第207回 松岡秀明『病室のマトリョーシカ』

眉の無い男の背の磔刑図を背景として羽斑蚊ハマダラカ飛ぶ
松岡秀明『病室のマトリョーシカ』
 眉がなく背中にキリスト磔刑図の刺青をしている男は、まちがいなくその筋の人である。作者は医師をしているので、診察に来る患者の中にはその筋の人も当然いるのだ。病は人を選ばない。病を得たら人皆患者である。ここまででもギョッとするのだが、何と磔刑図を背景としてハマダラ蚊が飛んでいるというのだ。単に蚊ではなく、ハマダラ蚊と生物学的に正しい名で呼ぶ所がさすがに医師なのだが、日常を超えたディテールの正確さがかえって歌に非日常性を与えている。おもしろい歌である。
 作った松岡は「心の花」所属の歌人。『病室のマトリョーシカ』は第一歌集である。50歳の時に突然短歌を作り始めたというのが2007年のことだから、今年還暦を迎える年齢だろう。精神科医であると同時に文化人類学者でもあるという。本歌集にも収録されている「解剖棟」で心の花賞の俵万智賞を、その数年後「病室のマトリョーシカ」で心の花賞本賞を受賞している。本歌集の前書きは俵万智、あとがきと編集は藤島秀憲が担当している。
 昔から医師にして文学者という人は数多い。しかし本歌集を一読して驚くのは、作者松岡の活動の幅広さと奥深さである。松岡は精神科医として終末期ホスピスに勤務しているらしく、医療の現場を題材とした歌が多くある。作者にとっては職業詠である。
ホスピスへの入院希望を書く紙に誰の意志かをただす欄あり
患者らの漕ぐ車椅子ゆつくりと森の方へと光をはこぶ
罫線も活字も美しき赤なるは麻薬を処方するための紙
Fの音わづかに低い古ピアノ患者弾きをりその思ひ出を
サングラスをかけぬ写真はないといふ女のひとみ深井のやうに
 一首目、「誰の意志かを質す」にドキッとする。当然ながら本人の意志ではなくホスピスに入る人もいるのだろう。「紙」がいささか気になる。二首目、ホスピスは死にゆく人が入る場所なので、海のほとりや森の中のような自然の豊かな美しい場所にあってほしい。松岡の勤務するホスピスも蝉やヒヨドリが鳴く山近い場所にあるようだ。「光をはこぶ」に明るさが感じられる。三首目、終末期の痛みの軽減のためにモルヒネなどの麻薬を用いることがある。目的は何であれ麻薬なので、一般の処方箋と区別するために赤くしてあるのだろう。医療従事者にしか知り得ないディテールが歌のリアリティを生み出している。四首目、患者が弾くためにホスピスにはピアノが置かれている。患者が弾いているのは「思い出のグリーン・グラス」(Green, green grass of home)である。実はこの歌は処刑前夜の死刑囚の歌なのだ。「低い古ピアノ」は「低き古ピアノ」でよいと思うが。五首目、視線恐怖症の患者を読んだ歌である。世の中には実に多くの病があることに驚く。
 若い医学生だった頃の解剖実習を詠んだ「解剖棟」にも、「実習を行なふ棟は空母のごとし 遺体二十五われらを待てり」、「回盲部に探し当てたる神経の光見紛ふ古き白磁と」など印象的な歌がある。
 職業を離れた松岡の関心が向くのはひとつには音楽である。レコードを多数所有しているようで、ジャズに詳しいらしいがクラシックの素養も相当なものだ。「五千ほどあるレコードのほとんどを記憶してゐるどうだ俺」と題された連作があるほどだ。
Harmonia mundi世の調和などてふことは鍋のなか(のみに!)顕はるるものとこそ知れ
幼子が持ち来るレコードを手に取れば〈世のおはりのための四重奏曲〉
無伴奏ヴィオラは降りて最弱音ピアニッシモ つひに二人に浄夜は来たり
 Harmonia mundiはクラシック愛好家には馴染みのフランスのレーベルである。二首目の幼子は作者の娘。「世のおはりのための四重奏曲」はオリヴィエ・メシアンの作品。子が持って来たレコードが「幼子イエスに注ぐ20のまなざし」であればよかったのだろうが。ちなみに私はパリのトリニテ教会でのクリスマスミサでメシアンの弾くパイプオルガンを聴いたことがある。メシアンはこの教会付きのオルガニストだった。三首目の「浄夜」はシェーンベルクの弦楽六重奏曲。
 松岡はまたサッカーのブレーヤーでもあり、審判員の資格も有しているという。下の三首目と四首目はロンドンでアメリカの女子サッカーチームと対戦した折の歌である。
敵のミッドフィルダーの袖引つ張れば鎖骨のしたにキスマークふたつ
落ちてくるボールをめざし走るときわれとわが身は空へ溶けだす
薔薇園のベッカムといふくれなゐのかなたボールの上がり落つる見ゆ
ポニーテールの赤毛なびかせルーシーはギャロップにかへわれを抜き去る
 さらに松岡は自ら料理の腕を振るう人でもある。集中に「平日の晩餐をなすはわれにあり」と題された連作があるほどだ。
俎板に障泥烏賊あふりいか五杯のつたりと砥石の音に聞き入りてをり
豚バラをオーヴンに入れ火をば点け〈紫の煙パープル・ヘイズ〉を口ずさむ、ふと
挽肉を捏ね俎板へ叩きつけ叩きつけして時は流るる
出刃菜つ葉中華肉切りそれぞれの光のなかで秋は更けゆく
牛尾鍋テイルシチュウ情事アフェアーに通ずるものあらば肉を喰らふといふことならむ
 四首目にあるように、出刃包丁、菜切り包丁、中華包丁、肉切り包丁を揃えているらしい。しかも砥石を使って自分で研ぐのだから本格的だ。実は私も我が家の料理人で、菜切り包丁、出刃包丁、柳刃に砥石3種は備えているが、さすがに中華包丁までは持っていない。脱帽である。
 このように松岡の活動の幅広さと奥深さにまず目が惹かれてしまうのだが、ここで立ち止まって松岡の歌の美質を考えてみると、そのひとつは「連作の力」であることはまちがいない。〈一首の屹立〉、つまり「名歌主義」を目指すのではなく、連作を構成することによって歌の力を発揮させるということだ。受賞対象となった「解剖棟」も「病室のマトリョーシカ」も連作によってドラマが生まれている。
 また医療現場に材を得た歌は、確かに素材の目新しさに新奇性があるのだが、二度読み返してみると、何気ない歌におもしろいものがあることにあらためて気づく。たとえば次のような歌である。
膝裏に静脈透かせ娘らが手をつなぎ来て噴水の夏
牛を積む車と洋式霊柩車が権田原交差点を行きすぎにけり
髪形はひとの悩みを現はすと説く占ひ師頭髪はなし
高名な眼科教授の卓上に源氏パイひとつぼつねんとあり
ネクタイを買ふために行く伊勢丹へ そのためにだけネクタイをせり
 一首目は青春性が輝くような歌だが、ポイントは膝裏に透ける静脈である。身体の部分への注目はやはり医師ならではだろう。二首目は牛を運ぶ輸送車と霊柩車の取り合わせに、「権田原交差点」という固有名が効いている。三首目は人を喰ったような歌でこれはこれで味わいがある。四首目も「眼科教授」と「源氏パイ」の組み合わせが愉快。五首目、ネクタイを買いに行く時にしかネクタイを締めないのならば、そもそもネクタイは何のためにあるのかという存在論的疑問が浮かぶ。
 最後にいつものように付箋の付いた歌をいくつか挙げておこう。
エビスビールの空き缶蹴れば冥府へとひとを誘ふ軽き音せり
アイスパック瞼におけば浮かびくる地に崩れゆくチャウシェスク夫妻
わがうちに失語症の女一人ゐて「希望」の類語おほかた食めり
鎌となり向日葵一反刈りぬべしエル・グレコ描く冴ゆる夕べに
われもまた影持つゆゑに患者らの影と影とが遊ぶを見詰む
野に花をそしてわれらに永訣を運びゐし秋の陽冷えゆけり
 『病室のマトリョーシカ』は晩成の第一歌集ながらも、内容充実し近年珍しい男歌の歌集である。
 蛇足ながら、連作の題名が「八月の芝のピッチや濤しづか」、「平日の晩餐をなすはわれにあり」、「晩餐に対をなすものあまたあり」のように俳句になっていたり、「夏風邪でわが祖母の家のガラス窓のごとくかすかにわれは波打つ」、「病院のなかを駆けづり回つてもブラックジャックはどこにもいない」、「またとない十二時半は檜町公園の芝で喰らふバーガー(自家製)」のように短歌になっていたりして楽しい。中年男には遊びが必要である。