った季語は「雁風呂」である。
 閑話休題。『むかれなかった林檎のために』は2015年6月に刊行された中津の第五歌集。これまでに『風を残せり』『遊園』『夏は終はつた』『芝の雨』の4冊の歌集がある。この短歌コラムでは以前に『風を残せり』『遊園』『夏は終はつた』の3冊をまとめて批評したことがある。短歌とは面白いもので、一度も会ったことがない人でも、短歌を読めばその人の近況や境遇の変化が手に取るようにわかることがある。中津の場合それは、アメリカに暮らしたこと、病を得たこと、仮名遣いを旧仮名から新仮名に戻したことである。それらすべてが中津の歌に影響を与え、韻律や内容に変化をもたらし深い陰影を与えている。
ふわりふわりと芝生の上を流れいしアメリカの蛍 狩らざりし蛍
終焉はかく秋草を揺らしつつパックス・アメリカーナ光の尾をひく
そして秋、加速度つけて若者は離れゆくなりバラク・オバマを
ひらりひらり黄葉の空より落ちてくるマイケル・ジャクソンの白い手袋
もう会わぬ町といえどもアメリカのあかあかと燃えいし秋の広さよ
 一首目はアメリカで見た蛍を詠んだものだが、アメリカには蛍狩の習慣はないので蛍もただ飛んでいるのみ。日本やアジアには昆虫を愛でる文化がある。中津はオバマが大統領に就任した頃に在米していたようで、三首目はその頃と較べるとオバマに期待した若者のオバマ離れが哀れという歌である。五首目の落ちてくる手袋はたぶん白木蓮の花弁が散る様の喩だと思う。
 病を得た時の一連は「むかれなかった林檎のために」と題され、それが歌集題名となっていることからも、中津にとって大きな出来事だったことが察せられる。
月はもう沈んだ頃か 吸いのみにすこしの水を飲ませてもらう
五年間服むことになる錠剤のはじめの一つを指に押し出す
青い手術着のままの外科医があわわれる とおいところに合歓の莢が鳴る
あおぞらよりしみでるようにくるひかり むかれなかった林檎のために
 この一連を読めば歌集題名の意味がよくわかる。林檎は誰かが病室に見舞いに訪れた時に持参し、剥かれ食されることなく終わったもので、この欠落の感覚は中津の歌に馴染みのあるものである。
 別の一連からも引いておく。
照射部位に引かれしペンのむらさきと同じ色もて暮れてくる空
肉体はこんな風に他人なのかむらさき色の線がひかれて
病院の裏手の出ればきらきらと川は流れる夏草の間(あい)
ボール二つ掌にもちサーブするときの空がいちばん青かったのか
症例の一つのわれが歩みゆく真白に燃える雪柳の径
 病気、入院、手術は人生における大事件である。その及ぼす影響のひとつは、それまでより自分が肉体にとらわれた存在であることを意識することであり、今ひとつは自らの生の終期を思うことである。それを念頭に置いて改めて掲出歌「ああすべてなかったことのようであり凌霄花は塀をあふれる」を読めば、その背後にある想いの深さに言葉を失う。ちなみに凌霄花(のうぜんかずら)の開花期はちょうど今頃で夏の季語である。
 一首目と二首目は自らの身体を意識した歌で、四首目は発病以前の過去を振り返る歌。中津の冷静な眼差しは五首目に表れていて、何人もの患者を診る医師にとって自分は症例の一つに過ぎないことを喝破している。
 著者は弓道をたしなむ人のようで、時折挟み込まれる弓道の歌も注目に値する。
向かうべき的定かにてまひるまの弓は扇のごとくに開く
力みたる腕の力をしずめつつ月なき夜の矢を放ちたり
なにものかがふっと降りてくるまでをいっしんに引くゆうぐれの弓
馬弓はゆめゆめできぬものなれど馬上の風にあこがれやまぬ
 弓に限らず、柔道・剣道・ラグビーや陸上競技など、身体を用いる活動には実際に経験した人にしかわからない感覚があるのだろう。二首目にあるように、弓を引く時は力を込めればよいかというとそうでもないようで、力を抜く加減が大事なのだろう。
鯉の口に吸われてゆきしはなびらよ体内あかく夕あかりせん
目の底を写されている午後ふかくさくらは水に落ちつづけおり
釣り糸はしずかな力に張りながら水の内なるもの反りあがる
赤い靴が傘をはみ出し前へ出る濡れながら出るわたしの靴が
死が大きく目を見ひらいてみる夢のあかるさのなかをながれゆく川
香りの重さを運ぶごとしよ土佐文旦二つが袋のなかに沈めば
廊下隔て昼をあかるき浴室の銀に縊れているシャワーノブ
 中津の個性と歌の上手さをよく表している歌を引いた。一首目、水に落ちた花びらが鯉に吸われ、その花びらの発光で鯉の体内が夕あかりするだろうという幻想を詠んだ美しい歌である。「鯉が吸った」と能動態ではなく受動態にしたところがポイント。二首目、眼科医で眼底検査を受けている情景で、下句「さくらは水に落ちつづけおり」は医院の外の実景ととっても幻想ととってもよかろう。「午後ふかく」が効いている。三首目、「しずかな力に張りながら」と静と動の併存を的確な描写で捉え、釣り上がる魚を「水の内なるもの」と表すところが上手い。四首目は意外性の歌で、最初は誰かの靴かと思えば実は自分の靴だったという落とし方が巧妙。五首目は不思議な歌で、死が目を見開くというのも、死が見る夢の中に川が流れているというのも幻想的だ。六首目は香りを重さに転化するところが上手く、また結句の「沈めば」が効いている。七首目はとりわけ美しくて好きな歌である。浴室の壁に掛かっているただのシャワーノブをこれほどまでに詠えるとは。ポイントは「縊れている」で、中津はこのように一首の鍵となる表現を選び出すのが実に上手い。「昼をあかるき」の助詞の「を」も中津がよく用いる語法である。
 中津は私と同じく京都市左京区に住んでいるので、親しい地名が詠まれているのを楽しんだ。
雨粒がひとつ当たりぬ青空がまだ残りいる鴨川左岸
対岸は遠いところか 午後ホテルフジタの窓に雲がながれて
背後よりぐっと空気をたわませて燕抜けたり荒神橋へ
 著者はとりわけ川のほとりの散策を好むようで、「対岸」という語がよく登場するのはそのためと思われるが、より大きな視点で見れば「対岸」には「彼岸」の含みも感じられる。ホテルフジタは取り壊されてザ・リッツ・カールトン京都になり、もう今はない。