タルト生地まだ熱すぎる黒すぐり
載せる前にまたイラクの死者達
三井修『軌跡』
タルト生地をオーブンで空焼きして、それから上に果物を載せるという菓子作りの手順を詠っているのだが、それが最後の「またイラクの死者達」を導き出す序詞であるかように働いている。平和な日本での菓子作りという日常的光景と、イラク戦争という暴力的出来事との対比が一首の眼目であることは言うまでもない。しかしそれに加えて、熱すぎるタルト生地と灼熱の中東の国との意味的類縁関係、生地に載せる黒すぐりと夥しく流される血の色との連想関係、タルト生地が冷めるまでの時間の短さと、その短い時間に失われる人命の数との目も眩むような対比が、この歌の意味作用を重層的に強化していることにも注目しよう。作者は中東関係の調査機関で長く働き、中東と日本を往還していた人で、その経歴がこの歌のような視点を生んでいるのである。
三井修は昭和23年(1948年)生まれで「塔」に所属し、『軌跡』は2006年に角川短歌叢書の一巻として出版された第5歌集である。歌歴の長いベテラン歌人であり、『軌跡』に収録された歌は理知的で抑制の効いた写実を基本としながらも、掲出歌のような技法上の工夫があり、読後に重い充実感の残る一冊であった。
穂村弘は『短歌はプロに訊け!』のなかで「短歌のくびれ」というおもしろい表現を使っている。穂村によれば「短歌のくびれ」とは、ともすれば散文的な寸胴になりがちな歌に砂時計の形のような陰翳を付与する部分であり、作者が表現のしぼりこみを工夫する場所である。三井の短歌を読んでいると、穂村の言う「短歌のくびれ」が実に効果的に配されて、一首を詩として浮揚させていることに気づくのである。試しに次のような歌を見てみよう。
春の午後水より水へ落つる滝 若枝ひとつを揉みしだきつつ
六月の陽は先ず光らす近づきて来る人の胸の貝の釦を
秋雨に降り閉ざされつつ一都市は夕べをはやく灯り初めたり
十月の野に捨てられいし壜の中 曇りていしと過ぎて思えり
夕暮れは我らはかなき飲食(おんじき)をなすとて明るき地下へ降りゆく
テーブルの上のフィンガー・ボールには果汁に濡れたる指が近づく
帆船のあまた描かれし図譜閉じて春の街へと紛れゆきたり
夕焼けの下の医院に眼球のあるいはメスに剖(ひら)かれおらん
一首目のくびれは「水より水へ落つる」の部分である。私たちが「滝」と呼んでいるものは、高低差のある地形において「上の水」から「下の水」へと流れ落ちる水に他ならない。言われてみれば当然のことなのだが、このように言葉で表現されるとハッとする。大袈裟に言えば言葉による「世界の発見」である。二首目では下句の「来る人の胸の貝の」の助詞「の」の連続は、ふつうは避けるべき文体上の瑕疵とされることがあるが、ここでは「人→胸→ボタン」とズームインするようなクローズアップ効果があり、作者のねらいもそこにある。初夏の日差しの強さはまず胸のボタンの光として感じられるという発見を歌にしているが、作者が見聞した実体験とは考えにくく、ここには想像力による相当の工夫が潜在していると見るべきだろう。三首目では眼前の街を「一都市」とあえて不定表現を用いて指示する語法と、「夕べを」の助詞「を」が効果的に働いて、ふだんよりも早く点灯する街の光景を一片の詩にしている。四首目では捨てられている壜の中が曇っているというディテールに注目する視線の細やかさもさることながら、ポイントは結句の「過ぎて思えり」にあり、見る行為と気づくという意識の働きのあいだのタイムラグを描くのがこの歌の眼目だと思われる。このタイムラグを設定することによって、「壜の中が曇っている」という些事が、「私たちが何かに気づくこと」という普遍的地平へと押し上げられている。六首目は、何人かで連れ立って地下街のレストランに食事に行くという何げない日常の光景を描いているが、「はかなき飲食」と表現されることでいずれ迎える死が暗示され、「明るき地下」はあたかも地下墳墓のごとき観を呈している。ひるがえった「我ら」という人称詞は、作者を含むその場にいる人という限定的集団を超えて、「この世に生を送る私たち」という全称表現へと止揚されるのである。七首目のくびれはカメラ・アングルであり、人間の全身は隠されたまま指とフィンガー・ボールだけがクローズアップされている。八首目では帆船と春の街という開放感溢れる場面設定のなかで、画集を閉じた〈私〉が街へ「紛れゆく」と表現されている点が、この歌の絞り込みでありくびれである。これが「春の街へと歩み出でたり」ならば希望溢れる出発の歌になる。「紛れゆく」ところに中年を越えた男の苦さと翳りがある。九首目で叙景としては夕焼けと病院のみで、あとは〈私〉の想像が作り出したものである。眼の手術に伴う出血と痛みの感覚が夕焼けと結びつくが、もう少し想像をたくましくすれば、手術によってさらに世界がよく見通せる眼を獲得するという願望も潜んでいるのかもしれない。
読んでいて気がついたのは、窓や硝子を通して情景を見ているという設定の歌が多いことである。
ゴンドラに硝子を磨く人ありてわれと一枚の透明を隔つ
玻璃の内明るく照りて若者がケーキ台に薔薇を搾りていたり
薄片をはらはら零しつつ人はパイ食みており窓辺の卓に
ゆきずりのインド料理店の窓 今し窯よりナンの出さるる
一首目では〈私〉が室内にいて外部と透明な硝子で隔てられているが、残りは逆で〈私〉が外にいて内部を見ている。いずれも取り立てて劇的な光景ではなく、ささいな日常的風景なのだが、〈私〉は孤独な窓越しの観察者の位置にいて、硝子によって切り取られた光景は鮮やかに浮かび上がっている。歌によって〈私〉の内部に屈み込むのではなく、窓の形に切り取られた歌を通して静かに世界と繋がりたいという作者のスタンスが現れているものと解したい。
何げない光景であっても、作者の目によって切り取られ、的確な言葉によって新たな整序を与えられたとき、そこにはまったく新しい現実の姿が顕現する。これが言葉の持つ現実を浮揚させる力であり、三井の短歌はその力をまざまざと感じさせてくれる。