第194回 岡野泰輔『なめらかな世界の肉』

冴ゆる夜のボタン製造機しづかに毀れ
岡野泰輔『なめらかな世界の肉』
 岡野は1945年生まれの俳人で、「船団の会」所属。『なめらかな世界の肉』は第一句集である。現代俳句アンソロジー『俳コレ』(邑書林 2011年)にも参加しており、『俳コレ』を取り上げた折に短く触れた。1頁に4句配されて本体が143頁あるので、相当な句数の句集である。帯文に「船団の会」主宰のネンテンさんこと坪内稔典が寄せた文章に、「分かろうとしない、前から順に読まない、退屈なとき、とても贅沢な気分のとき、なぜだか泣きたいとき、ぱらっと何ページ目かを開く。すると、そこにある言葉が話しかけてくるだろう。以上がこの句集のほぼ唯一、そして屈強の読み方だ」とある。要するに一筋縄ではいかない句集だということだろう。私はネンテンさんのお勧めに従わず最初から順に読んだが、最後まで大いに楽しんだ。歌集を読むのはときにしんどいことがあるが、句集を読むのは常に楽しい。作者と世界の触れ合い方がちがうからだろう。
 『俳コレ』の巻末座談会で、岸本尚毅が「大リーグボール3号俳句ですね。わかる人にはわかるという句です」と評している。大リーグボールとは、野球マンガ『巨人の星』の主人公星飛馬が投げる魔球で、1号はバットに当てる球、2号は消える魔球、3号は超スローボールで、打者の手元で球速がほぼゼロになりバットの風圧で浮き沈みする球。大リーグボール3号俳句とは、ふわふわと浮き沈みして捕えどころがない句という意味だろう。どれくらい捕えどころがないかというと次のような具合なのだ。
縞馬を裏返しては青き踏む
崖が見え空が見え花烏賊のゆく
流れ藻にをかしなものが涅槃西風
小鳥来るあゝその窓に意味はない
キンキーブーツ公園に父いまそがり
 こういう句は手強い。作風はあくまで有季定型であるが、意味を取ろうとすると途端にとまどってしまう。『俳コレ』巻末座談会で関悦史が「世界のレイヤー(階層構造)の別々の層を行き来しながら、そこにあるものを拾って作っているという感じがする」と述べている。いずれにせよあらかじめ意味は脱臼されているので、こういう句を味わうには読むときに脳に明滅するイメージに抵抗せず素直に身を委ねるのがよろしかろう。このような句を作ることに作者として何か意味があるかと言うと(「意味」を云々している時点ですでに作者の意図を外しているのだが)、私たちの日常の慣習化された世界の見方をずらし崩すことによって、私たちと世界の間に新しい関係を架橋すること、と言えるだろうか。そうした彼方に現出するものが「世界の肉」なのである。
 もう少しわかりやすい句ももちろんある。
逃水の真中に代筆屋の恋
鉄人の28号までは毀れ
霧が出てゐるすべての鉄は喰はれつつ
おしまひは櫂を失ふ蓮見舟
ガーベラに影といふもの元々無し
その夏のダリアの前に父がゐる
夕立の匂ひに還る戦闘機
 一句目の逃水は夏の季語。「代筆屋の恋」とはまるで昔の映画の題名のようだ。郷愁を感じさせる句。二句目、確かに鉄人28号の前には1号から27号までが存在したはず。毀れてしまい話題にも上らないのが哀れ。三句目、霧の水分で鉄が錆びてゆく様を詠んだ句。錆びる様を「喰はれる」と表現したところがミソ。四句目、蓮見舟とは夏に咲いた蓮の花を間近から鑑賞するために小舟に乗って遊覧するという優雅な行事である。船頭が櫂を失って終わるところに趣がある。五句目、ガーベラのまるで造花のような様を影がないと言い当てた句。六句目、夏のダリアにも郷愁がある。ダリアやグラジオラスや鶏頭は懐かしい昭和の花だ。「その夏」にいったい何があったのだろうと思わせる句。七句目は叙情性が際立つ。確かに夕立には特に降り始めに乾いた土と水の匂いが混じったような独特の匂いがある。基地へと帰還する戦闘機との取り合わせがイメージ鮮烈。
 なかでも私が特に好んだのは次のような句である。
野遊やそろそろ昏い布かけて
手の上を文鳥がゆく夕永し
ふらここが還らぬ空のふかさかな
滑らかな肩もつミシン鳥の戀
目はいちど糸遊の横とほりすぎ
浴衣着て生者の列にふと並ぶ
夕暮に独楽は止まつてゐるところ
花いばらレ点で雨の崖に出て
 一句目は「そろそろ」が怖い。昏い布をかけるというのが夕暮れの喩とも、死者の顔にかける布とも取れる。二句目は手乗り文鳥の句でこれも昭和の郷愁。三句目、はずみをつけて上がったブランコが戻ってこないほど空が深いという句。四句目、昔はどこの家庭にもあったミシンは、シンガーミシンかブラザーミシンだった。艶やかな黒い機械は確かにそれとわかる丸みを帯びていた。五句目の糸遊いとゆうとは、蜘蛛の子が糸に乗って空中を浮遊することで、春の季語。「目はいちど」だから、一度通り過ぎても気がつかないほどかすかな糸で、はっと二度見て気づいたということだろう。この「気づき」が世界の覚醒となる。六句目は何の行列か、並ぶ人をことさら生者と表現することによって、生の短さと死を炙り出す。七句目は夕暮れに回転を止めた独楽の句で、ただそれだけなのに映像鮮烈で味わい深い。「止まってゐる」と言うことで、もはや眼前にない回転を幻視させる。八句目はもっと極端で、意味もよくわからないながら忘れがたい句である。
 「日比谷は暗き谷電気蜘蛛の夢をみるか」「万緑に半減期あり子に乳歯」「とりあへず水漬くウランに年の夜」など、東京電力福島第一原発の苛酷事故に想を得た句も印象に残る。「万緑」はもちろん中村草田男の「万緑の中に吾子の歯生え初むる」の本歌取りで、「電気蜘蛛の夢をみるか」はフィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』のもじりである。集中にはこのように過去の作品や映画・小説などに想を得て、機知のひねりを効かせた句もあり楽しい。萩尾望都の名作『ポーの一族』を下敷きにした「冬の星遠ざかりつつ眼のエドガー」や、往年の英語リーダー「Jack and Betty」による「十年後も夏マリファナ臭きベティかな」という句もある。
 さて、最後になったが『なめらかな世界の肉』という句集としては珍しい題名について一言。巻頭に現象学の泰斗M.メルロ=ポンティの『見えるものと見えないもの』から「わたしの身体は世界と同じ肉でできている」という文章がエピグラフとして引用されている。またあとがきには、「この世界を自他の区別があらかじめ失われた、方向も、厚みも、重さもないものとして想像してみる、まるで生まれたての自分が包まれたように。その世界を、しかも世界の内部から言葉だけで触ってみるささやかな営為のひとつを俳句と呼ぶのならその関係の全体を『なめらかな世界の肉』と呼んでも差し支えないだろう」と書かれている。メルロ=ポンティが「眼差し」を梃子にして世界内存在としての私たちの有り様を描き出そうとしたように、岡野は私たちが暮らす世界を想像上でいったん解体し、その上で世界が再び立ち上がる瞬間を内側から捉えようとしているのだろう。短歌の基本は抒情詩であるため、ここまで激しく世界を解体し再構築することができない。短歌は世界肯定的なのである。そのような短歌と俳句の生理のちがいも感じさせてくれる句集と言えよう。