近頃、短歌がはやっているという。にわかに信じがたいことである。しかし『短歌研究』8月号は「短歌ブーム」という特集を組んでいるし、『文學界』5月号は「幻想の短歌」という特集を組み、その冒頭に「最近、『短歌が流行っている』と耳にするようになった」と書いている。確かに検索してみると、『産経新聞』や『静岡新聞』が短歌の流行を取り上げた記事を掲載し、錦見映里子のインタビューなどが載っている。どうやら短歌がはやっているようなのである。
とはいうものの、『短歌研究』8月号の「短歌ブーム」特集は、岡野大嗣を大きく取り上げた内容になっている。どうやら岡野の歌集『サイレンと犀』(2014年)『たやすみなさい』(2019年)、『音楽』(2021年)、木下龍也の『あなたのための短歌集』(2021年)、岡本真帆『水上バス浅草行き』(2022年)などの売れ行きが好調なのだという。
地球終了後の渋谷の街角に聞こえる初音ミクの歌声
岡野大嗣『サイレンと犀』
サイダーのコップに耳をあててきくサイダーのすずしい断末魔
岡野大嗣『たやすみなさい』
犬の顔に虹が架かって辿ったらとうふ屋さんのおとなしい水
岡野大嗣『音楽』
どこかに淡い諦念のようなものを漂わせた静かな抒情を感じさせる作風だ。文体は完全口語で、ポップでライトな感覚である。1996年に岡井隆の言挙げなどで論争となったライトヴァースの完成形のひとつと言ってよいかもしれない。
折しも8月14日付けの朝日新聞(大阪版)の短歌時評で、山田航が岡本真帆の『水上バス浅草行き』を取り上げている。なんでも1万部を越える売れ行きだという。
ほんとうにあたしでいいの?ずぼらだし傘もこんなにたくさんあるし
岡本真帆『水上バス浅草行き』
帰りつつ家賃の歌をつくったら楽しくなって払い忘れた
外に降る雪の様子をみてるからあなたは鍋の様子をみてて
山田は岡本の歌の不器用な人を全肯定する明るさが応援歌として受け止められたとした上で、かつて穂村弘が指摘した「わがまま」の現在形なのではないかと述べている。これは穂村が1998年の角川『短歌』9月号に寄せた「〈わがまま〉について」という文章を踏まえているのだが、長くなるので詳細は省く。
特集の中で天野慶が「『短歌ブーム』に誰が火をつけたのか」という文章を書いていて、書肆侃侃房、左右社、ナナロク社が共同で短歌フェアを開催するなど、出版社の戦略も大きく貢献していることを指摘していて、おそらくそうなのだろうと思う。またTwitterやInstagramなどのSNSと短歌の短さが相性が良いことも周知の事実である。岡本の歌は誰かに向けたものというよりはつぶやきのようなものであり、そのような歌の質もSNS向きなのかもしれない。
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『文學界』5月号の「幻想の短歌」はなかなか読ませる内容だった。しかし一読した感想は、「短歌と幻想はまずまず相性が良いが、俳句と幻想はまったく馴染まない」というものだ。
今回の特集の看板は「幻想はあらがう」という座談会で、大森静佳・川野芽生・平岡直子の三人が参加している。もうひとつは「短歌の幻想、俳句の幻想」と題された生駒大祐・大塚凱・小川楓子・堂園昌彦の座談会である。いずれも自分が幻想的と判じた短歌・俳句を五首・五句提出し、それをもとに論じるという形式である。堂園は「八十岐の園」と題して、幻想短歌80首のアンソロジーを編んでいる。
しかし問題は何を幻想的ととるかである。これは人によって異なる。大森は「自分の身体から逃げ出すというか、現実の身体との距離感が遠いほど幻想と私は認識している」と述べて、自分の身体との距離感を幻想の基準に挙げている。一方、川野は「私は幻想というのは両目をカッと開いて対象を観察していく中でむしろ見えてくるものだと思う」と述べている。これは川野が挙げた「水中より一尾の魚跳ねいでてたちまち水のおもて合わさりき」という葛原妙子の有名な歌を念頭に置いたものだろう。しかし座談会でも発言があったが、葛原の歌は写実と見ることもできる。葛原が時に「幻視の女王」と呼ばれるのは、「昼しづかケーキの上の粉ざたう見えざるほどに吹かれつつをり」のように、ふつうは眼に見えないものを微細に描くためである。人間の感覚は不思議なもので、ハイパーリアリズムの絵画のように、画布全体に焦点が当たっていて超細密に描かれたものはかえって現実離れして見える。逆にベラスケスの描く紳士のレース飾りのように、遠くから見ると実に写実的に見えても、近くによってみると荒いタッチで描かれていることがある。
『広辞苑』によれば「幻想」とは、「現実にないことをあるように感ずる想念。とりとめもない想像」とあり、あまり要領を得ない。言葉の意味に迷うとき、一つの手は外国語にどう訳されているかを見ることである。試しに『ライトハウス和英辞典』を見ると次のように書かれている。
(夢うつつで見る理想的な幻想)vision
(正しそうに見えて実は誤っている考え・錯覚)illusion
(実現したいと考えている夢)dream
(気まぐれな空想)fancy
(夢のような途方もない空想)fantasy
このうちvisionは「幻視」に近い。フランス語でvisionnaireは「幻視者」という意味になる。上の方は現実ではないものを現実だと思い込んでいるという意味だが、下半分は現実ではないことを知りながら空想しているということになろう。
自分にとって誰が幻想的な作風の歌人かを考えてみるのも一興である。幻想と言われて私ならすぐに頭に浮かぶのは、まず松平修文、井辻朱美、水原紫苑の三人だろう。
床下に水たくはへて鰐を飼ふ少女の相手夜ごと異なる
松平修文『水村』
ねむくなりしひとが乗りこむ真夜中の電車は地下のみづうみへゆく
干涸びた赤い蠍をその髪にかざり土曜日のゆふぐれに来る
『夢死』
心臓が透明な男ヴィオロンをひきつつ冬の角を曲がりたり
井辻朱美『コリオリの風』
この映ゆい水晶のなかをあるくから大天使さえ風邪の目をして
『水晶散歩』
ノンシャランと夢を貌よりふりおとすとおいユラ紀の銀杏のカノン
胸びれのはつか重たき秋の日や橋の上にて逢はな おとうと
水原紫苑『びあんか』
白き馬うまに非ざるかなしみに卵生の皇子は行きてかへらぬ
方舟のとほき世黒き蝙蝠傘の一人見つらむ雨の地球を
ただしこの三人の歌人の中では幻想の分量と成分がいささか異なる。松平の歌に写実はほぼ皆無であり、その目が見つめるのは現実ではなく、脳裏に去来するほの暗い想念である。その意味で幻想が歌の主成分であると言える。一方、井辻の歌は幻想というよりファンタジーと呼ぶ方がふさわしい。ジュラ紀の恐竜や中世の騎士が登場する異世界に遊んでおり、その世界はRPGのように設定されたものである。水原の歌は、高野公彦が「現実と幻想の、どちらともつかぬ、そのあはひの簿明にあそぶたましひの歌」と評しているように、現実と幻想の「あはひ」、つまりその境界線あるいはインターフェイスにポエジーを求めるところに特徴がある。
この三人に加えて挙げたいのは大津仁昭、小林久美子、そして石川美南だ。
改札に君現はるるまでを待つそのまま死後の出会ひのかたち
大津仁昭『霊人』
水含み重なりあへる吸殻に涼しき君の初夏の霊
あふ向けに砂に埋もれて目をひらく少女とわれの睡り重なる
解剖台のうえのミシンと女郎蜘蛛 出糸腺からあふれだす歌
小林久美子『恋愛譜』
大熊座から降りてきた妖精ひと夜 若草いろにカーディガン手に
みずうみのあおいこおりをふみぬいた獣がしずむ角をほこって
茸たちに月見の宴に招かれぬほのかに毒を持つものとして
石川美南『砂の降る教室』
迷ひたる賢治に道を教へきと大法螺吹きの万年茸は
なにがあつたかわからないけど樅茸がいぢけて傘をつぼめてゐたよ
大津は歌集タイトルを見ても、『異民族』『異星の友のためのエチュード』『霊人』『爬虫の王子』と異世界のオンパレードである。小林はポエジーの発想の根元に空想がある。また石川は好んで物語の世界に遊んでいる。
最後に倉阪鬼一郎の『怖い短歌』(2018年、幻冬社新書)という本を挙げておこう。作者の目に怖い短歌と映ったものを集めたアンソロジーである。全部が幻想というわけではないが、幻想的な短歌も多く収録されている。酷暑の消夏によいかもしれない。
むらさきの指よりこの世の人となりこの世に残す指のむらさき
有賀眞澄
窓口に恐怖映画の切符さし出す女人の屍蝋の手首
江畑實
ちなみに同じ著者に『怖い俳句』(2012年、幻冬社新書)という類書がある。
思いがけなく長い文章になったので、「俳句と幻想はまったく馴染まない」ことを書く余裕がなくなった。