155:2006年5月 第4週 兵庫ユカ
または、状況の未決定性のなかに漂う世界

手の甲に試し塗りする口紅を
     白い二月の封緘として
      兵庫ユカ『七月の心臓』     

 第2回歌葉新人賞で次席に選ばれた兵庫ユカの『七月の心臓』が刊行された。歌葉新人賞は現代短歌を推進している荻原裕幸、加藤治郎、穂村弘が選考委員を務めており、新感覚の短歌を作る作者を世に送り出している。応募して来る人たちもそのような傾向の作風を持つ人が多い。兵庫もまたその一人である。

 掲出歌は収録作品のなかでは従来の短歌的コードに比較的寄り添った作品である。口紅を手の甲に試し塗りするのだから、隠された〈私〉は女性、しかも若い女性であり、作者自身と同一視してもよいほどだ。「白い二月」は季節から雪や吐く息を連想させる。二月を封緘するというのは、二月に別れを告げるというほどの意味だろう。歌集では「わたしにわたしが」と題された章に配置されているが、連作と呼ぶほど緊密な意味的関連性はなく、前後の歌から意味を補填することはできない。かと言って外部からの意味の補填を必要としないほど一首が屹立しているわけではなく、逆に外部へと溶解してゆく意味の淡さがある。

 ここに挙げた特徴、すなわち作者自身と同一視してもよいほど等身大の〈私〉と、一首の意味的屹立の弱さ、そのアンチテーゼとして一首の外へと意味と感情が溶解してゆく傾向と、その言語表現的対応物である平仮名の多用は、近年の歌人、特に女性歌人の作る短歌に共通する特徴である。他の歌も見てみよう。 

 遠くまで聞こえる迷子アナウンス ひとの名前が痛いゆうぐれ

 ポップコーンこぼれるみたい 簡単に無理だって言う絶対に言う

 使い方まちがわれてる駒のようにだれもわたしと目を合わせない

 朝焼けを見たことがないどんなことして生きてきたのだろうわたしは

 おもいでは常に夕暮れあのひとのはちみつ色の誤字を匿う

 一首目は遊園地の情景か。短歌には「ひと」と書いて特定の人物を指す修辞があるが、ここではそうではなく単に他人という意味だろう。「ひとの名前が痛いゆうぐれ」という下句はなかなか美しいが、表現されているのは漠然とした理由のない孤独感だろう。二首目の「ポップコーンこぼれるみたい」はいかにも現代的なライトヴァースの口語的表現である。短歌に会話体を導入すると、誰が話しているのかを示す必要性が生じ、その処理が技術的問題となる。「簡単に無理だって言う」の主語が〈私〉なのか誰か他人なのかが未決定で、そのため意味の浮遊感が生まれている。この浮遊感が作者の意図したものならか、それとも技術的未熟さから来る発話主体の非明示が生み出してしまったものなのかは不明だが、いずれにせよこの歌に見られる「状況の非決定性」は、まるで量子力学におけるシュレディンガーの波動方程式のように、結果的に確率論的世界像を生んでいるようだ。三首目は比較的意味のはっきりした歌であり、「使い方まちがわれてる駒のように」という直喩も所を得ている。しかし表現されているのはこれも淡い疎外感である。四首目は、「朝焼けを見たことがない」というささやかな発見と、下句の人生全般に関わる省察との不釣り合いが短歌的磁場を生んでいると言えるかもしれない。五首目では、「あのひと」という具体的人物が登場し、世界に〈私〉しかいないそれまでの自閉的世界とは異なっている。しかし、「はちみつ色の誤字を匿う」は意味がよくわからない。

 上に引用した歌に較べて、次のような歌にはそれぞれ感心させられる所がある。 

 もう雪はふりましたかという下書きが残る四月の寒い弾倉

 穂を垂らすかたちのわたしの幾つもの体言止めのけだるい実り

 必然性を問うたびに葉は落ちてゆくきみは正しいさむいさむい木

 あすゆきをふらせる雲を指している結膜炎の気象予報士

 ながれだす糸蒟蒻を手で受けてこれがゆめならいいっておもう

 日が暮れてからの空気も春らしくティースプーンを溢れるみりん

 ふるい詩の中の一字を滲ませる苺か毒か判らぬように

 折ればより青くなるからセロファンで青い鶴折る無言のふたり 

 一首目、上句の口語的文体から下句の名詞の連射への流れが心地よく、謎めいていながら背後に日常の〈私〉を超えた物語を感じさせる。二首目も「~の」の連続がリズムを作っており、短歌を詠んだメタ短歌である。三首目は「きみ」と呼ばれている人を「さむい木」に喩えている。「なぜ」という必然性を問うことが生命を削ることになるという認識が、短歌的喩のなかに過不足なく表現されている。四首目は「結膜炎」にポイントのすべてがある歌。五首目は「ながれだす糸蒟蒻」がポイントが高い。確かにパックから取り出した糸コンニャクを手で受けようとすると、水といっしょに流れてしまうことがある。もちろん「取り返しのつかないこと」の喩である。六首目も感心したのは、「ティースプーンを溢れるみりん」で、春の日の緩んだ空気と、金色に光りねっとりとティースプーンに盛り上がる味醂はよくマッチする。七首目は「苺」の字と「毒」の字が似ていることから発想した歌だろう。指に水か何かを付けて意図的に滲ませるという行為は、悪意とも取れるが、詩の意味を未決定にしておきたいという意志の発露とも取ることができる。八首目は青いセロファンで鶴を折ると、青をいっそう青くすることができるという点に、孤独な希求を感じることができるだろう。現代短歌で「青」が何を象徴するかは別のところで論じたことがある。

 描かれた世界の淡さや、状況の未決定性、言い差しで終わりがちな語法は、兵庫の短歌の欠点というわけではなく、おそらく作者か意図したものだろう。結果として生まれた歌の形は、伝統的な短歌の持つ形式と意味の両面にわたる凝集性とは無縁なものとなっている。このような歌の世界を受け入れるかどうかは、好みが分かれるにちがいない。私はなかなか悪くないと思うのだが。

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