第334回 なかはられいこ『くちびるにウエハース』

火曜日の手首やさしい泥の中

なかはられいこ『くちびるにウエハース』

 川柳作家なかはられいこの第三句集が出た。第二句集『脱衣場のアリス』から何と21年振りだという。本コラムで『脱衣場のアリス』を取り上げたのが2008年だから、それから14年の月日が経ったことになる。14年と言えば生まれた子供が中学2年生になるまでの時間だと思うと気が遠くなりそうだ。今回も瀟洒なイラストによる装幀で、ちがいと言えば版元が北冬社から左右社に変わったことくらいだろう。『脱衣場のアリス』では巻末に川柳作家の石田冬馬・倉本朝世と歌人の穂村弘・荻原裕幸の座談会が収録されていた。今回は盟友の荻原裕幸の解説が添えられている。

 『脱衣場のアリス』は7つの章立てに分けられていて、それぞれ冒頭に「からだとこころ、こころとからだ、うそをつくのはいつでもこころ。」のようなエピグラフが添えられていた。『くちびるにウエハース』はエピグラフなしの普通の章立てになっているが、唯一の例外が「2001/09/11 」と題された9.11のアメリカ同時多発テロを詠んだ連作である。そこには「その日の夕食に秋刀魚を食べた」と始まる短文が添えられている。

ビル、がく、ずれて、ゆくな、ん、てきれ、いき、れ

炎(息が)黒煙(できない)青い空

落下する、ひと、かみ、がらす、コップを倒す

ゆびのすきまはさみのすきまかみさまは

ほうふくとつぶやいてみる酢の匂い

 荻原の解説によれば、柳壇のみならず短詩型文学の世界で話題になったのは上に引いた一句目であったという。テロによるワールドトレードセンタービルの崩壊の様子を、句の統辞的分断と読点による分割を用いてアイコニックに表そうとした実験的作品だ。また二句目ではパーレンを用いることで句の内部に異なる発話主体を埋め込んでいる。現代短歌ではニューウェーヴ以来、よく用いられている手法である。しかしなかはらの愛読者には、これらの句が話題になったとしても、いかにもなかはららしい句だとは感じられないのではなかろうか。なかはららしい句はむしろ上に引いた中では四句目や五句目だろう。

 前句集に続いて本句集でも、身体部位、特に手足を詠んだ句が多くある。

踵から頭のてっぺんまでギニア

はじめてがいまだひそんでいるからだ

左腕から右腕へ舟はたどりつく

二の腕もすすきも月に触れたがる

つまさきは波打ち際の夢をみる

空に満月くちびるにウエハース

かろうじてかたち保っているからだ

 身体へのこだわりはなかはらの詩想の特徴だが、それは手足などの身体部位が詩的な発想や連想の起点となっているからではないだろうか。よく子供が手を使って狐の形を作ったりして遊ぶことがある。子供にとって手は最も身近な玩具だ。それと同じように、なかはらにおいては身体部位がどこかに向けて想いを向ける出発点になっているように思える。たとえば上の三句目では、左腕と右腕は川の両岸の喩と取ることもできる。そのとき舟は渡し船である。しかし子供が一人遊びをしていて、何かを舟に見立てて左腕から右腕へと移動しているのかもしれない。その両方がダブルイメージとなって、句の意味の未決定性を生み出している。

 一方、五句目はもう少しわかりやすい。私たちが波打ち際に立ったとき、波が真っ先に触れるのはつま先である。したがってつま先と波打ち際の間には隣接性 (contiguity) の関係がすでにある。しかしながらその関係がすでにあることが、句から新鮮味を奪っていることも指摘しておかなくてはならない。

 身体部位を詠んだこれらの歌と、上の二句目・七句目は少しちがうように思える。生まれたばかりの赤ちゃんにとっては何もかもが初めてだ。少し成長しても、初めて海を見た日、初めてタンポポの綿毛を吹いた日、初めてネコを撫でた日のように、「初めて」が一杯ある。ところが大人になると「初めて」は急速に減少する。しかしある日のこと、「私にもまだ初めてがあったんだ」と気づくことがある。そういう想いを詠んだ句だ。七句目は仕事で疲労困憊したか、あるいは失恋して落ち込んでいる時を詠んだものだろう。これらの句は身体部位ではなく身体全体の感覚を詠んでいる。このため句の意味が解釈しやすい。ということは何らかの現実の事態に対応しているということであり、その分だけ詩的飛躍力が少ないということでもある。

 なかはらの句に鳥を詠んだものが多いのも特徴のひとつだ。

ちゅうごくと鳴く鳥がいるみぞおちに

ポケットを出るまで指は鳥でした

びっしりと鳥が詰まっている頁

かろうじてキーホルダーの鳥の青

名簿からふいに飛び出す鳥一羽

 『短歌ヴァーサス』3号(2004年)になかはらは「『思い』は重い」という文章を寄稿している。それによれば、俳人と句会を開いた時に「砂時計」を詠んだ句が出詠された。なかはらが砂時計は川柳では「人生の残り時間」を表すと発言すると、俳人たちに大いに驚かれたという。俳句では砂時計は砂時計としてしか読まないからである。このエピソードを紹介したなかはらは、川柳は「思い」を読むものだとされていることに疑問を呈している。

 なかはらが書いているエピソードから判断すると、どうやら川柳の主流(と、なかはらが判断している傾向)は短歌に近いものらしい。短歌は抒情詩であり、物や出来事にこと寄せて作者の「思い」を詠むものだとされているからである。

 一方、俳句はどうもちがうようだ。『文學界』の今年の5月号は「幻想の短歌」という特集を組んでいる。この特集については別に書くことにして、生駒大祐・大塚凱・小川楓子・堂園昌彦の座談会「短歌の幻想、俳句の幻想」での小川の次の発言がおもしろかった。小川は俳句は最終的に「物」に着地すると述べている。小川は最初は短歌を作っていて、後に俳句に転じた人である。小川が俳句を始めた頃のこと、「水鳥の水離りゆくさびしさよ」という句を出したら、「そのポエジーは歌人には理解されても、俳人にはなぜ寂しいかわからない」と先生に言われたそうだ。そのとき小川は、俳句においては感情よりも物体としての「物」に着地することが衝撃だったと述懐している。

 この小川の発言と『短歌ヴァーサス』になかはらが書いていることを較べると、両者は同じベクトルを示していることがわかる。俳句において「物」は作中主体である〈私〉の感情の喩ではないのだ。

金魚大鱗夕焼の空の如きあり  松本たかし

天金こぼす神父の聖書秋夜汽車  齋藤慎彌

 松本の句において金魚は作者の心情を表す喩などではない。大ぶりの金魚が金魚玉の中で悠然と泳いでいる存在感が句のすべてである。能の家元の子として生まれながら、身体虚弱ゆえに家を継ぐことが叶わなかった作者の心情がどこかに投影されているのではない。同じく齋藤の句でも神父や聖書が何かの喩として置かれているわけではない。一方、次の小池の歌では、倒れた向日葵は若き小池が乗り越えようとする父親の喩であり、家を貧窮させた父親に向かう負の感情が顕わである。向日葵は単なる「物」として置かれているのではない。

倒れ咲く向日葵をわれは跨ぎ越ゆとことはに父、敗れゐたれ  

                  小池光『バルサの翼』

 このように、最終的に「物」に着地する俳句と、否応なしに「心情」へとなだれ打つ短歌の生理の差は明らかである。

 したがって上に引用したなかはらの句に現れる「鳥」は何かの喩と取るべきではない。たとえば「ポケットを出るまで指は鳥でした」では、男の子のポケットという素敵な秘密の場所にいる時は鳥だったのに、ポケットから外に出すとふつうの手の指になってしまったという読みができるのだが、だからと言って「鳥」が何かの喩というわけではなかろう。とはいえ空を天翔る鳥はなかはらにおいては、何かの憧れを象徴しているようではあるが。

約束を匂いにすればヒヤシンス

ドアノブに雌雄があって雪匂う

まれびとと桜浅草十二階

ちょっと死ぬ銀杏並木の途切れ目で

付箋貼る(わすれるための)名前に空に

看板の欠けた一字はたぶん春

笊の目を豆腐はみでる十二月

 好きな句を挙げてみたが、句集を読み返して困った。最初に読んだ時と立ち止まった句がちがうのである。しかしそれは自然なことなのかもしれない。こちらの体調や心の有り様によって心に響く句はちがって当然である。上に引いた中では最後の「笊の目を」はもはや川柳と言うよりも俳句である。逆に解釈の容易な意味が充満しているのは「付箋貼る」の句だろう。それにしてもとても折口信夫的な「まれびと」と、かつて浅草にあった高層建築の浅草十二階を取り合わせたレトロ感溢れる「まれびとと」は若い読者にはわかりにくいかもしれない。大正ロマンの世界である。

 酷暑の夏の消夏法としては、『くちびるにウエハース』の世界に遊ぶのは悪くない選択である。本句集を携えて軽井沢あたりに行くことができれば申し分なかろう。書を開けば、凝り固まった脳のシナプスを柔らかく解きほぐしてくれる句が並んでいて、連想の飛躍と大胆な詩想が織り上げる言葉の世界にひととき遊ぶことができる。