第332回 片岡絢『カノープス燃ゆ』

はるかなる処より矢が放たれて地に突き刺さりをり曼珠沙華

片岡絢『カノープス燃ゆ』

 曼珠沙華は別名彼岸花ともいう。秋の彼岸の頃に土手や田の畔に一列に咲く。赤い花がよく知られているが、白い花もある。田の畔によく植えられているのは、曼珠沙華が救荒植物だからである。根茎にデンプン質が蓄えられているが、南米でよく食べるキャッサバ (タピオカの原料) と同様アルカロイド系の毒があるので、摺り下ろしてよく水にさらしてから食べる。その特異な花序と燃え上がるような色から、死人花、火事花、捨て子花など、あまりよくないイメージの俗称もある。曼珠沙華と言えば塚本邦雄の次の歌がすぐ頭に浮かぶ人も多いだろう。

いたみもて世界の外につわれと紅き逆睫毛さかまつげの曼珠沙華

 片岡の歌では曼珠沙華は異界から放たれた矢に喩えられている。曼珠沙華はその特異な形状と彼岸花という呼称ゆえに、この世の外にある異界のイメージを喚起するようだ。塚本の歌では作中の〈私〉はこの世界の外に佇立しているが、片岡の歌では矢が異界からこの世界に放たれる。葛原妙子の歌の遠い残響を感じさせる。塚本の歌を知った後では、逆睫毛を連想せずに曼珠沙華の花を見ることができないほどだが、片岡の歌の場合はどうだろうか。「曼珠沙華の歌」を集めるとしたら採りたい一首である。

 歌集巻末のプロフィールによれば、片岡あやは1979年生まれ。コスモス短歌会、桟橋(すでに終刊)、COCOONの会所属。第一歌集『ひかりの拍手』(2009年)に続く第二歌集である。歌集題名は集中の「人を恋ふときの眼差し 死を想ふときの眼差し カノープス燃ゆ」から選歌を担当した高野公彦が付けたという。近年出色のタイトルだと思う。カノープスとはりゅうこつ座の一等星で、全天でシリウスに次ぐ明るさの恒星だそうだ。一説によれば、カノープスとは、トロイア戦争の時にスパルタ王の船を操った操舵手の名とも言われている。夜空に明るく輝く恒星にせよ、王の信頼篤い操舵手にせよ、とても前向きなイメージがあり、それはとりも直さず本歌集の主調音である。これほど明るい歌集を読んだのは久しぶりだ。

 歌集は部分けされておらず、内容から見て編年体だと思われる。20代の若い女性が社会に出て働き恋をし、やがて伴侶を得て結婚し子供が生まれ、子育てに追われる日々が続くというライフストーリーが詠われており、作中主体の〈私〉はほぼ等身大の作者だと考えてよい。

 巻頭あたりに置かれた歌は、大都市で会社勤めをする一人暮らしの女性のそれである。

ラジオからわつと笑ひが洩れるたび一人暮らしの部屋は明るむ

目覚めても寂しいままだらうけれど水でも飲んで眠らなければ

そそくさと野菜スープをこしらへて司馬遼太郎の続きを読みぬ

だんだんと減ってはきたが今年もう三度目である式に呼ばれる

母と来た母のふるさと母は今私の知らぬ佐賀弁になる

 会社勤めの日々と友人と家族という典型的な近景の歌が並ぶ。地域社会や職場という中景の歌や、国家や理想や宗教という遠景の歌はまだない。明治の短歌革新によって誕生した近代短歌は「自我の詩」であると同時に、日常に歌の素材を発見する眼差しを内面化する運動でもあった。そのことは、「浦遠くわたる千鳥も声さむし霜の白州の有明の空」(後二条天皇)のような古典和歌と較べてみるとよくわかる。都の宮中で暮らした作者はおそらく、冬の寒々とした浜辺を渡る千鳥を見たことも、霜の降りた中州に昇る朝日を見たこともないはずだ。念頭にあったのは「有明の月影さむみ難波潟沖の白州の有明の空」(俊恵)という先行歌だろう。高踏的な美の世界を詠う和歌が日常生活を詠む近代短歌となったときに民衆の詩としての性格を獲得したことは、今日でも新聞の短歌欄に多くの投稿があることを見ても明らかである。

 本歌集で次に登場するのは相聞である。

君に逢ふための電車はゆふぐれを遠くから来て我を入れたり

心臓を体にをさめ誰よりもしづか 逢瀬の帰りの我は

君は多忙ゆゑになかなか会へなくて君は火星に居るのと同じ

会へずとも君の姿は目の裏に印刷されてゐるのだと言ふ

夕暮れの東急東横線内であなたを想ふため眼を閉ぢる

 相聞が歌集に拡がりと膨らみをもたらす理由は、相聞が近景・中景・遠景という作者と素材の距離感に基づく便宜的な分類に収まらないからだ。相聞の相手はたいてい異性の恋人である。相聞の本来の意味は、相手の様子を尋ね消息を通じ合うことだ。つまりは遠距離恋愛ではなくても、今ここにいない恋人に想いを馳せるのが相聞である。遠くにいる人に想いを飛ばすことによって、歌は近景の範囲を飛び越えて空間的な広がりを得る。そのことはいずれも電車を読んだ一首目と五首目を見れば明らかである。一首目では主体と客体の逆転と「ゆふぐれを」の助詞「を」が特によい。

特徴のないわたくしは特徴のない一日を事務所で過ごす

せんべいを一体何枚食べたのかわからなくなる深夜の職場

六階の休憩室のこの場所に座ると見える〈青空のみ〉が

部下一人叱った後の上役の苦悩にゆがむ目を見てしまふ

「えべれすと。仕事の量がえべれすと」呟きながら歩く同僚

 職場詠を見ると、作者は事務職でオフィスワークであることがわかる。一首目は取り立てて技能があるわけではない自分の歌。二首目は残業だろう。腹が減るので引き出しにあったせんべいを齧るのだ。三首目は現状からの脱出を希求する歌。四首目は部下を叱った自分に苦しむ上司の歌で、「見てしまふ」が見てはいなけいものを見たことを示している。どの歌も歌意は解説の要がないほどに明確である。しかし一巻がわかる歌ばかりではおもしろくない。もう少し詩的飛躍や詩的圧縮があってもよいのではなかろうか。

 やがて作者は伴侶を得て結婚する。結婚生活を詠んだ歌の中で私が爆笑したのは次の一連だ。

「ワイシャツのアイロンがけをしてほしい」夫に言われた妻の衝撃

実母から「アイロンぐらいかけてあげたら」と言はれた娘の衝撃

義両親から「アイロンをかけてやってほしい」と言はれた嫁の衝撃

「ワイシャツのアイロンがけはしません」と妻に言はれた夫の衝撃

 四首目で落ちがついているところが愉快だ。結婚生活とはある意味で絶えざる闘争の連続である。妥協点に落ち着くまでには時間がかかる。その後、作者は身籠もり男児を出産する。後半の大部分は子育ての歌だ。出産と育児は女性にとって大きな出来事で、生まれたわが子が可愛いのは当たり前なのだが、当たり前すぎてあるある感を抜け出した歌にはなりにくい。そんな中で私が注目したのは次の一連である。

公園に深緑あふれ 二歳児の宇宙語の語彙量も溢れる

物の名を教えへつつああかうやつて宇宙語の一つづつ奪ふのか

宇宙語の辞書は世に無く 無いものは皆うつくしい 死者達のやうに

 一首目には「喃語のことを宇宙語と呼んだりするらしい」という詞書きがある。子供に物の名を教えることで子供は言葉を習得するが、それは同時に宇宙語を失うことだという感じ方に共感を覚える。生まれたばかりの子供は世界のどんな言語の音も出す。よく聞いているとアラビア語の喉音も出せる。成長の過程で母語の音韻を習得するということは、それ以外の豊富な音を出す能力を捨てるということだ。人は多くの物を失いながら生きる。そこに一抹の淋しさがある。

 次のような歌に心を引かれた。

人体はかなしみなれば雲上の機体の中のかなしみ五百

生者なるわれにまだまだ幾人いくたりも生者は絡み お墓を洗ふ

重力に逆らって翔ぶ鳥の目よ 逆らふ者の美しい目よ

時かけて降りてくるものうつくしき 粉雪、花弁、生きものの羽

コピー機を操作してゐるわたくしの人差し指に迫る夕暮れ

 心を引かれる理由は、これらの歌が〈私〉と私の身めぐりという極小の空間を脱け出して、〈私〉を超えるものに想いを馳せているからだ。確かに近代短歌は基本的には「自我の詩」なのだが、自我そのものに詩はない。自我の正体は欲動のかたまりである。自我が自分以外の何かに触れるとき、自分を超える何か超越的なものに向かって手を伸ばすときに詩は生まれるのではないだろうか。