第346回 鈴木加成太『うすがみの銀河』

銀盆にひまはりの首級盛りて来る少女あれ夏空の画廊に

鈴木加成太『うすがみの銀河』


 鈴木は2015年に「革靴とスニーカー」で第61回角川短歌賞を受賞している。そのときは大阪大学文学部で国文学を学ぶ四回生の大学生だった。蛇足ながら関西では「四年生」ではなく「四回生」と言う。受賞作を巡って議論が沸騰することもある選考会では、審査員のうち東直子が◎、小池光と島田修三と米川千嘉子が○を付け、珍しくすんなりと受賞が決まっている。鈴木は何かに導かれるように高校生の時に短歌を作り始め、「NHK短歌」に投稿して2011年の8月第3週で一席を取り、その年の年間賞にも選ばれている。大学では阪大短歌会に所属して活動。修士課程(博士前期課程)を修了して就職し、「かりん」に入会し現在に到っている。『うすがみの銀河』は昨年 (2022年) 11月にKADOKAWAから刊行された第一歌集である。栞文は坂井修一、東直子、石川美南。装幀の川瀬巴水の夜景の版画が美しい。

 角川短歌賞受賞作の「革靴とスニーカー」は、就職活動中の大学生の日常が描かれており、見直してみると次のような歌に○を付けている。

やわらかく世界に踏み入れるためのスニーカーには夜風の匂い

水流も銀の電車もひとすじのさくらのわきを流れるひかり

二階建ての数式が0へ着くまでのうつくしい銀河系のよりみち

水底にさす木漏れ日のしずけさに〈海〉の譜面をコピーしており

 四首目の〈海〉はたぶんドビュッシーの交響詩「海」だろうから、オーケストラ部にも入っていたのだろうか。ちなみに私が学生の頃はゼロックスコピーが高価だし、パートごとの楽譜もなかったので、スコア(総譜)から五線紙に手書きで写していたものだ。ページをめくる所に休符を持って来るのが腕の見せ所だった。上に引いた歌は、若者らしい観念性はあるものの、短歌の王道を行く作りの達者な人だなと感じたことを思い出す。

 『うすがみの銀河』には受賞作を含む347首が章分けして収録されている。あとがきによると、第1章〜第3章までには大学を卒業するまでに新仮名遣いで作った歌が、第4章と5章には卒業・就職して「かりん」に入会した後の旧仮名遣いの歌が収録されている。ほぼ編年体だが、構成をし直した部分もあるようだ。角川短歌賞の選考会では、島田が「ちょっと文語を入れたらもっと締まるのにな、というのはこの人に一番感じた」と評しており、期せずして鈴木はそのような道を辿ったことになる。

 さて、鈴木の作風はというと、写実による生活詠という近代短歌の王道は右手で押さえつつも、左手では現実の知的処理と自由な空想を恐れずに盛り込んで、絶妙なバランスを実現しているというところだろうか。何より驚いたのは歌集全体を通じての抜群の安定感と歌の質の高さである。

エッシャーの鳥やさかなとすれ違う地下鉄メトロがふいに外に出るとき

夜のぬるいプールの匂い満ちてくる人体模型の肺を外せば

劇中葬から抜け出したように黒き傘ひらく共産党員の祖父

椅子高き深夜のカフェに睡りゆく銀河監視員の孤独を真似て

紙風船の銀のくちより吹き込みし息の翳りを手にささへをり

 歌集のあちこちからランダムに引いた。一首目は鈴木が得意とする現実の知的処理をよく表す歌。エッシャーはだまし絵の版画で名高い画家。この歌で触れているのは1938年に制作された「空と水1」という作品で、絵の下の方では魚が並んでいるが、その背景が上に行くに従って鳥の姿に変わるという版画である。図と地が反転するルービンの壺を時系列に沿って展開したようになっている。メトロが地上に出るのは、丸ノ内線の御茶ノ水駅か後楽園だろう。二首目は小学校か中学校の記憶が下敷きになっている。人体模型が置いてあるのは理科室で、人も知るように夜の理科室は怪しい空気に満ちているのだ。三首目、鈴木の祖父は鈴木が3歳の頃に忽然と姿を消したという。非合法活動のために地下に潜ったのだろうか。黒い傘にはルネ・マグリットの絵が見え隠れしている。四首目、椅子の高い深夜のカフェと言えば、それはネットカフェ以外にあるまい。銀河監視員はネットゲームと関係があるらしい。五首目は文語(古語)・旧仮名遣いに変えてからの歌。この歌のポイントは言うまでもなく「息の翳り」である。自分が吐き出した息に翳りがあることを見出している。

カーテンが光と風を孕むとき帆船となる六畳の部屋

立ち上がる一瞬野性を閃かせコンロに並ぶ十二の炎

缶珈琲のタブ引き起こす一瞬にたちこめる湖水地方の夜霧

ブラッドベリの名をつぶやけば火星より真赤き風の吹くゆうまぐれ

変声期ひと知れず終え少年の五線譜に無数のゆりかもめ

 上に引いた歌は、鈴木がどのように発想を遠くに飛ばして、その先からポエジーを掴み出しているかをよく示している。その骨法の中核は「見立て」であり、それは決して新しい技法ではなく古くからあるものである。一首目の風を孕むカーテンを帆に見立てるのは割とありふれたものだが、若書きのこの歌に作者の本質がよく現れている。自分が今いるのは狭い六畳の下宿か学生アパートの一室だが、そこから想像の翼を羽ばたかせることで今ここにはない虚空間へと手を伸ばす。するとカーテンがはためく六畳間と波を切って大海原を進む帆船とが二重映しになる。二首目ではそれはガスコンロの青白い炎と夜の森に咆哮する獣である。三首目では立ち上る缶コーヒーの香りが、イギリス湖水地方にあるウィンダミア湖に立ち籠める夜霧を呼び出す。四首目では名作SF『火星年代記』の作者ブラッドベリの名が虚空間への入口を開く呪文である。五首目では五線譜に踊る音符がゆりかもめに見立てられている。

 これらの歌に見られ見立ては、直喩や隠喩のような短歌でよく使われる喩とはいささか異なる働きをしているように感じられる。作者は右目で現実の生活空間を眺め、左目で想像上の虚空間を遠く見ているかのようだ。その様はあたかもネコに稀に見られる右目と左目の色が異なるオッドアイ(金目銀目)を思わせる。

 それが高じると次のような歌になる。

さくら夜桜芳一の耳召してくる若武者のごとき風とゆきあふ

官吏たかむら冥府の井戸をくだる夜もすいと照らしてゐしほしあかり

 一首目は怪談耳なし芳一の物語で、二首目は夜な夜な井戸から冥府に降りて地獄の閻魔大王に仕えたという小野篁の伝承がベースになっている。達者なものだが、ここまで来ると物語性が強くなりすぎて、近代短歌の試金石たる〈私〉がなくなってしまうとも考えられよう。

 付箋が山のように付いたので、その中から特に印象に残った歌を引く。

飛行士は夏雲の果てに睡り僕は目を覚ます水ぬるき夕べに

アパートの脇に螺旋を描きつつ花冷えてゆく風の骨格

街が海にうすくかたむく夜明けへと朝顔は千の巻き傘ひらく

悪夢のごとき火をたづさへて炎昼の街にアスファルト敷く舗装工

仏師の眼ほとけとなりて千年の雨を見てゐるけふも疫の世

うさぎの眼朱く点りて春雷より死よりとほくの野を知らずゐる

あをぞらを往く夏雲のほそき櫂見えざれば午后ねむき図書室

 私が驚いたのは次の歌である。

園丁の鋏しずくして吊られおり水界にも別の庭もつごとく

 鈴木は生駒大祐の句集『水界園丁』を読んでいたのだろうか。もしそうでなければ稀なる暗合と言うほかはない。本人に尋ねてみたいところだ。

 『うすがみの銀河』は爽やかな読後感を残す充実の第一歌集で、今後も語り継がれることだろう。