たすけて枝毛姉さんたすけて西川毛布のタグ
たすけて夜中になで回す顔
飯田有子『林檎貫通式』
現代短歌の「わからない歌」の代表としてよく引用される歌である。文節に従って切ると、4・7・4・10・4・11となり、全体で40音の大幅な破調になる。伝統的な短歌のリズムでこれを読むことは不可能だが、リズムがないわけではない。「たすけて」の4音がリフレインとして反復されていて、その間に7・10・11音の句が挿入されているので、全体としては単調増音傾向を示しており、悲鳴のような「たすけて」とあいまって、次第に高まる叫びのような印象を与える。しかし意味の面を見ると、「枝毛姉さん」「西川毛布のタグ」「夜中になで回す顔」の間には連関はなく、支離滅裂に見える。歌に意味はないと切って捨てるのではなく、あくまで歌に意味を汲み取る立場を守るならば、一見支離滅裂に見える言葉を並べるにはそれなりの意味があるのであり、その場合、意味は言葉の字義的レベルにではなく、一段階抽象して「支離滅裂の言葉を並べることの意味」というメタ言語的レベルに求めなくてはならない。その場合、このように意味的連関のない言葉を連ねるのは、「たすけて」という叫びの切迫性を強化するためだと考えられる。つまり、ここでは通常の「言葉の意味」ではなく、「言葉の強度」が記号的価値を獲得しているのである。
飯田有子は1968年(昭和43年)生まれ。歌歴は長く、伝統ある早稲田短歌会に所属し、「まひる野」会員として当時は伝統的な短歌を作っていたという。その頃に作られた短歌を見てみたいものだと思う。私は『林檎貫通式』しか読んでいないので、もし昔の短歌を読んでいたらたぶんずいぶん異なる見方をしたかもしれない。現在は同人誌「かばん」に所属しており、『林檎貫通式』は2001年に、加藤治郎・荻原裕幸らの主宰する「歌葉」から出版された。現代短歌を代表するプロデューサーの手で世に出たのであり、良くも悪くも伝統的短歌と断絶した新しい短歌の代表格のように扱われるのは、デビューの状況からしてやむを得ない。本人の写真が『短歌ヴァーサス』第5号の表紙に使われている。『林檎貫通式』は漫画家ウメコの少女っぽいイラスト入りで構成されていて、意図的に少女らしさを前面に押し出しているのは演出だと思われる。そのことは後に述べるように、短歌の質と大いに関係するのである。
さて飯田の短歌だが、『林檎貫通式』には伝統的な短歌のコードで理解し鑑賞できる歌もある。たとえば次のような歌群である。
のしかかる腕がつぎつぎ現れて永遠に馬跳びの馬でいる夢
女子だけが集められた日パラシュート部隊のように膝を抱えて
にせものかもしれないわたし放尿はするどく長く陶器叩けり
金色のジャムをとことん塗ってみる焦げたトーストかがやくまでに
夏空はたやすく曇ってしまうからくすぐりまくって起こすおとうと
足首をつかんできみをはわせつつおしえてあげる星のほろびかた
カナリアの風切り羽ひとつおきに抜くミセスO.J.シンプソン忌よ
一読すればわかるが、飯田は韻律の詩型としての短歌をよく理解しており、前衛短歌以後さまざまに試みられた技法的工夫も自分のものにしている。例えば1首目の4句「永遠に馬跳びの」は10音の増音だが、小池光も法則化したように、4句はもっとも増音破調が許される句である。どこか塚本邦雄の「少女死するまで炎天の縄跳びのみづからの圓驅けぬけられぬ」を連想させるものがあり、この連想は飯田の念頭にもあったかもしれない。内容的には永遠に馬跳びの馬に留まる悪夢のような恐怖感が夢として表現されており、取り立てて難解な所はない。2首目では「パラシュート/部隊のように」に句跨りがあり、これも周到に下句に配置されている。生理の始まった女子を対象とする小学校の保健の授業の場面が描かれている。ポイントはもちろん「パラシュート部隊のように」で、体育館の床に体育座りをしている様を表現しているのだが、それがまるでこれから敵地に夜間降下する落下傘兵のようだとされている所がミソである。3首目は初句の6音を除けば技法的に取り立てて言うべき点はないが、内容を見ると、上句の叙情と下句の叙景とが意味的喩として見事に呼応している。テーマは割とよくある自己不全感覚である。
ここまでは比較的伝統的短歌に近いスタンスに位置しているが、4首目からはもう少し現代短歌風になっている。4首目では「とことん」「塗ってみる」と口語が使われており、「焦げたトースト」が象徴する喪失感を「金色のジャム」で糊塗する行為は、3首目の私のにせもの感と通底する。5首目では牧歌的な子供時代の明るい夏の情景のなかに、一抹の将来への不安感が表現されていて、よくできた歌である。6首目は腕立て伏せの姿勢をする相手の足をもって移動する体操の場面だろう。下句に言及されている星の消滅という宇宙レベルのマクロな現象と、上句の日常的な体操の場面との鮮やかな対比が歌の眼目である。7首目のO.J.シンプソンは、アメリカのプロフットボールのスター選手であり、1994年に元妻の殺害容疑で逮捕され裁判になったが、巧妙な法廷戦術の結果無罪の評決を得た。O.J.シンプソンは映画にも出演した著名人で、逮捕の一部始終はTVで中継され全米の注目を集めたが、その影で殺害された元夫人は忘れられて行った。元妻の名前がニコル・ブラウンだったということを記憶している人ももういない。飯田はこのように不当に忘却された人を歌に登場させていて、その選択は周到である。上句「カナリア」は人工的に作られた美声の鳥であり、短歌では夢と儚さのシンボルとしてよく詠われる。ここでは無辜の人の象徴である。カナリアの羽を抜くというのは残酷な行為であり、殺害され忘却されるという二重の不幸に見舞われたニコル・ブラウンの運命を暗示している。
ここまで意図的に細かく飯田の歌の読みを書いてきたが、飯田は伝統的短歌の技法を踏まえ、前衛短歌・現代短歌の手法も熟知していて、なかなかよい歌を作っているのである。しかし、問題は上に引用したような歌が『林檎貫通式』を代表する歌ではなく、また飯田の代表歌とも見なされていないという点にある。『林檎貫通式』を代表するのは次のような歌である。
ゆいごーん 春一番に飛ばすジェリーフィッシュアレルジイ証明書
かんごふさんのかごめかごめの(*sigh*)(*sigh*)(かわいそうなちからを)(もっているのね)
球体にうずまる川面いやでしょう流れっぱなしよいやでしょう
生ごみくさい朝のすずらん通りですわれわれは双子ではありませんのです
すべてを選択します別名で保存します膝で立ってKの頭を抱えました
あれみんな空っぽじゃない? うたがいぶかい奴は卵屋にはなれません
『短歌ヴァーサス』第5号の特集「新鋭歌集の最前線」で飯田の『林檎貫通式』を論じた荻原裕幸は、「この歌集が目指しているのは、そうした自己像の形成といった短歌らしさを根こそぎ落したときになお残る、もっとピュアな〈現在のことばのちから〉のようなものだと言えようか」と書いている。また上に引用したような歌について、「『林檎貫通式』が究極的に求めていたのは、帰路を断つようにして短歌らしさから遠ざかった以下のような作品ではないだろうか」とも述べている。つまり荻原は『林檎貫通式』に収録された歌のなかには、伝統的な短歌における自己像の形成 (「短歌における〈私性〉というのは、作品の背後に一人の人の ─ そう、ただ一人だけの人の顔が見えるということです」by 岡井隆)をうかがわせる歌もあるが、この歌集の価値は従来の短歌らしさと断絶している点にこそあると主張しているのである。そのとき荻原が価値を置くのは、「ピュアな〈現在のことばのちから〉のようなもの」である。
ここで荻原の物の言い方に危険な香りを嗅いでしまうのは私だけだろうか。伝統的短歌と断絶しているということ自体がプラスの価値として評価されるのではなく、過去と断絶した結果、どのような新しい地平を示すことができたかによって評価されるべきだろう。荻原は明らかに前者の「断絶」に力点を置いてこの文章を書いている。後者の「新しい地平」については、「ピュアな〈現在のことばのちから〉のようなもの」と述べるのだが、これが果たして伝統的短歌の世界に対峙できるほどの強力な武器となりうるのだろうか。私はこの点について極めて懐疑的にならざるをえないのである。
伝統的短歌の定型や韻律を否定し、「ピュアな〈現在のことばのちから〉のようなもの」に全面的に頼るということは、ひとりぼっちで31文字の詩型と向き合うということである。かつてキリスト教信者と神のあいだに位置して神と人を仲介していたカトリック教会を否定し、神と人とを無媒介的に直接向き合わせようとしたプロテスタントの宗教改革とその精神においてよく似ている。宗教は神と人の中間にある教会という場において社会化される。それと同様に、短歌は歌と人の中間にある様々な約束事や制度(結社もそのひとつ)において社会化される。社会化されない短歌は個人化されざるをえず、極端な場合には理解すら拒絶した孤独の叫びとなる。
そうすると個的次元においてみずからが価値を置きうるものは、発語の切実さとピュアさしかなくなる。「私の感情はこんなに切実」と、「私の言葉はこんなに嘘がない」のふたつである。切実な感情を抱き言葉の嘘を嫌うのは青春の特徴であるから、「ピュアな〈現在のことばのちから〉」を保持するのは若者の特権ということになる。『林檎貫通式』の表紙がセーラー服の少女のイラストで、歌集全体に飯田の実年齢よりも若い少女の演出が施されているのはこのために他ならない。穂村弘の『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』の場合は、作者である穂村自身が少女を偽装するには無理があるので、架空の少女まみからほむほむへの手紙という体裁を取っているが、目的は同じである。
しかしながら言葉のピュアさなどというものを頭から信じないオジサンの目から見ると、「発語の切実さ」を担保するために幼年偽装するのは「いかがなものか」と思う。それでほんとうに世界と向き合うことになるのだろうかという気がしてならないのである。
飯田有子のホームページへ