西行の爪の長さや花野ゆく
川村秀憲×大塚凱『AI研究者と俳人 ― 人はなぜ俳句を詠むのか』(dZERO,
2022年)を読んだ。とてもおもしろかったので、今回はこの本について語りたい。
川村秀憲は1973年生まれのAI研究者で、北海道大学大学院情報科学研究院教授。調和系工学研究室を主宰し、2017年から俳句生成人工知能の「AI一茶くん」を開発している。山下倫央、横山想一郎と共著で『人工知能が俳句を詠む』(オーム社、2021年)という著者がある。大塚凱は1995年生まれの若手俳人。俳句甲子園で活躍し、現在、俳句同人誌「ねじまわし」発行人。佐藤文香編著『天の川銀河発電所』から大塚の句を引く。
そのみづのどこへもゆかぬ火事の跡
腕時計灼けて帰つて来ない鳥
いもうとをのどかな水瓶と思ふ
本書は理系のAI研究者と文系の俳人の対談という形式を採っているが、「人の知能とは何か」と並んで「人はなぜ俳句を作るのか」という問いにも肉薄していて興味が尽きない。しかしAIに不案内な向きにおいては、次のような疑問が頭に浮かぶにちがいない。
・AIがどうやって俳句を作るのか。
・AIに俳句を作らせて何がおもしろいのか / 何の役に立つのか。
・AIが生成した文字列をほんとうに俳句と呼べるのか。
本書はこのような問いに次々と答えてくれるのだが、私なりに理解したことをまとめておこう。
現在は第3次AIブームと言われている。AIの定義はさまざまだが、ここでは「自分で考えて課題に解答を出すコンピュータ・プログラム」としておこう。AIブームが再び到来した理由は、大量データの機械学習の手法の確立と、2006年に提唱されたディープ・ラーニング(深層学習)による。
コンピュータに何かを判断させるとき、判断の基準となる特徴量をあらかじめ人間が与えてやる必要がある。たとえば果物の画像を見せてそれがリンゴか梨かを判断させる場合には、形はよく似ているため特徴量とはならず、リンゴは赤いか薄緑色で、梨は黄土色か茶色という色のちがいが特徴量となる。しかし人間がいちいち特徴量を教えるのでは手間がかかってしかたがない。AIはそれを大量データの機械学習でクリアした。また、ディープ・ラーニングとは学習した知識を階層化することをいう。「AI一茶くん」では教師データとして過去の俳句作品と、それだけでは言葉の組み合わせが不足するので散文データも使っているという。おそらく「AI一茶くん」はブログラミングに従って、読み込んだ言語データをまず文節に区切り、次に体言と助詞、用言の活用形と助動詞などに分解して、その組み合わせと出現頻度を学習するのだろう。
さて、AIに俳句を作らせて何がおもしろいかである。人間と同じようなことができるコンピュータ、もしくは人間を超える能力を持つコンピュータを作ることは、コンピュータ工学者の長年の夢である。チェスの試合で人間に勝ったディープブルーは話題になった。川村のスタンスは少し異なる。川村が興味を抱いているのは「人間の知能とは何か」という問題であり、俳句はその課題にアプローチするためのひとつの手段だという。たとえば直立二足歩行をするロボットを作ろうとすると、人間がいかに複雑にして精妙な姿勢制御をしているかがわかる。それと同じように、AIに俳句を作らせることによって、人間がどのように知識を処理し言語を操っているかが少しずつ可視化されるということだ。これはAI研究者の立場からの答えである。
では俳人の目から見たとき、AIに俳句を作らせて何か得られるものがあるのだろうか。大塚は次のように述べている。
「AI一茶くん」が俳句をつくるとき、あらかじめ「こんなことを詠みたい」という動機のようなものはありません。季語、そして名詞や動詞、助詞などのさまざまな語が、いわば数式によって組み合わされ、一句として出てきます。動機のなさ、演算による句の生成、この二点だけを見ても、人間の俳句の作り方とはずいぶんちがっていると思う人が多いでしょう。けれども、私自身が俳句を作るときのことを考えてみると、「こんなことを詠みたい」と考えて俳句をつくるわけではないのです。ことばを使ってイメージを描くというよりも、イメージがことばに落としこまれていく。ことばが引っ張られて出てくる。イメージがことばを紡ぎ出すといえばいいでしょうか。そんな状況が頻繁に頭の中で、しかも無意識の次元で起こっています。そう考えると、「AI一茶くん」と自分はそれほどかけ離れているわけではない。むしろ共通する部分が多いのではないかと思います。(p.p.21~22)
つまり俳人が作句するとき、あらかじめ表現意図があるのではなく、ぼんやりとしたイメージが言葉を引っ張り出すのであり、それはほとんど無意識の領域で行われているということである。創造の秘密は作者の手中にはない。だとすればブラックボックスの中で何が起きているのか、作者としても知りたくなるのは道理である。大塚は「AI一茶くん」がそれを知る手がかりになると考えているのだろう。
では「AI一茶くん」の実力はどの程度のものだろうか。
初恋の焚火の跡を通りけり
てのひらを隠して二人日向ぼこ
ひとの世の遊びのれんの白絣
夢に見るただの西瓜と違ひなく
水洟や言葉少なに諏訪の神
ゆづられて月下美人にふれ申せ
栗の花少年の日の水たまり
シャガールの恋の始まる夏帽子
白鷺の風ばかり見て畳かな
季語を一つ入れるとか、五・七・五の韻律を守るといったルールは教えてあるので、あとは何と何を組み合わせるかの問題である。また極端に無意味な句ははじいてあるそうなので、「AI一茶くん」がコンスタントに上に引いたような句を生成できるわけではない。比較的よい句だけを選んであるのだが、それを差し引いてもなかなかの実力である。「ひとの世の」や「栗の花」や「シャガールの」などの句は、誰かの句集に入っていてもおかしくない。
本書の対談で明かされたことでいちばんおもしろかったのは、「AI一茶くん」は選句ができないということである。コンピュータは疲れを知らないので、動かしている限り無限に句を吐き出す。しかしその中から秀句を選ぶことができないのだ。本書に掲載されている句はすべて人間が選んだものである。
上に述べたように、コンピュータに何かを判断させようとすると、判断の基準となる特徴量を与えなくてはならない。つまり秀句と秀句でないものを区別する基準を数値化して教える必要がある。ところが川村によれば、これはAIでことごとく失敗してきたことだという。
そりゃそうだろう。秀句性を言葉で説明せよと言われても「うっ」と詰まってしまう。ましてや数値化するなど不可能事だ。たとえば私は次のような句を愛唱しているが、どこがよいのか説明せよと言われてもできない。
南国に死して御恩のみなみかぜ 摂津幸彦
愛されずして沖遠く泳ぐなり 藤田湘子
天文や大食の天の鷹を馴らし 加藤郁乎
俳句は「多作多捨」と言われている。たくさん作ってたくさん捨てる。選句とは捨てる行為である。高浜虚子は「選は創作なり」と言ったと伝えられている。大量に作句するとさまざまな言葉の組み合わせを得る。そのなかから「これはよい」と選ぶこともまた句作の一部なのである。創作の秘密に肉薄するこの作業はコンピュータで置き換えることが難しいようだ。
本書を一読して大いに共感したのは、川村が句作における「共有」の重要性を指摘している部分である (p.p. 26~27)。川村が季語の重要性について俳人に聞いて回ったときに、季語の背後にある情報を俳人が共有していることに気づいたという。俳人は季語だけでなく、現在までに作られた膨大な句を知っている。この意味で俳句の世界はとんでもなく「高文脈文化」(high-context culture) なのである。
このことは言語学や哲学にも大きな意味を持つ。これは「共有知識問題」と呼ばれている。〈A〉という情報を相手が知っている(あるいは知らない)ということを私はどうやって知ることができるかという根源的な問題である。読心術でもないかぎり、他人の頭の中を直接に知ることはできないはずだ。しかし私は常日頃から、言語コミュニケーションには共有知識が大きな役割を果たしていると考えている。極論すれば言語コミュニケーションとは、話し手と聞き手の間の共有知識の調整過程である。哲学の小難しい議論を俳人が日常の句作や読みにおいて苦もなくクリアしているのは痛快この上ない。
短歌の世界では『短歌研究』2019年8月号に「歌人AIの歌力」という題名で、短歌を作るAIの開発の経緯が語られている。短歌研究社のHPにはすでに「恋するAI歌人」というページがあり、初句を入力するとAIが短歌を生成してくれる仕掛けだ。
折しも朝日新聞が去る7月6日・7日(大阪版)に、「AIと創作の未来」と題して自社で開発した短歌AIの紹介をしている。それによると、任意の言葉を入力すると、それに続けて短歌を生成するプログラムらしい。また俵万智の句集を教師データとして覚えさせたものもあり、「二週間前に赤本注文す この本のこときっと息子は」などいう歌を生成するという。俵は「AIに名歌をつくってもらう必要はない」と否定的だが、永田和宏は、歌は作者だけのものではない、一番言いたいことは読者に引き出してもらうと述べて、読者論を展開する歌人らしく「読み」の重要性を改めて指摘している。
本書であまり語られていないが、AIが俳句を作る際に大いに問題となりそうなのは、AIが詩的飛躍と詩的圧縮の度合いを判定できるかだろう。たとえば「抽象となるまでパセリ刻みけり」(田中亜美)という句がある。これがもし「粉々になるまでパセリ刻みけり」では俳句にならない。言葉の連接がふつうだからである。「抽象となるまで」と残りの部分の取り合わせの意外性と飛躍がポエジーを発生させている。AIにこの匙加減が判定できるとは思えない。
最後に大塚によれば、AIが短歌を作る時の問題は短歌における「作者性」だという。俳句とは異なり、短歌は作者性が強く働く詩型である。果たしてAIは「歌の背後にみえるただ一人の顔」という一貫した人格までも生成することができるだろうか。それは難しいように思える。もっとも短歌にそのようなものを求めないという立場もある。日頃から「言葉だけの存在になりたい」と願っている井上法子のような歌人ならば、自分が作る短歌とAIが生成する短歌が並べて置かれることに抵抗はないかもしれない。
しかし、短歌を読んで感動したとして (あまつさえ涙ぐんだとして) 、その後で作者が実はAIだったと知ったとき、あなたがどう反応するかが最終的な問題だ。「私の感動を返せ」という反応もあるだろう。AIが句会や歌会に参加する日がいずれ来るかもしれない。そのときに問われるのは、大阪大学のロボット工学者石黒浩が人間そっくりなロボットを作って試しているように、人間がロボット (コンピュータ) という生命のないものにどのような感情的反応をするかだろう。