第371回 吉村実紀恵『バベル』

リヤドロの陶器人形たおやかに諫死しており書架のくらみに

吉村実紀恵『バベル』 

 リヤドロはスペインの高級陶器メーカー。この少し前に「われよりも永きいのちをヤフオクで落札したり陶器人形」、「陶製のうなじは潔し恋に恋せし少女期の忌として置かむ」という歌がある。ヤフーオークションでリヤドロの陶器人形を落札し、恋に恋した昔の自分への戒めとして自室の書架に置いているのだ。それなのにまた先の見えない恋をしてしまった。陶器人形の冷たい目を見ていると、まるで諫死しているかのようだと詠っている。諫死とは、死を覚悟して王や皇帝をいさめることを言う。それでいて人形の姿はたおやかである。何かを見つめる眼差しが自分に返ってくる自己省察の深さがあり、それなりの人生経験を積んだ人にしか持ち得ないものだろう。

 吉村実紀恵は1973年生まれ。大学生の時に同人誌「解放区」に参加して歌作を始め、1997年の第40回短歌研究新人賞において「ステージ」で次席に選ばれている。そのすぐ後に第一歌集『カウントダウン』(1998年)、第二歌集『異邦人』(2001年)と矢継ぎ早に歌集を上梓した後、短歌の世界を離れている。その経緯は本歌集のあとがきに率直に記されている。

 グローバルな世界で働いてみたいとの想いから自動車メーカーに転職し、10年の間ビジネスの最前線で活躍する。「海外出張に行くことになった日の夜、空港の煌めく滑走路と、離着陸する機体を眺めながら、ようやくここまで来たという達成感に浸っていました」という言葉が当時の高揚感を物語っている。40歳を迎え思うところあって短歌の世界に戻り、「中部短歌会」に所属。『バベル』は2024年に上梓された第三歌集で、栞文は東直子が寄せている。

 第三歌集とはいうものの、前の歌集から22年の時が流れており、結社も変わり歌風も大きく変化しているので、新たな出発の歌集と捉えた方がいいだろう。というのも第一歌集『カウントダウン』はロック音楽に傾倒していた荒ぶる青春像を描いた歌集で、とても同じ作者の歌とは思えないほどだからだ。

 本歌集を通読して私が感じたのは「言葉の強度」ということである。それは何も激しい言葉遣いをするということではない。ややもすれば平板になりがちな日常言語を詩の言語へと昇華する言葉の強さというほどの意味だ。だらっと横に広がりがちな日々の言葉を、一行の詩へと直立させるにはどうすればよいかということである。

 比較的作者の顔が見える第II章から見てみよう。この章には仕事にまつわる歌が多く収録されている。

ものづくり神話の終わりゆくさまを見届ける一兵卒なりわれは

ものつくる心は知らず颯爽と〈ガイシ〉に集う若きエリート

力みつつ在庫管理を説くわれは時おり胸の社章たしかむ

灯を消せばあかるむ一脚の椅子ありき 貴女もロスジェネを生きしともがら

氷河期もリーマンも耐えて現在いまあるとグラスに移して飲むレッドブル

 一首目は自社開発を諦めて他社製品を使うことを決めた会議での感慨である。かつて日本はものづくり大国と言われていたが、新興国に押されて昔日の面影はない。二首目の〈ガイシ〉は外資系企業で、その多くは金融やITでものづくりとは無縁だ。三首目は海外出張して現地法人の従業員にレクチャーしている場面。自分は会社の代表としてここにいるという責任感が滲む。作者は就職氷河期と言われた時代に大学を卒業したいわゆるロスト・ジェネレーション、略してロスジェネ世代にあたる。就職氷河期、バブル経済崩壊、リーマンショックと続く厳しい時代を生きた世代だ。それなりの自負もあるだろう。五首目のレッドブルは「翼をさずける」というキャッチコピーで知られる栄養ドリンクで、残業して働くサラリーマンの必需品である。自らの置かれた立場を外から冷静に眺める視線を持つ良い職業詠だが、特に吉村ならではの個性というものはない。

 栞文で東が取り上げている身体性を表す歌を見てみよう。

何をもて天与の性と和解せむ遂にいのちを産むことなくて

海とひとつづきとならむ抱擁に肌をさすらうあまたの水母

水底にしづもれるごと抱き合えり君を鎧えるものを剥がして

人間の味するらしと柘榴食む惰性で愛を交わしたあとに

鳥の羽ほどの重さでうえになる君の心音にふるえるほどの

 子を成さぬ女性であることへの想いを詠う一首目、抱擁された体の感覚を無数の水母に喩える二首目、愛を交わすことを水底に沈むようと詠う三首目、交情の後の懈怠を柘榴に喩える四首目、自らの身体を鳥の羽に喩える五首目。いずれも女性の身体性と大人のエロスを詩的な言葉で表現している。このような歌も東が言うように、歌人吉村の個性を表すものと言えるかもしれない。

 しかしより注目に値するのはもう少し観念性へと傾いた歌群で、そこには生と死の相克を巡る思念が貼り付いているように感じられる。

死者もろともに抱かれているのかもしれずそのまなざしの遙けさゆえに

手を取りてふたり迷えり終着はされこうべ吊されて鳴る森

しらほねをこの世に座礁した船と思えばかなし海に降る雪

そばにいてくれればいいと来世まで自殺を延期し続けるひと

あの世よりこの世に流れ込むごとしエンドロールに亡き人の名も

次の世もおんなでありたし生と死の境に赤い口紅を置く

 どこかに近松の情死の道行きの音が遠くに響いているような歌である。たとえば五首目、映画が終わるとキャストやスタッフの名前を延々と連ねたエンドロールが流れる。その中にはもうすでにこの世にいない人の名も含まれている。この世とあの世はそれほど隔絶した世界ではなく、その境界はふと跨ぎ越すものかもしれない。そんな「人間の条件」に冷徹な眼差しを注ぎ、六首目ではその境界に女性の象徴であるルージュを置くと決然と詠っている。

庇護の手をふりほどきわが見上げたる空の高みに雲雀うしなう

かなしみの核に柘榴を実らせて拾うほかなし神の布石を

執拗に果肉をつぶす先割れの匙にいびつな顔をひろげて

純血の馬馳せゆかむ空のはて少年院は取り壊されて

 日常言語を詩の言語へと昇華させる言葉の強度を特に感じるのは上に引いたような歌群である。具体的な出来事や情景が詠まれているのではない。しかし歌の背後に重大な体験や大きな感情の揺れがあったことが想像される。それらをそのまま言葉にするのではなく、抽象と思弁の水準へと転轍することによって、言葉による短歌の美を実現しているように感じられる。このような歌に特に吉村の個性を見たい。 

閉園のチャイムに押されて歩き出すゆうぐれの血をもてあましつつ

 動物園の閉園間際の光景である。作者が特に好む時間は夕暮で、好みの風景は残照らしい。歌集題名のバベルは猥雑な東京のことだろう。東京を詠んだ都市詠にもよい歌が多い。

欠番の第VI因子によるものか血を吹くほどのかなしみあるは

 人間の身体には出血を止める働きが備わっている。血液の凝固には全部で12の因子が知られているが、そのうち第VI因子は欠番となっている。つまり番号は振ったものの存在しないということだろう。だから第VI因子が欠番だから出血が止まらないということは実はない。しかしそう思えるほど身体から悲哀が噴き出すのである。

 本歌集の装幀はまさに鮮血のような深紅である。歌集のどのページを開いても血が滲むように感じられるのは、まさに言葉の強度によるものだろう。