鶴田伊津は短歌人会所属で、2007年に第一歌集『百年の眠り』を上梓している。『夜のボート』は2017年に刊行された第二歌集だから、10年振りに歌集をまとめたことになる。前回に続いて第一歌集と第二歌集との間が長く空いた人を取り上げることになったが、これは単なる偶然にすぎない。ちなみに本歌集は六花書林から刊行されているが、鶴田は六花書林社主宇田川寛之の令夫人である。『夜のボート』という題名にちなんでか、ごく薄く斑点を散りばめた漆黒の装幀が印象的だ。
本歌集には2007年から2017年までの10年間にわたる歌が収められている。歌集の最初では2歳だった娘さんが、巻末では12歳になっている。10年の間歌集を出すことがなかったのは、子育てに専念していたためだろう。一読して巻を措いた印象は、この歌集を通奏低音のように流れるテーマは「時間」だというものである。
短歌が「時間の文芸」であるということはあまり論じられることがない。絵画や彫刻は「空間芸術」である。空間をいかに分節し彫琢するかがその核心をなす。空間の中で展開されているので、私たちは心ゆくまで時間をかけて鑑賞することができる。絵画や彫刻は時間に束縛されることがない。これにたいして「時間芸術」の代表格は音楽である。リズムやテンポやメロディーは、すべて時間を分節し時間の中で展開する。このため鑑賞する私たちは時間の流れに沿ってしか音楽を味わうことができない。
現代では活字となって眼で受容することが多くなったとはいえ、短歌は「歌」である以上、音楽と同様に時間の芸術である。しかし音楽とは異なり意味を持つ言語を用いているため、短歌における「時間」はいささか複雑な様相を呈する。
「歌」としての時間の第一は、披講(朗唱)と読字にかかる時間である。歌人は音の組み合わせや漢字と仮名の比率を変化させることで、披講と読字の時間をコントロールすることができる。本歌集から引いてみよう。
ぽんかんはぽんかんの香を放ちつつまはだかとなり人の掌のなか
帰宅せし子の長靴の靴底の欅の葉まだかたち保ちて
漢字の多い二首目より平仮名の多い一首目のほうが読字時間は長い。「ながぐつ」は4つの音として認識されるが、「長靴」は音を介することなくひとつの単語として認識されるからである。
もうひとつの時間は、物語論では「物語の中を流れる時間」と呼ばれるもので、この歌集で言えば子が2歳から12歳にまで成長する時間である。
来年は今年と違う夏なのだ浮き輪小さくたたみて仕舞う
制服の中の体が泳がなくなりし四歳泣くこと減りぬ
一首目、子の成長は早い。夏の海水浴の季節が終わり、浮き輪を仕舞っている。来年の夏もこの浮き輪を出して使うだろうが、来年の夏は今年と同じではないという時間の流れを感じている。二首目、幼稚園の制服は子の成長を見越して大きめに仕立てる。始めはぶかぶかで体が服の中で泳ぐが、やがては成長とともに服が体に合うようになる。それと並行して泣くことも少なくなる。子の成長を喜ぶと同時に、過ぎゆく時を惜しむ気持ちが強く感じられる。
最後の時間は、俳句や短歌のような短詩型文学に限らず、着物・料理・お菓子・家のしつらえなど、日本文化のあらゆる場面に浸透している季節という時間である。
子はふたつわたしはよっつ右脛に蚊の残したる晩夏の地図
ていねいにはなびらいちまい持ち帰る子のゆびさきの白を包めり
一首目は今年蚊に食われた跡をあらためて見る晩夏の光景で、二首目は何の花でもよいのだが、やはり桜の花びらと取りたい。幼い子の指先の白と桜の淡いピンクの取り合わせが好ましいからである。
このように本歌集では、主に作者が子と過ごした時間がていねいに掬い取られ、それが重層的な時間となっているところにいちばんの読みどころがあるように思う。
ゆうぐれに開くというを教えたりオシロイパナに指を染めつつ
傷口のふさがりてゆく時の間に子はかなしみを言うようになる
三年を子は成長の日々となしわれはひたすら雑草を抜く
巻頭近くの子がまだ幼い頃の歌である。一首目、オシロイバナが夕暮れに開くというのは花に固有の時間である。英語ではfour o’clockと呼ぶらしい。それを子供に教えているのは歌の中に流れる時間であり、ここにも時間の重層性がある。二首目、子供が怪我した傷口がふさがるのは比較的短く数日の時間で、一方、悲しみを言うようになるのは子の成長過程というより長い時間あり、そのふたつの時間を重ねているのがこの歌の眼目である。三首目は子供が生きる時間と作者が生きる時間の差を見詰めた歌。3年もあれば子供はぐんぐんと成長する。しかしその間自分は雑草を抜くことに象徴される日々の雑事に忙殺されている。
このように子供の成長を見詰める歌ばかりではなく、子育てに悩む作者の歌もまた本歌集にはある。
きみと子は枷だと責めているうちに泣く子以上に泣いてしまえり
「みおちゃんママ」などと呼ばれて手を振りしわれはどんどん腑抜けとなりぬ
今日われの海は凪ぎおり眠る子の額の汗をぬぐってやれば
我が知らぬ時間をまとう肉体を子とわれの入りし湯に沈めいる
足裏の火照りを床に当てながらわたしのためのビールを空ける
夫と子供を自由を束縛する枷だと感じることもあり、また固有名でなく「みおちゃんママ」と呼ばれることに違和感を覚えることもある。心の中に怒濤が荒れる時もあれば、夫が身にまとう自分の知らない時間を冷たく見詰めることもある。さりながら本歌集がよくある子育て短歌、子供可愛い短歌にならずにすんでいるのは、我が子を他者として眺めて、子供に流れる時間と自分に流れる時間の差を冷静に捉え、それを掬い取って重層的な時間が畳み込まれた歌を作ることに成功しているからだろう。それは作者がふたつの時間を俯瞰的に見る視点を持っていることに由来すると思われる。
最後に印象に残った歌を挙げておく。
垂直の雨を切りとり走り去る子をくわえたる黒猫の車
放埒のこころほのかにきざしたる夕、手放しで自転車に乗る
肉体の厚みを持たず揺れているパジャマの裾に蝉はすがれり
4Bを使えば4Bめくことば生まれ常より筆圧強し
ものの名を教えるたびにでたらめの楽しさを奪うような気がする
自らの骨を見しことなきままに骨のかたちを指に確かむ
逃げ水のなかに棲みいる魚の目に映れよわれのサンダルの白
線香の香の立つなかをすすみゆく水のおもてにうつるてのひら