第196回 中山俊一『水銀飛行』

火の粉ふり払う消防夫の如く螢の夜から出でし少年
中山俊一『水銀飛行』
 唐突だが『偶然短歌』(飛鳥新社)がおもしろい。プログラマーのいなにわと作家のせきしろの共著で、ウィキペディアの文章のなかから偶然に五・七・五・七・七になっている箇所を抜き出したものである。たとえば次のような偶然短歌がある。
念仏で救済される喜びに衣服もはだけ激しく踊り
少量か逆に非常に大量のコンクリートを必要とする
こういった夜間海面近くまで浮上してくる生物もまた
「立ち乗り」を行っている最中に車のドアが閉まってしまい
旅立ちの季節が終わりもう雁が来なくなっても海岸にまだ
 これらは書いている人も意識しないままたまたま五・七・五・七・七の韻律に乗ってしまったものだが、こうして取り出してみると誰かが作った短歌に見えてくるのがおもしろい。一首目は一遍上人が広めた念仏踊りの記述だが、踊りの情景がまざまざと見える。また五首目は俳句の季語の「雁風呂」の説明で、寂寥感が漂うではないか。私が好きなのは大塩平八郎の記述から取った次の歌だ。
暗殺を志してか、淀川に船を浮かべて日が暮れるまで
 巻末にはRubyというプログラミング言語で書かれた偶然短歌検出プログラムのスクリプトが掲載されている。漢字の音訓の音数の判別などをどうしているのかわからないが、興味のある方はお試しあれ。
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 さて今回取り上げるのは書肆侃侃房の新鋭短歌シリーズの一冊、中山俊一の『水銀飛行』である。監修と解説は東直子。聞くところによると、このシリーズは著者の歌人が監修者を指名するシステムになっているようだ。中山は今年 (2016年)大学を卒業したばかりの青年で、映画監督・脚本家として注目されている人らしい。『水銀飛行』は作者が大学に在学中に作った短歌を集めたものである。若い人それも異分野の人が短歌の世界に入って来るのは喜ばしいことだ。
 読み始めると歌集の最初の方に次の歌があった。
うけいれるかたちはすべてなだらかに夏美のバイオリンの顎あて
 短歌に親しんでいる人ならすぐピンと来るが、下敷きになっているのは寺山修司の初期短歌「夏美の歌」である。
空のない窓が夏美のなかにあり小鳥のごとくわれを飛ばしむ
パン焦げるまでのみじかきわが夢は夏美と夜のヨットを馳らす
中山は寺山修司に傾倒して映画制作と短歌の両方を表現手段として選んだようだ。改めて寺山が若者を惹き付ける魅力の大きさを思う。中山は映画の人なので、短歌においてもイメージの多彩さと視覚性が際立つようだ。たとえば掲出歌に選んだ「火の粉ふり払う消防夫の如く螢の夜から出でし少年」にそれは見て取れ、蛍の乱舞する夜の闇から少年が現れるという情景は、まるで映画のワンシーンのように鮮明な映像となっている。次の歌も映像鮮明である。
犯人がインタビュアーに応えてた後ろで珊瑚樹の実が熟れて
(夢は無風)風鈴売りがやってきて扇子で仰ぐ夏の亡骸
みずうみに櫂を沈める天葬を想えば空の重みを受けて
一首目はTV画面だろう。何かの犯罪の犯人がインタビューを受けているその背後に真っ赤な珊瑚樹の実が映っている。実に映画的なカットだ。二首目は天秤棒でかつぐ台一杯に風鈴を吊した風鈴売りで、これも映像的だ。ただし「仰ぐ」は「扇ぐ」の誤記。三首目は山間の静かな湖に櫂を沈めるという儀式的な光景で、これもなかなか美しい。「天葬」は「水葬」「鳥葬」にならった造語か。
 また中山の歌ではイメージの噴出も特徴的である。解説を書いた東は、「明るい昼間のなかで、ふっと非現実の世界がまじってしまう、つかの間の白昼夢を見ているような感触である」と述べている。たとえば次のような歌がそうだろう。
ひとたまりもない夏の笑みこの先が西瓜の汁のように不安さ
瞳孔に差し込むひかり融けてゆく氷彫刻の涙にアウラ
紅いペディキュアが乾けば中華街むかうよあなた体育座りの
火から目を離すな俺の目を見るな焚火を囲むゲイのカップル
転勤族のあの娘になみだ剣玉の剣の部分で突き刺した月
 部分部分を取り出すと「西瓜の汁」「融けてゆく氷彫刻」「紅いペディキュア」「焚火を囲むゲイのカップル」のようにイメージとしては受け取れるが、全体としては起承転結がなく、脈絡なしにカット割りされた映像を見ているような不安定さがある。このあたりは夢にこだわった晩年のフェリーニの映画のようで、夢幻的なイメージが次々と現れる作り方になっているのかと思う。そういう意図はわかるが、出来上がった短歌を受け取る受け手の立場から言うと、意味的な脈絡を欠き一首としてのまとまりが薄くて、歌の世界に入り込めない。また「網戸越しの蝉の裏側みるきみの裸身のごとき翅のカーテン」のように、「網戸」から「蝉の裏側」へ、次に「君」から「カーテン」へと、次々とカットが切り替わり、全体としてひとつの映像へと収斂しない。これではあまりにせわしない。逆の例を挙げると、「積みてある貨車の中より馬の首しづかに垂れぬ夕べの道は」(玉城徹)では、読み終えた後に、貨車の窓から馬の首が垂れる静かな夕刻の映像がくっきりと読者の脳裏に浮かぶ。その結果あとに馥郁たる余情が残るのである。短い短歌のなかにあまりたくさんのものを詰め込むのは好ましくない。かえって薄いスープのようになってしまう。
 一方、成功しているなと思えるのは次のような歌である。
七の段くちずさむとき七七の匂いに満ちる雨の土曜日
あゝぼくのむねにひろがるアコーディオン抱けば抱くほど風の溜息
愛が死語の村で育った青年の汗を舐めれば汗の味して
こんなものすててしまえばいいのにね静かに蜆の砂抜きをして
醒めたとき雪の匂いの夜行バスひとつ灯っている読書灯
傘立ての金属バットに血飛沫の予感漂う九月に降る雨
人妻の三角巾から垂れ下がる手首を掴む 炎天の駅
龍角散の匂い溢れる午後だった水銀色の電車に眠る
低いレを愛する少女の精一杯のばす左手ゆれる吊橋
首都高に今、花吹雪ゆっくりと花屋のトラック横転してゆく
 一首目の清新な抒情、二首目の青春歌の完成度はとても高い。三首目の青年の汗、四首目の蜆も印象的でポエジーとして成立している。五首目はどことなく穂村弘の歌を思わせる。また六首目の切迫する危機感、七首目の危険な香りもよい。「人妻の三角巾」は秀逸だ。許されない恋の逃避行の歌だろう。ただし、三角巾は腕を骨折したときなどにするもので、三角巾を当てると手首は上を向く気もするのだが。九首目も危険な香りの歌で、「ゆれる吊橋」が効果的に一首を締めくくっている。十首目も映像鮮明な歌だが、「今」の次の読点は不要で、「花吹雪」という常套句は避けるべきだろう。しかし首都高で花屋のトラックが横転するというのはいかにも映画的なカットだ。
 最後に私がいちばん好きな歌を挙げておこう。
孵卵器の温度をさげるきみのては一神教の翳りに満ちて
 歌の「きみ」は孵卵器のなかの卵に対して生殺与奪の権を持つ神として振る舞っている。温度を上げ下げすることで、卵を生かすことも殺すこともできるからである。この全能の立場を「一神教の翳り」と捉えた所に、作者の鋭い感性と反省的思索が見える。