第331回 平岡直子『Ladies and』

夜型の髪へ獅子座の匂い降る

平岡直子『Ladies and』

 第一歌集『みじかい髪も長い髪も炎』で現代歌人協会賞を受賞した注目の若手歌人の川柳句集が出た。版元は左右社。左右社は最近続々と歌集・句集を出版していて、短詩型文学界の一翼を担う出版社となった感がある。

 本句集を手にして「えっ、何で歌人が川柳を?」という疑問が頭に浮かんだ人は多かろう。短歌と俳句はともに短詩型文学の代表格であり、両者の間を行き来する人は時々いる。よく知られているように寺山修司の出発点は俳句で、後に短歌を作るようになったし、藤原龍一郎も最初は赤尾兜子に師事して藤原月彦の名義で俳句を作っていた。塚本邦雄にも句集が二冊あり、『百句燦燦』(講談社文芸文庫)という現代俳句鑑賞の書は私のバイブルである。しかしながら短歌と俳句はその生理が大きく異なっているため、両者の間を自在に往還するのはたやすいことではない。短歌の言語と俳句の言語はその奉仕する先が異なるのである。「況んや川柳をや」なのだが、そもそも俳句と川柳のどこがちがうかが問題だ。常識的には有季定型俳句には季語が必要で、季重なりの禁止や切れ字の使用などが思いつく。川柳には季語は必要なくて、俳句に較べて口語性が強いのも特徴だろう。

 そういえば歌人の瀬戸夏子もしばらく前から川柳に接近していて、2017年には文学フリマで「瀬戸夏子は川柳を荒らすな」というタイトルの催しが開かれていたようだ。若手川柳作家の暮田真名は、紀伊國屋書店で開かれていた「瀬戸夏子をつくった10冊」というブックフェアで川柳句集を手に取ったのが川柳の道に進むきっかけだったという。

 さて平岡の句集である。帯文にこう書かれている。「わたしにとって、男性社会にチェックインするという手続きを踏まずに使える言葉の置き場がひとつだけある。それが現代川柳である」。またあとがきにはこうある。

 わたしが川柳について知っているのは、川柳とはじぶんの主人をあきらかにせずに発語できる唯一の詩型だということだ。ここは「どんな言い方をしてもいい」とゆるされている場所だ。(…)わたしには、川柳がときどきどうしても短歌の美しい死骸にみえる。短歌から〈私〉を差し引いて詩情だけを残したような、そういう夢のようなものにみえてしまう。短歌は私性に支えられた詩だけど、支えのない詩情がなぜ立っているのかがわからない。どうしてこんなことが可能なのだろう。理論上ありえないのではないか、と首をかしげつづけてきた。

 いずれも考えさせられる言葉である。帯文のそれは短歌のジェンダー論に深く関わる言葉だ。句集題名は集中の「Ladies and どうして gentleman」という句から採られている。英語の世界のLadies and gentlemen「淑女ならびに紳士の皆様方」という決まり文句に疑問を呈した句だが、読みは多義的である。ladiesには何も形容詞が付いていないのに、なぜmenにだけgentleという形容詞が付されているのかという疑問とも取れる。ただし、その答はladyという呼び方にはすでにgentleという意味が含まれているからなのだが。次にladiesだけでいいのに、何で次にgentlemenが付いて来るのかという疑問とも解釈できる。そうすると女性だけで事足りる社会を夢想する man hating / misandryの表明ということになる。しかしここではもっと単純に、一般社会のみならず短歌の世界でも横行している男性中心主義への疑問乃至は異議申立と取ることにしよう。平岡は川柳を男性中心主義から離れた表現の場と捉えているのだろう。

 あとがきの言葉はもっと短歌の生理に迫る言葉である。子規の改革によって近代短歌が「自我の詩」となって以来、濃淡はあれど「私性」が短歌を支えて来たことはまぎれもない事実である。しかしどうも近頃の若手歌人からは、この「私性」に対する疑問の声が聞こえて来ることが多くなった印象がある。それをはっきり述べているのは井上法子である。角川『短歌』2020年11月号の「青年の主張」で井上は、「わたしは私的なものごとを詠わない」と書いている。「書くわたしと生身と、たましいのディメンション」がまったく異なっていて、決して交わることがない。そのために「おのれ」を詠う理由がわからない。自分は「ことばだけの透明な存在になりたい」と続けていて、はっきりと「コトバ派」宣言をしている。また同じく角川『短歌』の2021年2月号の「時代はいま」と題されたリレーエッセイで、大森静佳が「嵐が丘へ」という文章を書いている。大森は、子供はまだかと無遠慮に尋ねたり、河野裕子論を書いているときに「若いのに子育ての歌が読めてすごい」と感想を述べたりする人たちへの違和感を表明している。続けて作品の評価に実人生を絡める読みに否定的な意見を述べ、エミリー・ブロンテは生涯のほとんどをヨークシャーの牧師館で過ごして『嵐が丘』を書いた。芸術の創作と実人生は関係ないと断じている。井上ははっきりと短歌の「私性」を拒否し、大森は短歌の「私性」はあるとしても作品の中にだけあるとして、安易に作者の境涯を読み込むことに警鐘を鳴らしているのである。平岡があとがきに川柳は「短歌から〈私〉を差し引いて詩情だけを残した」ようなものだと書いているのは、このような文脈で読むべきかと思われる。『Ladies and』の栞文は川柳作家の榊陽子となかはられいこが書いている。当たり前のことだが川柳作家なので、平岡の川柳を川柳の観点からのみ読んでいる。もし歌人に栞文を依頼したならば、異なる観点から平岡の川柳を論じたことだろう。

 前置きが長くなった。平岡の川柳を見てみよう。

白鳥のように流血しています

銀盆で運ばれてくる課題図書

さくらさくらマネキン買いをしましたね

コーヒーゼリー誕生石を聞いたのに

いないって感じを出しているボトフ

 短歌とちがって俳句や川柳では、一句ごとに意味を解釈して解説するのが難しい。俳句や川柳では、日常言語の言葉の連接を避けて、言葉を遠くに飛ばして非日常的な組み合わせを発見することでポエジーを発生させようとするからである。たとえば一句目。「白鳥のように」と来れば、「優雅に泳いでいる」とか、バレエなら「優雅に舞っている」と続くのが日常言語である。ところが続くのは「流血しています」という報告体の文である。白鳥の優雅なイメージと流血という惨事を並置することである種の詩情が立ち上がる。何かは知らぬがどこかで悲劇が起きているようだ。

 二句目の「課題図書」はたぶん小学生か中学生を対象とした夏休みの作文コンクールか何かだろう。図書館に行って課題図書の閲覧を申し込むと、うやうやしく銀のお盆に載せられて運ばれて来る。ふつう銀盆で運ばれて来るのは高級な料理かお茶セットである。銀盆の典雅さ・高級さと課題図書の日常性の落差におかしみがある。

 三句目の「さくらさくら」は歌のリフレインか。「マネキン買い」とはマネキンを買ったという意味ではなく、レコード・CDの「ジャケ買い」が中身ではなく表装で買うことを意味するのと同じく、ショーウィンドウのマネキンが着ている様子が気に入って服を買ったという意味だろう。「しましたね」の終助詞「ね」によって対話相手が浮上する。相手に語りかけるような文体もまた、俳句にはない川柳の特徴である。

 四句目の「誕生石をきいたのに」は、せっかく相手の誕生石を聞いておいて、誕生日にプレゼントしようと思っていたのに、お付き合いが誕生日まで続かずに別れてしまったという意味だろう。問題は初句の「コーヒーゼリー」である。まさかコーヒーゼリーが付き合っている相手ということはなかろうから(だったらとてもシュールな句になる)、コーヒーゼリーは作中の〈私〉が喫茶店で注文し、目の前に置かれていると取るのがよかろう。コーヒーゼリーに手を付ける暇もなく、相手は別れを切り出して立ち去ったのだ。

 五句目をなかはられいこは、食卓に置かれて湯気を立てているポトフが誰かの不在を際立たせていると読み解いている。しかしそう読むと「出している」という能動性を表す動詞にやや無理が感じられる。ここはポトフを擬人化して、自らがそのような感じを醸し出していると読んでおこう。ポトフは取り立ててご馳走ではないごく庶民的な料理である。だから食卓で自分の存在を声高に主張することなく、ひっそりと片隅に存在している。そう取っておく。

 四句目に作中の〈私〉の存在が感じられるものの、どの句も短歌的な「私性」とは無縁である。醸し出される詩情を作者の境涯が裏打ちしていることはない。その理由はかんたんで、俳句や川柳は「私性」を注入するには短かすぎるからである。ルナールの「蛇、長すぎる」ではないが、「俳句・川柳、短すぎる」のだ。

うつし身のわが病みてより幾日いくひへし牡丹の花の照りのゆたかさ

                       古泉千樫『青牛集』

 この歌の下句の「牡丹の花の照りのゆたかさ」には取り立てて「私性」はない。「ゆたかさ」に牡丹の花の色を豊かと観じる主観性はあるがそれだけに留まる。この歌の「私性」を作り出しているのは上句である。古泉は貧困と病弱に苦しみ41歳で肺結核で亡くなっている。上句にはそのような古泉の境涯が詠われている。上句で作中の〈私〉の境涯を、下句で景物を詠み、叙景のなかに抒情が滲むという近代短歌の王道を行く名歌だと言ってよい。

 俳句や川柳は境涯を詰め込むための字数がないのでこういうことはできない。ではどうやってポエジーを立ち上げるか。それはひとえに言葉に頼るのである。このときの「言葉」という概念には注意しなくてはならない。「言葉」は単なる言葉ではないからである。

 平岡は私性という支えのない詩情がどうして成り立つのかという疑問を呈していた。その答はおおむね次のようになると思われる。

 言葉には指示的意味がある。「机」は机という家具を指し、「低気圧」は気候現象を指す。これが指示的意味である。辞書にはまっさきにこの意味が記載されている。しかし言葉は指示的意味の周辺にさまざまな背景的情報を身に纏っている。「黒板」と言えば小学校の教室が目に浮かぶだろう。私の世代ならば木の床に引いたオイルの匂いまで感じられる。これを共示的意味(コノテーション)という。「ざらざらの」と言えば皮膚感覚が喚起される。「苦い」と言うと味覚領域が立ち上がる。認知言語学ではこのように単語が喚起する領域を言葉のactive zoneという。言葉は私たちのいろいろな場所に働きかけるのである。このように言葉は体感まで含めてさまざまな意味や感覚や感情を惹起する。俳句・川柳を読む読者は、句に書かれた言葉を弾機として、句には書かれてはいない意味や感覚や感情を心の中に呼び起こす。その様は池に小石を投げ込んだときに、落下点を中心として周囲に静かに波紋が拡がってゆく様に似ている。波紋はお互いに複雑に干渉してさらに拡がってゆく。そのさざなみのゆらぎが俳句や川柳のポエジーを立ち上げる。したがって短歌に較べて俳句・川柳は読む人に委ねられている部分が大きいことになる。その様子を具体的に見てみよう。

雪で貼る切手のようにわたしたち  

洗面器に夏のすべてがあったのに

 一句目「雪で貼る」にもう詩情がある。ふつう封筒に切手を貼るときは、水で濡らすか舌で嘗めるものだ。雪で切手を湿らせるという行為がすでに日常を越えている。切手とわたしたちが「のように」という直喩で結ばれている。切手は手紙を遠い誰かに届けるものだ。わたしたちの思いも手紙のように誰かに届いてくれればという願いが読み取れる。ここには特定の個人の境涯や心理に収束するような私性はない。しかし句に置かれた言葉が共鳴し合い、読者の心の中に何かを呼び覚ますことでポエジーが発生する。

 二句目、洗面器に冷たい水を満たして顔をジャブジャブ洗う。あるいは捕まえて来たザリガニを洗面器に入れて飼う。どれも子供時代を喚起し、洗面器は幼年期の夏の象徴である。下五の「あったのに」でそれがもう失われていることが知れる。私たちは大人になり、もうあの夏の煌めきをなくしてしまった。この句もまた特定の個人の境涯に凭り掛かることなく、誰にでも感じられる詩情を立ち上げている。

 「私性」に縛られている短歌に較べて、川柳はより自由に振る舞うことができる詩型と平岡が感じている背景には、このような事情があるのではないかと思う。

 最後に特に気に入った句を挙げておこう。

木漏れ日のようね手首をねじりあげ

南国まで逃げて目覚まし時計

黄ばんだらポストに入れる絶縁状

食べおえてわたしに踏切が増える

ボクサーか寝ているしずかな輪のなかに

いいだろうぼくは僅差でぼくの影

夏服はほとんど海だからおいで

窓たちよ手ぶれのなかの桐一葉

ついたての奥へいざなう渡り鳥

 いちばん気に入った一句をと言われれば、冒頭の掲出句だろう。

夜型の髪へ獅子座の匂い降る

 夜という時間帯、髪という人体、獅子座という天空の星座、匂いという感覚が混じり合うことで、一句の中に複雑な意味の混交と空間的な広がりが実現されている。

 若手歌人のあいだでは今後も「私性」への問いかけが続くかもしれない。興味深いことである。