100:2005年4月 第3週 「〈私〉の反照 歌ことばはどのように〈私〉を照らし出すか」

短歌における〈私〉問題

 BLEND第8号に高橋みずほが「短歌形式における『われ』の表現パターン」という文章を寄せている。その冒頭にこんなくだりがある。
 「短歌を作り始めたころ、感情や思いの丈を直接言葉にしていた。その重さに疲れていたとき、ふと『われ』を取ってみた。なぜ三十一文字しかないのに二音分の、作り手自身を指す『われ』を入れるのだろうかと思っていたので、躊躇せずに取れすっきりとしたのを覚えている。その後、短歌はわれを中心にして書いてゆくものといわれたが、もう重たさに戻ろうとは思わなかった。『われ』を記述しなければ本当に短歌ではないのだろうか、『われ』に限定することだけが表現なのだろうかという疑問もあった」
 この短い引用のなかにはいくつか重要な問題点が含まれている。第一に、作り手自身を指す「われ」(吾でも私でもよい一人称代名詞)という文字を歌に入れることが本当に〈私〉を詠うことであり、「われ」の文字を入れなければ〈私〉を詠うことににならないのかという疑問がある。第二に、「短歌はわれを中心にして書いてゆくもの」というときの「われ」とはどのような位相の「われ」なのだろうか。短歌は私性の文学であると言われてきた。しかしそう言うときの〈私〉の位相が必ずしも単相的でないことは、前衛短歌をめぐる私性論争があぶり出した事実である。

 花に埋もるる子が死顔の冷めたさを一生(ひとよ)たもちて生きなむ吾か  五島美代子

 亡き人のショールをかけて街行くにかなしみはふと背にやはらかし  大西民子

 水銀の如き光に海見えてレインコートを着る部屋の中  近藤芳美

 アパートの隣りは越して漬物石ひとつ残しぬたたみの上に  小池光

 歌のなかの「われ」が一見して明らかな歌二首と、それほど明らかでない歌二首をあげた。五島の歌は子供の死を慟哭する歌であり、一首全体に漲る悲しみの一人称性は紛れもない。それは結句の「生きなむ吾か」でダメ押し的に表現されている。大西の歌は数少ない身よりであった妹の死の後に詠まれたもので、ここに「われ」の文字こそ見えないが「街行く」が補うことを要求する主語は〈私〉であり、「やはらかし」と感じたのもまた〈私〉以外ではなく、この歌もまた濃厚な一人称性が明確である。

 これに対して、近藤の歌には五島や大西の歌と比較して、一人称の過剰な充溢が感じられない。「レインコートを着る」の補うべき主語は〈私〉だが、この〈私〉はそれほど歌の前面に出ているわけではない。また小池の歌になると、ひとつの情景だけが事実として即物的に投げ出されており、歌のなかに〈私〉の痕跡を指し示すような言語表現を見いだすことはできない。しかしだからといって、五島と大西の歌が〈私〉を詠った歌で、近藤と小池の歌はそうではないと単純に言い切れるものだろうか。そう言い切れないところに、短歌と〈私〉をめぐる問題の複雑さが隠れている。

エコロジカル・セルフ

 「きこりが、斧で木を切っている場面を考えよう。斧のそれぞれの一打ちは、前回の斧が木につけた切り目によって制御されている。このプロセスの自己修正性 (精神性) は、木―目―脳―筋―斧―打―木のシステム全体によってもたらされる。このトータルなシステムが内在的な精神の特性をもつのである。ところが西洋の人間は一般に、木が倒されるシークェンスを、このようなものとは見ず、『自分が木を切った』と考える。そればかりか、”自己”という独立した行為者があって、それが独立した”対象”に独立した”目的”を持った行為をなすのだと信じさえする」
          G.ベイトソン『精神の生態学』
 短歌の多くは何かの情景を詠んでいる。例えば椿の花がポトリと落ちる情景である。ここには椿という「対象」があり、落下という「現象」がある。「対象」と「現象」をまとめて手短かに「世界」と呼ぶ。椿の花がポトリと落ちた情景を歌に詠むためには、その情景を知覚した主体がどこかになくてはならない。それは現実に椿の落花を目撃した主体でも、過去の記憶を呼び出している仮想的主体でもよい。次にそれを歌にするには、現実の、または想像上の知覚を言語化する主体が必要である。このように、短歌が成立する要件として、「世界」―「知覚主体」―「言語化主体」という3つのエージェントの連鎖があり、それぞれの間に相互行為が成立しなくてはならない。

 もしこのような考え方が正しければ、情景を客観的に描写しただけに見える写生歌においても、知覚主体である一人称の〈私〉は存在していることになる。

 瓶にさす藤の花ぶさみじかければたゝみの上にとゞかざりけり  子規

 近代写生歌のお手本とされる子規の歌に、言語的に表現された「われ」はない。しかし「藤の花ぶさ」を「短い」と判断したのは、それを見ている一人称の〈私〉である。また「畳の上に届かない」という観察もまた〈私〉のものであるのみならず、これは脊椎カリエスを患って仰臥漫録の日々を送る子規の床の中からの観察である。床に伏して畳すれすれの低い視線から見たからこそ、「畳の上に届かない」という観察が可能なのである。このように観察内容は〈観察者〉の視点をあぶり出す。子規の歌には言語的に表現された「われ」はないが、観察の前提となる視線によって〈私〉は照らし出される。

 ジェームズ・ギブソン (1904-1979)によって創始された生態心理学は、このように〈私〉があぶり出される機序について、有益な知見を提供してくれる。生態心理学の考え方によれば、環境の知覚と自己の知覚は相補的であるとされる。たとえば、新幹線に乗って窓から外の景色を眺めている場面を考えてみよう。車窓から見える景色が早い速度で後方に流れて行くとき、〈私〉は早い速度で前方に移動している自己を知覚する。景色の流れる速度が遅くなれば、駅に近づいて減速している自己を知覚する。このように自己の移動知覚は環境の「見え」の知覚によって成立する。ギブソンはこれを「世界を知覚することは、同時に自己を知覚することである」と表現している。

 またこの知覚が感覚器官が外界から刺激を受容するという受動的知覚でないことも重要な点である。私たちは目隠ししていても、手でボールに触れて輪郭をなぞることで、ボールが丸いということを知覚できる。ところが手を台に固定された状態で、第三者がボールを私の手に触れさせると、私は自分で手を動かしたときと同じ触知覚を得るにもかかわらず、ボールが丸いということを知覚することができない。知覚主体である私にとって、自分で手を動かすという能動的行為が知覚の成立にとって不可欠なのである。すなわち私は能動的探索者として世界に向かうことによって知覚が成立し、それと相補的に自己の知覚もまた成立する。ギブソンはこのことを「環境に埋め込まれた自己」と表現し、これをエコロジカル・セルフと名づけた。

 短詩型文学の問題を考える私たちにとって大事なのは、「環境に埋め込まれた自己」という私たちの有り様が、言語に直接的に反映されているということである。

 (1) Peter is sitting across the table.

 この文の意味が成立するためには、ピーター君が「テーブルの向こう側に座っている」と知覚する視座が必要であり、それはふつう〈私〉である。観察する視座がなくては「向こう側」という位置関係は成立しない。したがって(1) は言語的に表現されない〈私〉の知覚を表現した文であり、その知覚は「テーブルのこちら側」に座っている〈私〉の自己知覚と相補的である。

「表現されない〈私〉」の主観性

 上にあげた(1)の文は次のように表現することもできる。

 (2) Peter is sitting across the table from me.

 ここには知覚主体である〈私〉が一人称代名詞 me によって言語的に表現されている。ところが同じ意味のように見える (1) と (2) は使用条件が異なる。ピーター君も私も出席していたパーティーの写真を後日見ながら話している場合、(2) だけが可能であり(1)は使うことができない。これはなぜだろうか。

 (2) の文は写真にピーター君も私も写っているときにのみ使うことができる。そのとき me と表現された私は、写真に映像として写り込んでいる私であり、環境世界を知覚している〈私〉ではない。つまり環境に埋め込まれたエコロジカル・セルフではない。私はその文に表現された知覚の主体でないときに限り、言語的に表現されることができる。このとき成立する文は世界に関する構造的記述であり、誰にとっても同じものとして理解できる公共化された内容となる。

 これにたいして (1) の文は、表現されていない知覚主体である〈私〉の目から見た世界であり、この文の内容はエコロジカル・セルフとしての〈私〉の視点から眺められた世界である。生態心理学ではこの事情を、「エコロジカル・セルフとしての〈私〉は〈見え〉の中には含まれない」と表現している。上にあげた新幹線で移動している例では、〈見え〉である車窓に流れる風景のなかには〈私〉が含まれていなかったことを思い出そう。

 さて、(1)と(2)とを較べたとき、どちらがより「主観的」な表現だろうか。(1) は見ている〈私〉の視点に立たなければ見えない世界であり、(2)は誰にとっても同じ公共化された世界である。だから(1)の方がより主観的な表現だと言わざるを得ない。このことは「〈私〉が言語的に表現されないときの方がより主観的である」という逆説的な結論に私たちを導く。

 このことは日本語の感情表現について確かめることができる。

 (3) 私はうれしい。
 (4) うれしい !

 感情の主者である「私」の言語的表現は任意である。しかし、うれしいという感情を強く感じているその場においては、(4)のように「私」を表現しないのがふつうであり、より感情吐露的性格が強くなる。これにたいして (3) のように「私」を表現した場合、文の伝える意味合いは説明モードであり、「このバラは赤い」という客観的報告に限りなく近くなる。

観察点の公共性

 エコロジカル・セルフが関係しない Peter is sitting across the table from me. 型の表現と較べて、エコロジカル・セルフの直接的知覚を表現する Peter is sitting across the table. は限定的で、特定の視点から見た世界像である。だとするならば、これは〈私〉にしか見えない極私的な世界であり、他人が共有することはできないのだろうか。私は他人には通じない私だけの世界に閉じこもっているのだろうか。いやそうではない。

 私が座っているテーブルのこちら側の席に、もしあなたが座ったとしたならば、あなたは私と同じ知覚を得ることができ、 同じように Peter is sitting across the table. と表現することができる。これを「観察点の公共性」と呼ぶ。知覚主体は固定されているわけではなく、環境世界のなかを自由に動き回り能動的探索活動を行なうとされている。であるならば、あなたが移動して私が今いる位置にやって来たとき、私と同じ知覚を得るだろうことは、私には十分推測可能な根拠のあることである。

 より言語の側に問題を引きつけて考えると次のようになる。私が Peter is sitting across the table.と発話するとき、私は言語表現によって私の知覚内容を伝えているのであり、その行為を通じてあなたに私と同じ観察点に立つことを要請しているのである。そしてあなたに対するこの誘いは、言語そのもののなかに塗り込められているという点に注意すべきだろう。私は「私と同じ立場に立ってください」と口に出してあなたを誘う必要はない。なぜならば「月が饅頭にように丸い」と私が言うとき、この発話はエコロジカル・セルフとしての〈私〉の知覚を表現しているだけではなく、観察点の公共性を経由して、「あなたにも知覚可能な事態」を表現しているからである。「コトバが意味を伝える」ということは、このことを措いて他にはない。

 鶏頭の十四五本もありぬべし  子規

 鶏頭が十四五本あったという事実のみを詠んだこの俳句がなぜ俳句として成立するかを、金子兜太は次のように説明している。

 「鶏頭に着目した時点では、子規に自己の存在感は意識されていなかったかも知れないが、鶏頭を見、その存在感を知ったとき、逆に子規の存在感の自覚を促していたのである」(『短詩型文学論』)
 三枝昂之はこれを受けて次のように書いた。

「ここでは叙述が終った瞬間に、あたかも堅い壁にぶつかるように前のすべての言葉に反作用を及ぼし、それらの客観的な言葉をすべて主観的なものに転化しつつ、主観と客観が共鳴しあうものとして、定型空間は見事な反転力の機能を果たす」
        (『現代定型論 気象の帯、夢の地核』)
 なぜ鶏頭の存在感が〈私〉の存在感の自覚を促すかは、「世界の知覚と自己の知覚は相補的である」という生態心理学の仮説によって、もっともよく理解できるだろう。そして重要なことは、この知覚の相補性が言語のなかに塗り込められているということである。私が「鳥!」と発話するとき、私は鳥の知覚を表明すると同時に、鳥の存在に気づいた自己知覚も表現するのである。

 歌のなかに「われ」が言語的に表現されている歌が主観的で、表現されていない歌が客観的だというわけではない。真相はむしろ逆である。〈私〉の存在の痕跡を言語表現から消し去ることによって、歌の描く世界がすみずみまで〈私〉の見たものとなる。この逆説こそが短詩型文学において〈私〉を照らし出す反照の機序に他ならない。

【付記】

 生態心理学は今日ではアフォーダンス心理学と呼ばれている。詳しいことは次の文献を参照してください。私のネタ本です。
  • 佐々木正人『アフォーダンス 新しい認知の理論』岩波書店
  • 本多 啓『アフォーダンスの認知意味論』東京大学出版会