第223回 佐藤モニカ『夏の領域』

夕暮れの商店街にまぎれたし赤きひれ持つ金魚となりて
佐藤モニカ『夏の領域』

 佐藤モニカは1974年の生まれで「心の花」所属。佐佐木幸綱に師事している歌人である。2010年に「サマータイム」で歌壇賞次席、翌2011年には「マジックアワー」で歌壇賞受賞。『夏の領域』はこれらの作品を含む第一歌集。沖縄の小説家又吉栄喜、吉川宏志、俵万智が栞文を寄せている。栞文を読んで知ったが、何と佐藤は「カーディガン」という小説で九州芸術祭文学賞優秀賞を受賞している小説家であり、かつ詩集『サントス港』で山之口獏賞に輝いた詩人でもあるという。恐れ入る多才な人だ。
 集中に「三賢母の一人モニカの名をもちてわれはいかなる母親になる」という歌があり、モニカは筆名ではなく本名らしい。調べてみると、モニカとは教父アウグスチヌスの母親の名で、カトリック三賢母の一人ということだ。
 さて、本歌集を一読して、何とのびやかな感性を持つ向日性の人だろうと感じ入った。これほどさわやかな読後感を後に残す歌集も珍しい。『夏の領域』という歌集のタイトルも明るいわくわく感をかもしだしている。
 本歌集はほぼ編年体で構成されていて、第I部には東京で働いていた頃の歌が収められている。

夏蝶を捕らへしごとく指先に今朝のアイシャドー少し残りて
クリーニング仕上がりしシャツへ腕通す腕より仕事に入りゆくものか
顔忘れ足型覚えてゐる客の孤島のやうな足型思ふ
玉手箱の大きさほどと思ひつついただきにけり粉石鹸を
スナップが大切と思ふオムレツを作るとき君に反論するとき

 この頃、著者は靴の販売係の仕事に就いていたようだ。一首目、女性にとっては化粧も大事な仕事の一部である。ラメ入りのアイシャドーが蝶の鱗粉のように指先に光っている。仕事の辛さを詠んだ歌もなくはないが、概ね著者は前向きなのだ。二首目、仕事で着る白いシャツだろう。シャツに通す腕から仕事モードに切り替わるという歌。ここにも白の明るさがある。三首目、歯科医は患者の顔を覚えなくても、歯形でその人とわかるというが、靴を扱う人も同じように顔ではなく足型で客を認識するのだろう。「孤島のやうな」という喩に思いが込められている。四首目は、おそらくマンションの隣に引っ越して来た人が挨拶に来た折の歌か。粉石鹸は挨拶のしるしである。五首目、スナップは手首の返しで、オムレツを返したり皿に移すときに手首の返しが要る。この歌に登場する「君」は後に作者が結婚することになる相手である。元気な作者は相手のいいなりにはならず、反論するのである。

さらさらと若葉揺らしてゐるわれかスタジオを出てシャワー室まで
ティーポットに夕暮れの色たまる頃自転車を漕ぎいもうとは来る
ブラジルにコーヒー飲めば思ふなりサントス港に降り立ちし祖父
早稲田大学教育学部卒業の佐藤陸一むつひと噺家になる
グアバジュースのグアバをあかく舌にのせ結婚について語りだすひと

 第I部には東京で単身で暮らし働く女性の姿が生き生きと描かれている。残業の多さに不平を漏らしながらも、一首目のようにヨガのスタジオにも通っているのだ。「若葉揺らしてゐる」が明るい。佐藤の歌には近景に立ち現れる人物もきちんと詠まれており、その代表は家族である。二首目にあるように、妹とはよく行き来しているようだ。「夕暮れの色たまる頃」が美しい。著者の祖父はブラジル移民として渡航し、コーヒー農園を経営していたようだ。佐藤は移民の三世であり、ブラジルにルーツを持つのである。また弟は早稲田大学卒業後、柳亭市楽という落語の噺家になっている。やがて「君」と呼ばれていた沖縄出身の男性が、佐藤家を訪れて結婚の申し込みをすることになる。
 第II部は思いがけず沖縄に転勤になった夫と名護に住むようになってからの歌が中心となっている。

まだ読めぬ東恩納といふ名前遭遇するたび夫をつつく
さみしくて郵便受けをのぞく顔向かう側より見られねばよし
パインカッターぎゆうつと回す昼下がり驚くほどに空近くあり
痛みを分かち合ひたし合へず合へざれば錫色の月浮かぶ沖縄
黒猫にヤマトと名付け呼ぶ度にわれの本土が振り向きゐるか

 初めのほうには暮らし馴れない土地と妻という役割にとまどう歌があり初々しい。東恩納の読みは「ひがしおんな」だろう。大阪人の家には必ずたこ焼き器があるというが、沖縄の家庭にはバインカッターなるものがあるのだろうか。沖縄は観光で宣伝されるように明るい南の島だけではない。そこは農民が土地を銃剣で接収された米軍基地の島でもある。本土から移り住んだ作者もその現実に直面せざるをえない。
 しかし何と言っても本歌集の圧巻は、子を授かり生まれて来るまでの歌が収録された第III部だろう。

みどりごを運ぶ舟なりしばらくは心臓ふたつ身ぬちに抱へ
産み月の四月まことにあかるくて幾たびも幾たびも深呼吸する
さやさやと風通しよき身体なり産みたるのちのわれうすみどり
われを発ちこの世になじみゆく吾子に汽笛のやうなさびしさがある
人の世に足踏み入れてしまひたる子の足を撫づ やはきその足
かひなにて抱けるもののかぎられて今この時は吾子にみに満つ
みどりごの足跡未だあらぬ部屋蜜なやうなる光を抱く

 あたかも妊娠と出産を経て五感以外の別の感覚が目覚めたかのようだ。自らの身体をみどり子を運ぶ舟と感じる一首目、出産予定の四月の明るさを愛でる二首目には、女性の身体感覚がさわやかに詠まれている。三首目は特に美しい歌で、出産後の身体を薄緑と表現するところが新しい。しかし子の誕生は喜びばかりではない。身ふたつになり、やがて子は自分を離れて行くという予感もまたある。成長した子を待ち受けているのは厳しい現実かもしれない。しかし今は子を腕に抱く喜びに充たされている。七首目は読んではっとした歌である。親の腕に抱かれているか、ベビーベッドに寝ている間は、子は部屋の床に足跡を残すことがない。当たり前と言えばそれまでなのだが、赤子を腕に抱いて初めて気づくことだろう。
 本歌集を読んでいると、日々の塵埃にまみれて暮らしているうちに鈍磨してしまった感性と感覚が、干天に慈雨を受けたごとく甦る気がする。それこそ短詩型文学の効用である。これからも沖縄で暮らし子の成長を見守る中で、また新たな歌が生まれるにちがいない。楽しみに待ちたい。