141:2006年2月 第1週 観覧車の歌

 今回の「観覧車」のようなお題特集を書くときには、めざす単語を含む短歌を探して歌集を何冊も当て所もなく渉猟するのだが、そうしているとおもしろいことに気づく。単語の含まれ方に歌人によって明らかに差が見られるのである。名詞の多い人と名詞の少ない人がいる。たとえば藤原龍一郎や生沼義朗は名詞が多い。

 歳月は蜜の香火の香新宿の地の底林檎劇場(シアター・アップル)ありて  藤原龍一郎

 可視光線不可視光線絡まりて日曜の銀木犀を照らしぬ  生沼義朗

名詞が多いと漢字が多くなり、動詞の数は少なくなる。藤原の歌では「あり」一つ、生沼の歌では「絡まる」「照らす」の二つである。探しているお題が名詞のときには、こういうタイプの歌人の歌集を探すとヒットすることが多い。逆に名詞が少ないのは江戸雪や東直子である。

 どうしてこの人なんだろう もつれたる風草の辺にともにしゃがむよ  江戸雪

 いつまでもですます調で語り合うわたしたちにも夏ふりそそぐ 東直子

名詞が少ないと漢字の数が減るのは当然として、動詞の数が増えるかというと必ずしもそうではない。「どうして」のような疑問詞や話し言葉的表現が増えることがあるからである。

 また歌に含まれている単語の種類にも歌人によって大きな偏りがある。山・河・草・鳥など自然物の割合が他を圧している歌人もいるかと思えば、都市を背景とする人工物ばかりが登場する歌人もいる。両者が歌に描き出す光景は対照的である。

 濃きいろに黙す夕ぐれ戦ぐもの耳立てて待つ巣穴の狐  百々登美子

 エンジンの焼ける匂いを嗅ぎながら湾岸環状線へ突っ込む  谷岡亜紀

また登場する単語の意味レベルもさまざまである。「空」「坂」「橋」「岸」のように、どこにあってもおかしくない普遍的な普通名詞ばかりを使う歌があり、それとは逆に固有名を頂点とする具体性と土着性に富む名詞を使った歌もある。

 ゆびひとつ触れることない慎重さ保って雨の坂を見おろす  小林久美子

 そのうちに行こうといつも言いながら海津のさくら余呉の雪湖(うみ)  永田和宏

 普遍的な普通名詞を多用する歌は非人称的であり、歌の味わいは散文詩に近づく。具体性に富んだ名詞を使った歌は人称的であり、個人へと収斂する読みを誘う。

 さて、本日のお題「観覧車」である。ものの本によると観覧車の起源は17世紀ブルガリアに遡るとされている。18世紀のロシアでは農奴が回す人力観覧車が貴族を楽しませていた。電力による観覧車は1893年のシカゴ万国博覧会のものが最初であり、設計者の名を採って今日でも英語では観覧車を Ferris wheel と呼ぶ。日本では1907年の東京勧業博覧会のものが最初で、のちに浅草に移設されたという。1907年というと明治40年だから、それ以前の短歌では実景としての観覧車が詠まれたことはないことになる。短歌では新しい景物なのである。

 観覧車といえば遊園地に設置されているものとほぼ決まっている。最近では大阪の梅田ビル街とかロンドンのテムズ河畔のように、遊園地ではない市街地に作られたものもあるがあくまで例外に留まる。したがって観覧車が喚起する意味として考えられるのは、まず遊園地の愉しさというものだろう。

 観覧車回れよ回れ君には一日(ひとひ)我には一生(ひとよ)  栗木京子

有名なこの歌では遊園地で一日を過ごす男女のカップルが詠まれていて、観覧車が通常呼び出す意味を踏まえている。しかし主題となっているのは、男女の恋における温度差であり、女性の方の片務的な想いの深さを思わせるように観覧車はゆっくりと回転している。

 観覧車のぼりゆきたるたまゆらを秋に傾くふたりの錘り  辰巳泰子

この歌でも男女ふたりが観覧車に乗っている。ところが下句「秋に傾くふたりの錘り」の解釈は微妙である。「ふたりの錘り」が男女の関係の均衡・緊張をさしているとして、「秋に傾く」を「秋の方向へと傾く」と仮に解釈するならば、秋は英語でfallだからこれは恋心が冷えてゆく歌だということになる。どうもそのように解釈した方がよいと思えるのは、遊園地での観覧車の愉しさを詠んだ歌は皆無であり、逆に観覧車が何かの衰退・凋落の喩として用いられている歌が多いからである。おお、歌人というのは何とネガティヴ・シンキングの人種であることか。

 観覧車ひとつひとつの筺がしまうものは見えざり会者定離など  梅内美華子

 この歌もまた観覧車のゴンドラに共に座っている人も、一回転が終わって降りればまた別れる定めということが詠われている。「会者定離」は仏教用語であり、回転する観覧車がまるで輪廻の車のように見えてしまうのである。

 二人分の孤独を乗せて後戻りできぬ高さを観覧車越ゆ  十谷あとり

 本来ならば楽しいはずの観覧車が「二人分の孤独を乗せて」ということは、心を通じ合わせることのできない二人なのだろう。観覧車が後戻りできない高さを越えることは、二人の関係の修復が不可能なことを暗示している。

 ここまでは二人で観覧車に乗っている歌である。しかし次の歌はいささか趣がちがう。

 百年も夜がつづいてゐたとおもふ観覧車のいただきに着くころ  林和清

 雨にけぶる観覧車にて録音は見えざるものをあれこれと言ふ  真中朋久

 林の歌は恋人が二人で観覧車に乗っている情景ではない。連作「ルミナリエ」中の歌であり、「また百年夜がはじまるルミナリエの祈りが街を埋めつくしても」という歌と呼応している。ルミナリエは阪神淡路大震災の犠牲者を追悼し疲弊した地方経済を活性化するために始められた行事である。だから「観覧車のいただきに着くころ」には深い悲しみから一応は脱した慰藉が感じられる。

 真中の歌も男女の恋人が乗る観覧車ではないだろう。強いて言うならば幼い子供と乗っているのだろうか。録音のアナウンスが誇らしげに説明する景観と、雨でそれが見えないという現実の乖離がこの歌の眼目である。

 観覧車に乗っているのではない視点から作られた歌もある。

 限りなく羽毛降る午(ひる)海浜の大観覧車の解体進む  谷岡亜紀

 埋立地の地霊を具象するものは青海埠頭の大観覧車  生沼義朗

 第三の男はぼくでありきみだ大観覧車骨組みあらわ  加藤治郎

 谷岡の歌はどことなく世の終わりの風情を匂わせていて、観覧車の解体という物寂しい光景がそれを強化している。生沼の歌はまぎれもない都市詠である。鈴木博之の好著『東京の地霊 (ゲニウス・ロキ)』でも縦横にに論じられているごとく、歴史のある場所には地霊がある。京都のような古い町では、住民は地霊の上で暮らしているようなものだ。しかし埋立地は新しく生まれた地面であり、歴史を背負っていないため地霊がない。代わって地霊の代理をするのは、休日の小市民の娯楽のシンボルとしての観覧車というわけである。

 観覧車というとキャロル・リード監督の名画『第三の男』を思い浮かべるのはある程度以上の年代の人だろう。オーソン・ウェルズの演技とアントン・カラスのチターの音楽が記憶に残る。加藤の歌はこの映画を踏まえている。戦後の混迷の中を生きる第三の男と、骨組みが剥き出しになった観覧車に、今の時代を生きるわれわれを重ねているのだろう。

 かくもネガティヴな回路で捉えられている観覧車だが、ホジティヴな憧憬の対象とされる歌もないわけではない。

 寝ねし子をうつせる夜の車窓には遠く灯の輪となる観覧車  吉浦玲子

 ディズニーランドからの帰りだろうか。一日遊んで疲れた子は車内で寝ている。子供が映った車窓には遠くに観覧車が見えている。観覧車は光の輪として描かれており、いましがた子供と乗ってきたものであっても、遠くから改めて眺めれば美しいものとして描かれている。

 ビル抱く暗き淵よりせりあがり観覧車いま光都を領(し)れり  沢田英史

 私が見つけた観覧車の歌のなかでもっとも美しい歌である。都会の暗がりから上昇する観覧車は、イルミネーションに照らされた不眠都市の輝きを圧するようにその上に君臨する。観覧車は暗き淵からの浮上を希求する現代人の憧憬の形象化に他ならない。