第364回 山科真白『鏡像』

鼻煙壺びえんこに悲しき魚は泳ぎゐて鳥より先に離りゆくらしも

山科真白『鏡像』

 鼻煙壺とは嗅ぎ煙草を入れる容器で、高さは10cmにも満たない中国の陶製のものが多い。形状や装飾の多彩さゆえ愛好家が多く、コレクションの対象となっている。私は大阪中之島の東洋陶磁器美術館で開催された陶芸家ルーシー・リーの展覧会を見に行った折りに、コレクターが寄贈した鼻煙壺の展示コーナーがありその存在を知った。掲出歌では鼻煙壺に魚と鳥が染め付けされている。並んで描かれた鳥よりも魚の方が絵の中から去るように思われたというのである。もとより絵の鳥や魚が動くはずもないが、歌の中の〈私〉はそのように感じる心持ちだったのだろう。鼻煙壺を詠んだ歌は初めて見た。そこに作者の言葉への拘りが感じられる。

 山科真白は「短歌人」と「玲瓏」に所属する歌人である。小説を故眉村卓に師事し、常藤咲ときとうさきという筆名で作品を発表しているという。『鏡像』は2019年に上梓された第一歌集で、存命だった眉村が帯文を寄せている。今回は2023年に出版された第二歌集『さらさらと永久とは』と併せて読んだ。こちらには塚本靑史が解題を書いている。

 小説は基本的にフィクション(虚構)である。虚構とはつまるところ嘘だ。嘘がなぜ人の心を動かすかというと、泥田に咲く蓮の花のように一片の真実がその奥に光っているからである。虚実皮膜という論もあるものの、小説の大部分は作者の想像力が生み出したものである。では小説を志す人が短歌を作るとどうなるか。勢い読者を虚の世界へと誘う歌となるのは必定だろう。

夢の戸を開ければ美しき夜のなかに孔雀が羽根をひろげゆくなり

ひつそりと象牙の塔にこもりたる博士の愛する鳥ぞせつなき

嘘吐きの八卦見はっけみより貰い来た極楽鳥花を窓際に置く

鳥偏の漢字を交互に書く遊び すみれいろのインク滴る

十字架を落とした夏のセーヌ川過去より速くみづは流れる

 巻頭の一連に「夢」という題が付されているのもむべなるかな。一首目は巻頭歌で、本歌集の基調となる旋律を低く奏でている。本歌集を開く人は夢の世界へ誘われると宣言しているのだ。虚である物語を構築するときは、意味性を豊富に身に纏った語彙が恰好の素材となる。二首目では「象牙の塔」と「博士」と「鳥」がそうだ。三首目の「八卦見」と「極楽鳥花」も同様である。極楽鳥花はストレリチアともいい、特異な形状と色彩が目を引く花である。名作アニメ「ダーリン・イン・ザ・フランキス」でも主人公が搭乗するロボットの名に使われていた。極めつきは四首目である。鳥を旁に持つ漢字は多くあるが、鳥偏の漢字は少ない。『大字源』(角川書店)で調べても、「鳦」(つばめ)「鴃」(もず)「鴕」(ダチョウ)「鵻」(こばと)など数えるほどしかない。まさに虚の世界に遊ぶ感がある。「ミラボー橋の下セーヌは流れ」と唄ったのはアポリネールだが、五首目にも強い物語性がある。

 文芸・芸術に題材を採った歌が多いのもまた、新たな扉を開くことを意図してのことだろう。

夢十夜目醒むるなかれ忽ちに百年過ぐと匂ひたる百合

亡き人の言葉の珠を呑み込めば乱れはじめる秋の眠りは

汝が脳に斧もて深く彫りこまむ打擲さるる百姓馬はも

必ずや望みの叶ふあら皮は要らぬと生きてけふも明日も

川端の「眠れる美女」に引かれゐる中城の歌、夜のきざはし

 一首目の「夢十夜」は幻想味の強い漱石の短編集。花瓶に活けた百合の匂いは夜に強まる。二首目は澁澤龍彦を詠んだ歌。澁澤は晩年病によって声を失った。それを真珠を呑み込んだせいだと見立て呑珠庵と号した。「ドンジュアン」はフランス語のドンファンのDon Juanに通ずる。澁澤の忌日を呑珠庵忌という。三首目はドストエフスキーの『罪と罰』に、四首目はバルザックの『あら皮』に寄せた歌。五首目の背後にある経緯は栞文で中地俊夫が解説している。川端康成は中城ふみ子の『乳房喪失』の序文を書いている。その縁からか、『眠れる美女』に中城の「不眠のわれに夜が用意してくるるもの がま・黒犬・水死人のたぐひ」という歌を一首引いているという。これらの歌に登場するラインナップを見ても、山科が虚数の世界を描く幻想的な作風の作家に惹かれていることは明らかである。

 しかしながら本歌集を最後まで読むとそれだけではないことがわかる。作者は結婚した妻であり、二人の男の子を持つ母である。集中には次のような子供を詠んだ日常詠もある。ここには虚の欠片もない。

吾の子は魔法を知らぬ白球は真直ぐに飛んで落ちてゆくなり

水仙を活けた部屋から聴こえくる吾子のショパンはフォルテに向かふ

 歌集題名は「鏡像にいつはりなきや吾の奥の永久とはに触れよとかひなを伸ばす」という歌から採られている。鏡に映った自分はほんとうの自分なのかと自問している。鏡に映る私は日々の暮らしを送り、夫と子供を持つ私である。しかし創作に打ち込んで虚の中から真実をつかみ出そうともがく私は目には見えないその奥にいる。どちらがほんとうの私なのだろうかと問うているのである。この歌に続いて次のような歌が置かれていて、その意味するところは説明を要しない。

(Hといふをんな 日常のわたし)

肉体を苛め抜きたるレッスンを終へてバレエのシューズを脱ぎぬ

(Mといふをんな 歌を詠むわたし)

脚韻を踏みて秋立つゆふぐれは小鳥のごとく歌を交わさむ

 第二歌集『さらさらと永久とは』は「玲瓏」に入会してから以後の歌を収録しているという。

詩画集を抱きて歌ふ火の匂ひくちなはのごとせまりてきても

廃船の千の足音曳きながら雲はちぎれて夏へと向かふ

禁といふ字をちひさき石に彫り篆刻教室ゆふぐれに閉ず

さびしらに白百合の香と抱いてゐる球体関節人形マリア

藻のあはひ鯰もひそむ襖絵の墨にも息あり夜の屋敷は

鐵舐てつなぶるのちに知りたる玻璃はり売りが罅入ひびいりグラスに注ぎゆく比喩

寓言と真珠をのせてこの夏は釣り合つてゐる金の天秤

ゆつくりと複式呼吸を繰り返しひそかにふかき乳糜槽にゅうびそう撫づ

 第一歌集を上梓してから長い中断があったのは作者に迷いがあったからだろう。しかし第二歌集にもはやその影はない。進むべき道を見定めたからであろう。二首目の廃船の跫音は空に轟く美しい幻想である。三首目は近傍に置かれた歌から三島由紀夫の『禁色』を踏まえた歌だとわかる。四首目の球体関節人形は天野可淡の作だろうか。五首目の鯰の襖絵は四条派の筆になるものか。八首目の乳糜槽とは、臍の少し上にあるリンバ節だという。初めて知った。どの歌にもどこまでも深く入って行きたくなるような奥行きがあり、読む人の想像力をいたく刺激する。なかなか眠りが訪れない熱帯夜の夏の夜に読むといいかもしれない。