第229回 本多真弓『猫は踏まずに』

とある朝クリーム色の電話機に変化へんげなしたり受付嬢は
本多真弓『猫は踏まずに』

 インフルA型に罹患して10日ほど何もできなかったため、「橄欖追放」の短歌コラムを一回休載してしまった。年末に予防接種を受けていたので大丈夫と油断していたのだが、家人が名古屋の茶会に出掛けた折にウィルスをもらって来たらしい。まず家人がダウンし、次に看病していた私が感染した。かかりつけの医者に行くと、「この程度で済んだのは予防接種を受けてたからやで」と言われてしまった。インフルにかかるのは実に10数年ぶりのことで体に堪えた。
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 さて掲出歌である。会社の顔とも言われる受付嬢が、ある朝忽然と姿を消して、後にはカウンターに内線電話の受話器が置かれているという光景だ。訪問客は自分で内線をかけて訪問先と連絡せよということだろう。受付嬢が姿を消したのは、人員整理と経営の合理化のためである。受付嬢がどこに行ったのか気になるところである。
 職場詠というのとは少しちがう。長尾幹也のようなサラリーマン短歌ともちがう。素材は勤務している会社の風景なのだが、対象との距離の取り方というか、もっとあけすけに言えば突き放し方が尋常ではない。それは「十年を眠らせるためひとはまづ二つの穴を書類に開ける」「ああ今日も雨のにほひがつんとくる背広だらけの大会議室」といった他の歌にも共通している。
 本多真弓は1965年生まれ。2004年から枡野浩一のかんたん短歌blogに投稿を始め、2006年に未来短歌会に入会して岡井隆に師事。2010年に未来年間賞を受賞、2012年には未来賞を受賞している。『猫は踏まずに』(六花書林 2017)は著者の第一歌集である。跋文は岡井、栞文は花山多佳子、穂村弘、染野太朗が書いている。
 おもしろいのは栞文を書いた三人とも、「わたくしはけふも会社へまゐります一匹たりとも猫は踏まずに」という歌集タイトルともなった巻頭歌を引いていることである。穂村は続けて「『猫踏んじゃった』という有名な曲名を踏まえたものだろうけど、実際には猫なんて踏もうと思ってもそう踏めるもんじゃない」と続けている。しかしそんなことはない。私は留学していた時に、学生寮の前で生まれたばかりの仔猫を拾って飼ったことがある。寮の狭い部屋で猫と暮らしていると、腹を空かせた猫が餌をねだって足元にまとわりついてくる。私は何度も猫の足を踏んだ。靴を履いたままだからさぞかし痛かったろう。その度に猫は「フギャッ」と叫ぶのだった。
 本歌集は4部構成になっていて、上に引いたような会社短歌は主に第I章に収録されている。

ユキヤナギ真夜に来たりて白き花こぼしたものかシュレッダーまへ
日々樹々の精霊たちをあやめてはコピー用紙を補充してゆく
鎌首を擡げくる詩を屠りつつまひるまデータ入力をする
わたくしのなかの正義がはみだしてプラスチックのスプーンを割る
降水と言ひかへられる雨のごとくわたしは会社員をしてゐる

 「シュレッダー」「コピー用紙」「データ入力」などは、本来は意味の詩的荷重が希薄な無機的語彙に属するが、それらを「ユキヤナギ」「白き花」「樹々の精霊」「雨」などの詩的含意が豊富な語彙と組み合わせることによって一編の詩を立ち上げる手腕は見事なものである。本来は詩とは無縁な会社の中にうっすらとエーテルのように詩が立ちこめる。「詩を屠りつつ」とか「正義がはみだして」とか「スプーンを割る」というところに、作者の過剰な激しさが顔を出していておもしろい。岡井も跋文で書いているように、こういった会社短歌ではほぼ「作中主体イコール作者」と考えてよいだろう。
 第II章に移ると「あなた」が登場して相聞が多くなる。

ふれられてひかるからだがあるころにわたしあなたに出会ひたかつた
置き傘のやうなわたしは曇り日にきみとはぐれてしまふ おそらく
もう一度会ひたいひとがもうゐないさういふことに慣れてゆく春
心臓にとほいほうからかけてゆく水のやうなるわかれかこれは
レシートと次回使へるクーポンともうあなたとは行かない店の

 現実の恋愛を詠んだ歌かもしれないが、おそらくはこのあたりから「作中主体イコール作者」の図式から離れた歌が多く混じるのだろう。「置き傘のやうなわたし」や「心臓にとほいほうからかけてゆく水のやうなるわかれ」といった喩が巧みである。

 第III章ではまた趣の異なる歌が登場する。

嫁として帰省をすれば待つてゐる西瓜に塩をふらぬ一族
トーストは転校生に咥へられいま街角を曲がつたところ
ワトソン君こつそりチョコをお食べだねキスしなくてもわかるよぼくは
鬼百合の鬼のあたりを撫でたあとわたしを揺らす白い指先
ひきずれば死体は重し春の雨 それがあなたであるならばなほ

 このあたりはまったくの想像による歌である。一首目、嫁として帰省するというのは虚構である。「西瓜に塩をふらぬ一族」という決めつけがおもしろい。二首目も想像で、この前に「新発売!〈朝に咥へて走る用〉恋がはじまる春の食パン」という歌があり、転校生が咥えているのは〈朝に咥へて走る用〉の食パンである。三首目はBL短歌で四首目は百合短歌。五首目も想像であるのは言うまでもない。
 巻末の初出一覧を見ると、結社誌「未来」や同人誌の他に、「うたらばブログハーツ」や「詩客」などのweb媒体にも投稿しているようで、歌歴で言えばゼロ年代の歌人たちの世代に属しているのである。前衛短歌やニューウェーヴ短歌はすでに遠く、否定するべき過去もないという自由さが随所に感じられる。

録音でない駅員のこゑがする駅はなにかが起きてゐる駅
右利きのひとたちだけで設計をしたんだらうな自動改札

 第IV章に収録されているこれらの歌は「膝ポン短歌」である。「うまい」「そういうことあるよね」と思わず膝をポンと打つ歌だ。ふつう駅のアナウンスは録音の声が流れている。駅員が地声でアナウンスするのは、事故や延着などの異常事態が発生した時に限られる。録音が日常で生の声が異常という価値の転倒にハッとする。この歌はどこかで読んだ記憶があるのだが思い出せない。二首目も言われてみれば確かにそうで、切符を入れたりICカードをタッチしたりする場所は必ず右側にある。少数派である左利きの人は、利き手でない右手に切符やカードを持たなくてはならない。
 こういう膝ポン短歌や会社短歌では、作者の視点の鋭さや切れのよさや過剰さが目立つ個性となっているのだが、本多は趣の異なる抒情的な短歌にも優れている。

てのひらをうへにむければ雨はふり下にむけても降りやまぬ雨
人去りしのちのゆふぐれしんしんとたぐひまれなるさびしさよ降れ
雨あがりあぢさゐのあをゆふぐれにあるいはきみの町に降る雨
どのひとからもたやすくはがれやすきこと鉄橋をわたるたびわたるたび
ゆふぐれてすべては舟になるまでの時間なのだ、といふこゑがする
騙しゑを模写するやうなぼくたちの窓をよぎつてゆく鳥の影

 たとえば三首目の「あ」音による頭韻、四首目の「わたるたびわたるたび」のリフレイン、平仮名と漢字の配分の工夫、また「菅の根の長き時間を働けば同期が急に老けて見える日」の枕詞など、修辞の工夫も凝らされていて、なかなかの技巧派なのである。
 とはいえ本歌集を一読するとどうしても次のような個性溢れる歌が印象に残るのである。

業務上発音をす必要のあつて難儀なきゃりーぱみゅぱみゅ
長女つていつも鞄が重いのよ責任感を仕舞ひこむから
残業の夜はいろいろ買つてきて食べてゐるプラスチック以外を
寝室にひもの一本垂れてあり昭和の紐をひいて眠らな
永久の脱毛をしたわたくしのからだのはうは有限である
嗚呼きみの「自動ドア」とは仮の名で「電気で動くドア」だつたのか

 「きゃりーぱみゅぱみゅ」と発音しなくてはならない業務とは何だろう。四首目もあるある短歌で、私も子供の頃寝る部屋の天井灯に長い紐が付いていた。五首目の永久脱毛や六首目の自動ドアには鋭い文明批評が感じられる。三首目の過剰性も衝撃的だ。
 装幀もおもしろく、抹茶色の地にピンク色の猫が描かれている表紙を取ると、折り込まれて人の目に触れない場所に「平明なことばはつばさ おほぞらを翔けてみしらぬきみのまなこへ」という歌がひっそりと印刷されている。作者の信条だろう。読み応えのある歌集である。