〈時〉翳る半球のかなた血のごとく
鯉沈みゐる小さき国よ
米川千嘉子『一夏』
鯉沈みゐる小さき国よ
米川千嘉子『一夏』
『短歌ヴァーサス』6号に穂村弘が連載中の「80年代の歌」におもしろいくだりがある。80年代にまだ20代だった穂村たち若手歌人にはいろいろなキャラの人がいたが、そのなかで「学級委員」は誰かというと、男子では適当な名前が思いつかないが、女子ではまちがいなく米川千嘉子だという。エキセントリックな個性がごろごろしているクラスをまとめるには、勉強ができるだけではだめで、先生にも一目おかれ、クールなまなざしで不良をもたじろがせるくらいでなくてはならない。この力量があるのは米川だというのである。
米川千嘉子は1959年生まれで、「かりん」に所属。「夏樫の素描」50首で1985年に角川短歌賞を受賞。その後、第一歌集『夏空の櫂』(1988) で現代歌人協会賞、第二歌集『一夏』(1993)で河野愛子賞を受賞。第三歌集『たましひに着る服なくて』(1998)、第四歌集『一葉の井戸』(2001)と続き、第五歌集『滝と流星』(2004)で若山牧水賞を受賞している。着実な歌集の出版と数々の受賞歴を持つ名実共に実力派歌人である。
掲載歌は米川が夫君に同行して米国で暮らした頃の歌。時間の翳りのなかで地球の裏側で沈む国とはもちろん故国日本に他ならない。同じ歌集に「苦しむ国のしづかにふかき眉としてアイリッシュアメリカンゲイの列ゆく」という歌もあり、アメリカと日本に注ぐ米川のまなざしの深さと批評精神をよく表わしている。
なぜ米川が「学級委員」なのかというと、「わがまま派」の多い穂村たちの世代のなかにあって、米川は古典を受け継ぎ端正な短歌を作るという道を歩んだからである。第一歌集『夏空の櫂』出版の前の年の1987年には、俵万智の『サラダ記念日』が世に出てサラダブームが起きている。同じ年には加藤治郎の『サニー・サイド・アップ』、やや遅れて1990年には穂村の『シンジケート』が出版されている。現在の歌風とは異なるが荻原裕幸も『青年霊歌』で米川と同じ1988年に世に出ていることを考えると、主な顔ぶれが打ち揃った感がある。こんななかで、ライトヴァースなどどこ吹く風と言わんばかりの米川の古典調は目立たずにはおられない。
たとえぱ『夏空の櫂』には次のような歌が並んでいる。
いかなる思慕も愛と呼びたることなくてわれの日記は克明なりき
名を呼ばれしもののごとくにやはらかく朴の大樹も星も動きぬ
現代に若く生(あ)れたる感傷を聞きをり葡萄食みて憎みて
ひるがほいろの胸もつ少女おづおづと心とふおそろしきもの見せにくる
端正な文語律、瑞々しい感性、清新な相聞と、これだけ揃えば「学級委員」の呼び名もふさわしいと言えるだろう。大塚寅彦の『刺青天使』(1985年)、中山明の『愛の挨拶』(1989年)、やや遅れて林和清『ゆるがるれ』(1991年)など、古典の知識に立脚した文語律を駆使する若手歌人は、90年代の初頭を最後に途絶えた。関川夏央によれば、文学が教養の座からすべり落ちたのは70年代初頭だという。また江藤淳が「文学がサブカルチャーに低迷しつつある」として文芸時評の筆を折ったのは1978年である。仮に1975年あたりを分水嶺とすると、当時米川と中山は16歳、大塚は14歳、林は13歳となる。早熟な16歳ならば文学に読みふける年齢である。ここらあたりまでが教養のセーフラインということになるのだろうか。この変化には、改訂を重ねた文部省(当時)の学習指導要領も関係があるかも知れない。
『文藝』〔河出書房新社〕2004年冬号に穂村弘が「『想い』の圧縮と解凍」という文章を書いている。そのなかで、短歌の理解が一般に難しいと思われているのは、書かれた情報に圧縮がかかっているからで、読者は読みの過程で圧縮された情報を解凍しなくてはならない、という趣旨のことを穂村は述べている。ここで言う「圧縮」と「解凍」は、パソコン上で行われる作業をさす用語を借りている。確かにその通りなので、圧縮が短歌の生命であると同時に、読みの過程で解凍するなかで大きな世界が広がってゆく感覚こそが、読者として短歌を読む最大の喜びである。ただし、圧縮にも解凍にもある種の約束事があり、それなりの技術が必要である。今の若い人たちにはこのハードルが高すぎるように感じられるのだろう。いわゆる口語ライトヴァースは一般に圧縮率の高くない短歌をいうのだが、上に引用した歌からも推測できるように、米川の歌の圧縮率は相当に高い。この点もまた、80年代に登場した若い歌人の作風と比較して、米川がひとり独自の道を歩いていると感じられる理由である。
正直に白状すると、私にもときどき解読しあぐねる歌がある。次のような歌がそうである。
ある日醒めし桜はおのが鼻目さへ喰ひてしろがねの虚無になりゐつ 『一夏』
時間(とき)の草炎えながら伸び母と子が永遠に忘るる青き機関車
六月は断崖となる梢よりはげしく落ちぬそらいろの卵
『たましひに着る服なくて』
なぜ圧縮率が高くなるかというと、米川の歌には比喩、ことに直喩が少ないのがその理由のひとつかと思われる。陳腐な例で恐縮だが、わかりやすい直喩の「お盆のような月」から「お盆の月」を経由して、「月の盆」と徐々に圧縮率が増す。このような技術は上に引用した歌にもほの見えて、例えば「時間の草炎えながら伸び」は、「時間がまるで草が燃えるように怖ろしい勢いで過ぎてゆき」と読み解けばいいのだろう。一首目の「ある日醒めし桜」は桜の開花のことをさしているのだろう。三首目はもっと難解で、「そらいろの卵」は空の青の比喩かとも思うが、はなはだ自信がない。かくのごとく米川の短歌の圧縮率は高いのである。
ついでにもうひとつ指摘しておくと、米川の歌には動詞が多い。一般に短歌一首には動詞は最大3つまでと言われているようだが、それを超える歌もある。
みづあふれ子どもは生まれみづは閉ぢこの子どこかへかへりたさうで
『たましひに着る服なくて』
ほのかに滅びそめて愛のみありありと生きる頭を抱きおそれたり
蝉よ黒髪をもつごと啼きいでて淡からず死者に過ぎし一年
叱りて叱りて庭に出づれば地下茎は隣の垣をとうに越したり
動詞は意味上の主語を必要とするが、短歌では省略されることが多い。例えば4首目の「叱りて」の主語は「私」、目的語は「わが子」で、これはまあわかりやすいが、もう少し複雑な例になると解読に時間がかかる。これもまた圧縮率を高める結果となる。
さて、米川の歌の内容はと言えば、結婚・出産・渡米生活・子供の成長・父親の病気と死と、個人的生活の出来事を歌にしていながら、ありがちな生活詠・日々の歌・短歌形式の日記に堕していない。それはおそらく、出来事の本質を見据えて感情に溺れることなく、批評的精神を失わない目が米川にあるからだろう。
生き方はタチツボスミレの株のごと宴(うたげ)の女友達分かつ 『一夏』
蔑(なみ)されて美(は)しき東洋黒馬の踏みたつごときSUSHI・BARの椅子
〈電極をつけたるあたま〉花の日にあらはれて深く何かをこはす
『たましひに着る服なくて』
昭和ののちとふ無辺の青のさびしさをこゑ上げながらゆく凧(いかのぼり)
〈誰もが光る〉と書かれた学校大枯野どこでむすこは光つてるゐのか
鬱金のアイスクリームといふものを食み細目して見る〈人生の午後〉
一首目、女友達が同窓会か何かに集まっているが、それぞれの生き方はすでに截然と分かれている。これは単なる観察ではなく、米川には自分には自分の生き方があると心中考えているのだろう。二首目は滞米中の作品だが、ヘルシーフードブームで雨後の筍のごとく出現したSUSHI・BARの黒い椅子を、黒悍馬になぞらえている。「蔑されて美しき」に海外生活者特有の心理的屈折が鋭い。三首目は、オウム真理教事件に題材を得た作品だが、「深く何か」には事件を少数の狂信者のものと片付けない視点がある。他にも「解体するため一丸となりて出家せるおそろしき量感あり〈家族〉」という歌があり、オウム事件を家族という視点から詠んだところが新鮮に感じられる。四首目は昭和が終り平成の世となった時代を詠ったもので、時代が次第に明確な顔を失ってゆく感慨がある。五首目、「誰もが光る」という学校の標語にもかかわらず、学校は大枯野という皮肉には作者の苦い認識が感じられる。六首目、鬱金はカレーの香辛料としても用いられるターメリックと同じで、鮮やかな黄金色だが味は苦い。人生の午後は目を見開いて眺めるものではなく、細目して見るものであり、熟れた果物のように見えるかもしれないがその味にはかすかな苦みが混じっている。
感動をストレートに詠うのではなく、いったん立ち止まって反省的にものごとを捉えてから表現する。このような態度が米川の歌のなかに、韻律に身を任せてクレッシェンドに詠い上げるのではなく、ややもすれば複雑に折れ曲がるような陰影を与えているのだろう。
米川千嘉子は1959年生まれで、「かりん」に所属。「夏樫の素描」50首で1985年に角川短歌賞を受賞。その後、第一歌集『夏空の櫂』(1988) で現代歌人協会賞、第二歌集『一夏』(1993)で河野愛子賞を受賞。第三歌集『たましひに着る服なくて』(1998)、第四歌集『一葉の井戸』(2001)と続き、第五歌集『滝と流星』(2004)で若山牧水賞を受賞している。着実な歌集の出版と数々の受賞歴を持つ名実共に実力派歌人である。
掲載歌は米川が夫君に同行して米国で暮らした頃の歌。時間の翳りのなかで地球の裏側で沈む国とはもちろん故国日本に他ならない。同じ歌集に「苦しむ国のしづかにふかき眉としてアイリッシュアメリカンゲイの列ゆく」という歌もあり、アメリカと日本に注ぐ米川のまなざしの深さと批評精神をよく表わしている。
なぜ米川が「学級委員」なのかというと、「わがまま派」の多い穂村たちの世代のなかにあって、米川は古典を受け継ぎ端正な短歌を作るという道を歩んだからである。第一歌集『夏空の櫂』出版の前の年の1987年には、俵万智の『サラダ記念日』が世に出てサラダブームが起きている。同じ年には加藤治郎の『サニー・サイド・アップ』、やや遅れて1990年には穂村の『シンジケート』が出版されている。現在の歌風とは異なるが荻原裕幸も『青年霊歌』で米川と同じ1988年に世に出ていることを考えると、主な顔ぶれが打ち揃った感がある。こんななかで、ライトヴァースなどどこ吹く風と言わんばかりの米川の古典調は目立たずにはおられない。
たとえぱ『夏空の櫂』には次のような歌が並んでいる。
いかなる思慕も愛と呼びたることなくてわれの日記は克明なりき
名を呼ばれしもののごとくにやはらかく朴の大樹も星も動きぬ
現代に若く生(あ)れたる感傷を聞きをり葡萄食みて憎みて
ひるがほいろの胸もつ少女おづおづと心とふおそろしきもの見せにくる
端正な文語律、瑞々しい感性、清新な相聞と、これだけ揃えば「学級委員」の呼び名もふさわしいと言えるだろう。大塚寅彦の『刺青天使』(1985年)、中山明の『愛の挨拶』(1989年)、やや遅れて林和清『ゆるがるれ』(1991年)など、古典の知識に立脚した文語律を駆使する若手歌人は、90年代の初頭を最後に途絶えた。関川夏央によれば、文学が教養の座からすべり落ちたのは70年代初頭だという。また江藤淳が「文学がサブカルチャーに低迷しつつある」として文芸時評の筆を折ったのは1978年である。仮に1975年あたりを分水嶺とすると、当時米川と中山は16歳、大塚は14歳、林は13歳となる。早熟な16歳ならば文学に読みふける年齢である。ここらあたりまでが教養のセーフラインということになるのだろうか。この変化には、改訂を重ねた文部省(当時)の学習指導要領も関係があるかも知れない。
『文藝』〔河出書房新社〕2004年冬号に穂村弘が「『想い』の圧縮と解凍」という文章を書いている。そのなかで、短歌の理解が一般に難しいと思われているのは、書かれた情報に圧縮がかかっているからで、読者は読みの過程で圧縮された情報を解凍しなくてはならない、という趣旨のことを穂村は述べている。ここで言う「圧縮」と「解凍」は、パソコン上で行われる作業をさす用語を借りている。確かにその通りなので、圧縮が短歌の生命であると同時に、読みの過程で解凍するなかで大きな世界が広がってゆく感覚こそが、読者として短歌を読む最大の喜びである。ただし、圧縮にも解凍にもある種の約束事があり、それなりの技術が必要である。今の若い人たちにはこのハードルが高すぎるように感じられるのだろう。いわゆる口語ライトヴァースは一般に圧縮率の高くない短歌をいうのだが、上に引用した歌からも推測できるように、米川の歌の圧縮率は相当に高い。この点もまた、80年代に登場した若い歌人の作風と比較して、米川がひとり独自の道を歩いていると感じられる理由である。
正直に白状すると、私にもときどき解読しあぐねる歌がある。次のような歌がそうである。
ある日醒めし桜はおのが鼻目さへ喰ひてしろがねの虚無になりゐつ 『一夏』
時間(とき)の草炎えながら伸び母と子が永遠に忘るる青き機関車
六月は断崖となる梢よりはげしく落ちぬそらいろの卵
『たましひに着る服なくて』
なぜ圧縮率が高くなるかというと、米川の歌には比喩、ことに直喩が少ないのがその理由のひとつかと思われる。陳腐な例で恐縮だが、わかりやすい直喩の「お盆のような月」から「お盆の月」を経由して、「月の盆」と徐々に圧縮率が増す。このような技術は上に引用した歌にもほの見えて、例えば「時間の草炎えながら伸び」は、「時間がまるで草が燃えるように怖ろしい勢いで過ぎてゆき」と読み解けばいいのだろう。一首目の「ある日醒めし桜」は桜の開花のことをさしているのだろう。三首目はもっと難解で、「そらいろの卵」は空の青の比喩かとも思うが、はなはだ自信がない。かくのごとく米川の短歌の圧縮率は高いのである。
ついでにもうひとつ指摘しておくと、米川の歌には動詞が多い。一般に短歌一首には動詞は最大3つまでと言われているようだが、それを超える歌もある。
みづあふれ子どもは生まれみづは閉ぢこの子どこかへかへりたさうで
『たましひに着る服なくて』
ほのかに滅びそめて愛のみありありと生きる頭を抱きおそれたり
蝉よ黒髪をもつごと啼きいでて淡からず死者に過ぎし一年
叱りて叱りて庭に出づれば地下茎は隣の垣をとうに越したり
動詞は意味上の主語を必要とするが、短歌では省略されることが多い。例えば4首目の「叱りて」の主語は「私」、目的語は「わが子」で、これはまあわかりやすいが、もう少し複雑な例になると解読に時間がかかる。これもまた圧縮率を高める結果となる。
さて、米川の歌の内容はと言えば、結婚・出産・渡米生活・子供の成長・父親の病気と死と、個人的生活の出来事を歌にしていながら、ありがちな生活詠・日々の歌・短歌形式の日記に堕していない。それはおそらく、出来事の本質を見据えて感情に溺れることなく、批評的精神を失わない目が米川にあるからだろう。
生き方はタチツボスミレの株のごと宴(うたげ)の女友達分かつ 『一夏』
蔑(なみ)されて美(は)しき東洋黒馬の踏みたつごときSUSHI・BARの椅子
〈電極をつけたるあたま〉花の日にあらはれて深く何かをこはす
『たましひに着る服なくて』
昭和ののちとふ無辺の青のさびしさをこゑ上げながらゆく凧(いかのぼり)
〈誰もが光る〉と書かれた学校大枯野どこでむすこは光つてるゐのか
鬱金のアイスクリームといふものを食み細目して見る〈人生の午後〉
一首目、女友達が同窓会か何かに集まっているが、それぞれの生き方はすでに截然と分かれている。これは単なる観察ではなく、米川には自分には自分の生き方があると心中考えているのだろう。二首目は滞米中の作品だが、ヘルシーフードブームで雨後の筍のごとく出現したSUSHI・BARの黒い椅子を、黒悍馬になぞらえている。「蔑されて美しき」に海外生活者特有の心理的屈折が鋭い。三首目は、オウム真理教事件に題材を得た作品だが、「深く何か」には事件を少数の狂信者のものと片付けない視点がある。他にも「解体するため一丸となりて出家せるおそろしき量感あり〈家族〉」という歌があり、オウム事件を家族という視点から詠んだところが新鮮に感じられる。四首目は昭和が終り平成の世となった時代を詠ったもので、時代が次第に明確な顔を失ってゆく感慨がある。五首目、「誰もが光る」という学校の標語にもかかわらず、学校は大枯野という皮肉には作者の苦い認識が感じられる。六首目、鬱金はカレーの香辛料としても用いられるターメリックと同じで、鮮やかな黄金色だが味は苦い。人生の午後は目を見開いて眺めるものではなく、細目して見るものであり、熟れた果物のように見えるかもしれないがその味にはかすかな苦みが混じっている。
感動をストレートに詠うのではなく、いったん立ち止まって反省的にものごとを捉えてから表現する。このような態度が米川の歌のなかに、韻律に身を任せてクレッシェンドに詠い上げるのではなく、ややもすれば複雑に折れ曲がるような陰影を与えているのだろう。