音立てずスープのむときわがうちのみづうみふかくしづみゆくこゑ
菅原百合絵『たましひの薄衣』
スープを飲む時に音を立てないのは西洋の作法である。日本には麺などをすする文化があるので音を立てがちだ。フランス人とラーメン店に行くと驚くが、彼らはほんとうに「すする」という動作ができない。スープを飲む時に音を立てない秘訣は、スプーンを顔と平行にするのではなく、口に対して直角に当てて流し込むことである。
それはさておき、作者はスープを飲むとき、自らの身体の裡に湖を感じるという。人体の70%は水でできているというが、これはそのような生物学的事実ではなく感性の問題だ。本歌集に収録されている歌には、外部を見る歌よりも、掲出歌のように自らの内部を凝視する歌が目立つ。これが紛れもない作者の個性である。
菅原百合絵(旧姓安田)は1990年生まれ。「本郷短歌会」「パリ短歌クラブ」などを経て「心の花」会員。『たましひの薄衣』は今年 (2023年) 2月に刊行された第一歌集である。版元は書肆侃侃房。栞文は水原紫苑、野崎歓、星野太。野崎歓は元東大教授のフランス文学者で、著者をフランス文学研究へと導いた人である。星野太は東大准教授の哲学者・美学者。菅原は東京大学文学部仏文科に学んだ18世紀フランス文学、特にジャン=ジャック・ルソーの研究者でもある。
思えば菅原の短歌に初めて接したのは『本郷短歌』創刊号(2012年)だった。菅原は本郷短歌会の立ち上げメンバーで、初代の代表幹事を務めている。余談ながら本郷短歌会の発足当時は俳人も歌会に参加していた。参加者の中には生駒大祐、藤田哲史、山口優夢、神野紗希らの名も見えて、今から振り返るととんでもない豪華さである。菅原は創刊号に次のような歌を寄せていた。
現し身が空蝉となるまでの間をいのちと呼びていとほしむのみ
雨降らば透くるたましひ いきものは色それぞれに淡くかがよふ
くちづけで子は生まれねば実をこぼすやうに切なき音立つるなり
をさな子に鶴の折り方示しをり あはれ飛べざるものばかり生む
花ひらくやうに心は開かねど卓にほつとり照るラ・フランス
上に引いた歌のうち三首目から五首目までは本歌集に収録されている。そして『本郷短歌』第三号には次の歌がある。この歌は本歌集の帯にも印刷されており、自分でも代表歌と見なしているのだろう。
ほぐれつつ咲く水中花──ゆつくりと死をひらきゆく水の手の見ゆ
これらの歌を作った当時菅原は東大の学部生だったはずである。それなのに歌の完成度の高さは驚きだ。創刊号に収録された座談会「作歌の原点、現在地」の中で菅原は、短歌を初めて作ったのはたぶん小学5年生か6年生で、当時三浦綾子の『氷点』にはまっていて、三浦の自伝『道ありき』を読みその中にあった短歌に深い印象を受けたと語っている。三浦の影響で最初から旧仮名文語で歌を作っていたということだ。文語による短歌作りには相当年期が入っているのである。
本歌集には、『本郷短歌』時代の歌や「心の花」に出詠した歌に加えて、ジュネーブ大学とリヨン大学に留学していた頃の歌も多く収録されており、読む人によっては異国情緒が感じられたり、無国籍と感じられたりするかもしれない。しかし実は今いる場所は菅原の歌にとってあまり重要ではない。リヨン大学時代の歌の多くはパリ短歌クラブの機関誌『パリ短歌』に発表されている。パリ短歌クラブは中心メンバーだった服部崇が帰国したためか、残念ながら解散してしまった。あらためてバックナンバーを見ると、昨年(2022年)の角川短歌賞を受賞した工藤貴響もパリ短歌クラブに入っていたことがわかる。
さて、菅原の作風は、端正な文語定型という文体を自家薬籠中のものとし、水・雨という主題の多さ、内面を見つめる眼差しの深度、そして光と影とが淡く交替するゆらめきによって特徴づけられると言えるだろう。次のような歌がそうである。
ひとを待つ道に葉叢はそよぎをり心弛みて末葉に手触る
雪なりし記憶持たねど氷片を置けばグラスに水のさざめき
午前から午後へとわたす幻の橋ありて日に一度踏み越す
この雨はシレーヌの嘆息 しめやかな細き雨滴に身は纏はらる
ちさき死の果てのおほき死 朝なさな薄氷破るやうに目を開く
一首目の「ひと」はもちろん恋人である。何かの理由で緊張していたのだろうか。緊張がほぐれて木の枝の先の葉に触れて手慰みをしている場面である。近年刊行される若手歌人の歌集には相聞が少ない印象があるが、菅原の歌には相聞がかなりある。二首目は軽い擬人化が施されている。元は雪だったというから、その氷は北極か南極の氷だろう。雪が圧雪され氷に変わるまでの長い時間が氷の中に閉じ込められている。作者が見つめているのはその時間である。三首目は情景のない歌でもっぱら想念の中から紡ぎ出されたものだろう。四首目のシレーヌは、その歌声で船乗りを引き寄せて難破させたというギリシア神話の怪物サイレンのフランス語読み。五首目には詞書きがあり、フランス語では眠りのことを「小さな死」(petite mort) と呼ぶことを踏まえた歌である。朝の目覚めは小さな死からの蘇りということだろう。
歌人には大きく分けて「人生派」または「生活派」の歌人と、「コトバ派」の歌人がある。どちらに属すかを見分けるのはかんたんだ。「人生派」の歌は言葉に過剰な負荷をかけないのでルビが少ない。一方、「コトバ派」が歌の抒情を汲み上げるのは日常生活ではなくコトバからなので、日頃あまり使わない単語を用いたり、ふつうの読み方以外の読み方をするので、勢いルビが多くなる。菅原はルビの多さからわかるように、コトバ派の歌人なのである。近頃はコトバ派の歌人が少なくなり、ネオ生活派が増えているので、菅原のような歌人は貴重だと言えよう。
文学や美術に想を得た歌が多いのも菅原の短歌の特色である。
その母はお針子なりきローランサンの灰青色の深きさびしさ
『フェードル』の焔なす恋たどりつつ聞けば総身にさやぐ葉桜
晩年のロラン・バルトの疲労に降り積もる雪の夜を帰り来ぬ
魂は水の浅きをなづさへりうつし身ゆゑにゆけざるところ
『ハドリアヌス帝の回想』読むたびに心に霧のごとき雨降る
ローランサンは日本でもよく知られた女性に人気のある画家である。『フェードル』は17世紀のラシーヌの戯曲。ロラン・バルトは『零度のエクリチュール』などで知られる文芸批評家。この歌では上句が序詞のように置かれている。四首目には「アンリ・マルタン『ため池のそばの少女』(Jeune fille près d’un bassin)」という詞書きが付されている。アンリ・マルタンは「最後の印象派」と呼ばれた画家である。昨年日本で「シダネルとマルタン」と題された展覧会が開かれた。歌の「なづさふ」は「水に浮かび漂う」こと。「魂」は菅原の好む語であり、この歌は詞書きを離れてもよい歌だ。『ハドリアヌス帝の回想』はマルグリット・ユルスナールの歴史小説。ユルスナールはフランス学士院(アカデミー・フランゼーズ)初の女性会員である。学士院会員はimmortel「不死の人」と呼ばれるのだが、ユルスナールの入会で初めて女性形のimmortelleが使われた。
各章の冒頭にエピグラフが置かれているのも本歌集の特色だろう。たとえばプルーストにちなむ「花咲く乙女たち」と題された章には、「その豊かな髪が流れの間に間にたゆたって、ひとつの波をつくり出している、波打つベレニス」というミシュレ『海』の一節が引かれている。ベレニスは女性の名で、ラシーヌの悲劇にもなっている。このような工夫をペダンチックと感じる向きもあろうが、菅原のようなコトバ派歌人がどこから詩想を汲み上げているのかがよくわかる。また見ようによっては、著者によって入念に選ばれた詞華集の花園を歩いているかのごとき様ともとれる。
目が合ひて逸らせばやがて舟と舟ゆきかふやうにさざなみ来たる
薔薇の花くれし日ありき思ひ出は右手でほぐして左手で散らす
掬ふときなにかを掬ひのこすこと〈ひかり〉と呼ぶと死ぬる蛍
一生は長き風葬 夕光を曳きてあかるき樹下帰りきぬ
水面から飛花が水底へとしづむ神のまばたきほどの時の間
人置かぬふらここひとつぶら下がり不在の在のかたち見するも
上に引いた六首の中に菅原の短歌世界を構成するほぼすべての要素が含まれていると言ってもよい。人と人とを結ぶ淡い波動、存在の意味を汲み尽くすことができないという諦念、生の一回性とその短さへの鋭い認識、などなどである。詠まれているのは実景の写実ではなく、作者の心象から紡ぎ出された象形である。五首目や六首目を読んでふと横山未来子の短歌の世界を連想した。確かに柔らかな言葉が生み出す律動の心地よい感覚に共通する手触りがある。横山の静謐な恩寵に満ちた世界はキリスト者としての信仰が支えとなっているのだが、菅原の短歌の世界を支えているのはおそらくは言葉への信仰だろう。短歌を読む喜びと短歌が与えてくれる慰藉を深く感じることのできる歌集である。