第228回 窪田政男『汀の時』

ひと雨に花となりゆく六月の杳き眼をしたぼくのそれから
窪田政男『汀の時』

 六月は梅雨の季節である。この時期にひと雨ごとに色を濃くする花といえば紫陽花だろう。「ぼく」はなぜ杳い眼をしているのか。それは悔恨に満ちた過去を引きずっているからである。この歌は福島泰樹の次の歌と遠く呼応している。

あじさいに降る六月の雨暗くジョジョーよ後はお前が歌え

 『岩波現代短歌辞典』の「六月」の項にも解説されているように、「六月」は現代短歌の季語となっている。1960年6月、国会前での安保条約反対デモで女子大生だった樺美智子が死亡した。当時大きな事件として報道され、また人々の記憶に強く刻印された。政治運動が熱気を帯びていた時代のことである。1955年生まれの窪田はその時まだ5歳であり、リアルタイムの記憶はないだろう。福島の歌や、「六月の雨はとりわけせつなきを粗大ゴミなるテレビも濡らし」(藤原龍一郎)など現代短歌に詠まれた季語としての六月に想いを寄せているのである。結句の「ぼくのそれから」に時の流れに対する深い諦念が感じられる。
 窪田政男は「月光の会」に所属し、『汀の時』は2017年に上梓された第一歌集である。巻末に例によって長大な福島泰樹の跋文と岡部隆志の解説があり、窪田の歌の軌跡をうかがい知ることができる。それによると窪田が短歌を作り始めたのは51歳の時というから、ずいぶん遅い出発である。したがって本歌集に青春の歌はない。大人の歌、それも相当に苦み走った歌がそろっている。歌誌『月光』53号が本歌集の特集を組み、山田航、井上法子、大和志保らが寄稿している。
 やや厚めの紙に「月光の会」特有の青いインクで印刷された歌集は、手に取ると重いだけでなく、その内容もなかなかに重い。福島泰樹は窪田を「時間の泳ぎ手」「追憶のレトリシャン」と評している。私が一読して脳裏に浮かんだキーワードは、「ひたひたと打ち寄せる過去」、「立ち上がる死者」、「遠くにひるがえる旗」というものである。いくつか引いてみよう。

そう、たとえば机のうえのノートにもはにかむような血の痕がある
遠く降る雨の匂いと思うほど静かにそろう前髪がある
過去形の梗概かたるカフェテラスそれでも五月はひかりの中に
水菓子のたとえばそれは傷ついた鳥をつつみし手の椀に似て
御堂筋われらが夜の反戦歌スワロフスキーの沈黙を過ぐ

 一首目と二首目は「きみの航跡」と題された連作から。別れた女性、あるいは亡くなった女性への挽歌である。一首目の「そう、たとえば」という口語の柔らかい入り方がよい。三首目は1968年のフランスの五月革命へ思いを馳せる歌で、連作題名「五月」にAh, le joli mois de mai à Paris「嗚呼、パリの美しき五月よ」というよく知られた歌の歌詞が添えられている。私の世代の人間なら誰でも知っている歌だ。五月革命はもう過去形でしか語られることはないのだが、それでもいまだに光の中にあると詠まれている。四首目では「水菓子のたとえばそれは」の途中に挿入された「たとえば」が効果的だ。果物の形から傷ついた鳥を優しく包む手の形を連想した歌。果物は洋梨だろうか。五首目はおそらく2015年の安保関連法案の国会通過に反対するデモを詠んだものだろう。窪田も参加した反戦デモの脇には、スワロフスキーで身を飾った政治に無関心な若者がいるという具合である。

まな板に鯉のいっぴき腐りおり西日のなかに旋律ひくし
短歌うたうたう心さがせば開かれたハンマースホイの扉の向こう
棒立ちのぼくであるから風吹くな今日の吐息を攫ってゆくな
北風の強き日なれば敗走の日々を抱えて地下へおりゆく
はたしてそれはかなうだろうかひだりへと逃げ水なのにひだりへと蔓

 一首目、ほんとうに俎板の上で鯉が腐っているのではなく、「俎板の鯉」に自分を擬した表現である。自分は自らの力ではもう動くことのできない俎板の鯉だという苦い自嘲である。西日の中に低く流れている歌は革命歌だろう。二首目、ハンマースホイは19世紀後半のデンマークの画家。無人の静謐な室内を描く異色の画家である。ハンマースホイの扉の向こうには何もない。自分の中で歌の根拠を探せば空虚しかないと詠っている。三首目は「棒立ちのぼく」がすべての歌で、四首目には「敗走」が詠われている。五首目は福島の「ここよりは先へゆけないぼくのため左折してゆけ省線電車」を意識したものだろう。
 「ひたひたと打ち寄せる過去」、「立ち上がる死者」、「遠くにひるがえる旗」というキーワードが何を意味するかおわかりいただけただろうか。
 集中の「あさがおは九月さやけき空の下まぶた重たきぼくの怠惰よ」を見たときに、どことなく中原中也を思わせるものがあるなと感じたのだが、福島泰樹の跋文を読んでその印象がまちがっていなかったことを知った。窪田は関西学院大学文学部の美学科在学中に文芸部に所属し詩を書いていたのだ。福島自身も本歌集のゲラを読んで、窪田が相当に中也を読み込んでいると感じたと書いている。窪田はその後現代詩に行き詰まったときに、ふと福島の歌集を手にしたのが短歌に転じたきっかけだったと述べている。近代短歌の伝統的語法とは少し異なる柔らかな口語的表現は、おそらく現代詩をくぐり抜けて来た窪田の経験から生まれたものだろう。
 歌の内容に関わることなので、次の歌に詠まれている個人的事情にどうしても触れざるをえない。

アルコール依存症、骨髄増殖性腫瘍と不治の病を二ついただく

 年来のアルコール依存症との戦いと断酒の日々が窪田を短歌に振り向けたという事情があるようだ。骨髄増殖性腫瘍の発症は最近のことらしい。小中英之にその先例を見るように、宿痾を抱えると末期の眼が刮目し、死への想いに洗われるようになる。

氷片にふるるがごとくめざめたりむこと神にえらばれたるや  小中英之
今しばし死までの時間あるごとくこの世にあはれ花の咲く駅

 『汀の時』からさらに歌を引いてみよう。

木をはなれ地につくまでの数秒の祈りの坂をぼくは下りぬ
見おさめともう見おさめと過ぎる日の退屈きわまりなき愛しさ
あの角を曲がればいいのね残り香に切なく日々が終わるとしても
終活のひとつにせんとS席のキース・ジャレットをいちまい求む
いつの日か黒い小舟に乗せられて渡る河見ゆ胸に花束

 上に引いた歌には、いつか来るものとは知りながら、にわかに身近になった死への想いが哀切な祈りとなって詠われていて、心を打つ。若者は今まで生きて来た時間が短く、これから生きる時間の方が長い。だから青い空と水平線の前を向く歌を詠むことができる。中年も終わり頃を迎えると今まで生きて来た時間が長く、これから生きる時間の残りがもう見えてくる。ひるがえる旗はもう遠くなり、先に旅立った死者の重みが背中にのしかかるのだ。
 最後に特に心に残った歌を挙げておく。

黙祷とプールの匂い八月へ電車はゆけりまぶしき中を
雨の上にゆうぐれ来たり悲しみの背骨のごとく鉄塔の立つ
その日には足すもののなし石蕗の黄の花びらの欠けてあれども
かの地へと流れつくよう祈る手の割れてあらわる秋空の舟
亡き者のなんと重たき夕暮れか遊具ひたすらたれか待ちわぶ
あかあかと接吻くちづけ交わしクリムトの崩れゆきたるのうぜんかずら
ふと君と手をつなぎたし夕暮れに魅入られ歩く入水のごとく

 窪田の歌の中ではよく雨が降る。雨はハードボイルドの必須アイテムだ。『汀の時』という歌集タイトルも美しい。汀とは陸と水が接するところ。それは生と死、此岸と彼岸とが踵を接する境界であり、過去と未来が接する場所であると同時に、現実とかなわぬ夢想を隔てる場所でもある。歌集タイトルは窪田が「自分は今汀にいる」と自覚して付けたものにちがいない。久しぶりに腹にずしんとくる歌集を読んだ。『汀の時』は孤独な男の魂の歌である。