026:2003年11月 第3週 固有名の歌

 短歌に詠み込まれた固有名でいちばん多いのは地名である。古来より地名は歌枕の筆頭であり、地名の喚起力は歌に力と奥行きを与えてきた。ここでは地名以外の固有名を詠み込んだ歌を取り上げたいのだが、そうすると残るは人名ということになる。人名が詠み込まれた歌で忘れがたいのは次の歌だろう。

 佐野朋子のばかころしたろと思ひつつ教室へ行きしが佐野朋子おらず
                   小池光『日々の思い出』

 小池は高校教師である。それが「佐野朋子のばかころしたろ」とは穏やかではない。岡井隆はこの歌を論じて、「教師と生徒の関係が著しく感情を剥き出しにするレヴェルへと変わっていった時代をにおわせる」(『現代百人一首』朝日新聞社)と評した。そうかなとも思うが、そこまで深読みしない読み方もできる。佐野朋子はもちろん架空の人名であり、どこにでもいそうな女子高生である。「佐野朋子のばかころしたろ」というのも、多忙な日常を送る高校教師が毎日のように感じる怒りやストレスの表現であり、佐野朋子という固有名はそのささいな日常性を前景化する記号として働いている。固有名の持つ記号性をよく示す歌だと言ってよい。

 形容詞過去形教へむとルーシーに「さびしかった」と二度言わせたり
               大口玲子『海量(ハイリャン)』

 このルーシーもまた他の名前に置換可能などこにでもあるアメリカ人の名前である。しかし、この名前が歌のなかに組み込まれることで、歌の内容が抽象的レベルから具体的地平へと着地させられる。固有名にはたとえそれが無名のものであっても、このような働きがある。「痛み」や「悲しみ」は抽象的だが、「ルーシーの痛み」や「佐野朋子の悲しみ」は具体的なのである。次の歌も同じ手法で作られている。

 夕雲は蛇行しており原子炉技師ワレリー・ホムデチェック遺体無し
                     吉川宏志『夜光』

 短歌に詠み込まれた固有名のなかには、これとはまた異なる作用を果たすものがある。

 いくほどもなき夕映にあしひきの山川呉服店かがやきつ
                     塚本邦雄『詩歌變』

 山川呉服店破産してあかねさす昼や縹の帯の投げ売り
                        『不変律』

 あさもよし紀州新報第五面山川呉服店店主密葬
                        『波瀾』

 山川呉服店未亡人ほろびずて生甲斐の草木染教室
                        『魔王』

 塚本は歌集のどこかに必ずと言っていいほど、山川呉服店を詠み込んだ歌を潜り込ませている。小池光は、このような固有名の使用を、特定の継続的読者にだけ範囲をしぼって成立する極私的な歌枕だとした(『現代歌まくら』五柳書院)。どうやら、山川呉服店は店主が死に、店は倒産して、でも未亡人はめげずに草木染教室なんぞを生甲斐に暮らしているらしい。塚本の忠実な読者ならば、とびとびに報じられる山川呉服店の消息をつなぎ合わせると、ちょっとした市井のドラマが浮かび上がる仕掛けになっている。「あしひきの」とか「あかねさす」という大仰な古典的枕詞が、三面記事のような内容とミスマッチでおかしみを醸し出している。この場合、短歌の固有名は非常にローカルなドラマを生み出す手段として用いられている。

 短歌における固有名の使い方として、古典的歌枕に通じるのは、よく知られた固有名を引用することで、歌のなかにその固有名が喚起する世界全体を取り込むことで、歌に広がりを与えるという手法である。

 クリムトの金の絵の具のひと刷毛の一睡の夢をわれら生きたり
                    加藤孝男『十九世紀亭』

 黄金のひかりのなかにクリムトの口吻ふ男ぬばたまの髪
                   山中智恵子『夢之記』

 二首ともクリムトの絵のなかで最も印象に残る背景の金色を詠み込んでいる。クリムトという固有名を継起として、その死と愛をめぐる退嬰的な世紀末の作品世界が一気に立ちあがり、短歌のなかに通底する世界を開く。固有名ならではの歌枕としての本来の力であり、固有名の呪的機能がここにある。次の歌も同じ部類に属する。ただ、大野の歌では作者の心情に重点が置かれていて、加藤の歌はシュルレアリズム短歌の旗手らしく、意外性と視覚的効果にその眼目がある。

 絶望に生きしアントン・チェホフの晩年をおもふ胡桃割りつつ
                    大野誠夫『薔薇祭』

 照りかげる砂浜いそぐジャコメッティ針金の背すこしかがめて
                    加藤克巳『球体』

 次の歌はこれともちがう固有名の使い方を示している。

 ポール・ニザンなんていうから笑われる娘のペディキュアはしろがねの星 
                    小高賢『本所両国』

 瘡蓋(かさぶた)のごとく凍土に生きながらわれはたつとぶモハメッド・アリ
                   時田則雄『北方論』

 日溜りに革手袋が五指をまげ干されていたり さらば岸上
                   福島泰樹

 『アデン・アラビア』の作者で、全共闘世代のアイドルのひとりだったポール・ニザンを、ペディキュアをしてどこかに出かけて行く娘の世代はその名すら知らない。ポール・ニザンという固有名は作者の青春の記号である。また北の大地に住む農民歌人の時田にとって、モハメッド・アリは不屈の精神のシンボルなのだろう。福島のように学園闘争を戦った世代には、夭折した岸上大作は記号以上のもので、自身の理想を仮託する対象であると同時に、苦い思い出の中の遠景ともなっている。固有名が自分の過去の特定の体験と結びついているとき、その固有名は過去を呼び出す呪文として機能する。ただし、呼び出された過去はたいてい苦いものだが。

 最後に、固有名を主原料として編みあげられた歌の世界というものもある。

 中島みゆき「遍路」にサナトリウムなる単語はありて、闇、深き闇
                  藤原龍一郎『花束で殴る』

 湾岸の駅に降り立ちマーロウのフィリップ・マーロウのような翳りを

 新橋の雨にうたれる裸身見ゆレプリカントのゾーラと蛇と

 歌姫中島みゆき、探偵小説家レイモンド・チャンドラーの主人公フィリップ・マーロウ、リドリー・スコットの映画『ブレード・ランナー』の人造人間ゾーラ、これらは神なき現代を生きる藤原の私的歌枕である。ラジオ局のプロデューサーとして、めまぐるしい流行と消費の世界に生きる藤原の描く世界は、奔流のような固有名の羅列で織り上げられており、その表層性が際立っている。そこにふと現われる自嘲と矜持に抒情の根拠があるのだろう。