027:2003年11月 第4週 芽キャベツの歌

 歌会では「題詠」というものがある。「水」「桜」などの題が与えられ、各自その題を詠み込んだ歌を作って出来映えを競う。題は伝統的歌語から選ばれることが多い。昔の古典和歌は「個人の心情吐露」でもなく「個性の発露」でもなく、過去に読まれた歌のなかから言葉を拾い出し、それを組み合わせて新しい歌とするのが基本であったから、題詠の題もまた、過去に歌の世界で多く詠まれたものでなくてはならない。

 しかし、現代短歌の世界ではときどきこの理屈に合わないことがおきる。小林恭二『短歌パラダイス』(岩波新書)の歌会で「オランウータン」という題が出たのがよい例である。韻律的には7音だからすんなり短歌のリズムに乗るのだが、問題は歌の世界には未登録で、意味の蓄積がないことである。参加者もさんざん苦労して歌を作ったようだ。

 乳のむと胸にすがれる太郎次郎オランウータンの母はいとしむ  小池光

 おまえだよ、オ・ラ・ン・ウ・ー・タ・ン七つぶん階段のぼってうしろを見るな  東直子

 急行を待つ行列のうしろでは「オランウータン食べられますか」  大滝和子

 小池の歌はオランウータンの母子を登場させて、人間の親子への感情移入という回路に乗せる手堅い方法を採った。名前は知らないが子供の遊戯で、ジャンケンをして、グーで勝ったら「グリコ」と3歩、チョキなら「チヨコレート」で6歩、パーなら「パイナップル」で6歩進む遊びがあるが、東の歌はオランウータンを音節を区切ってその遊戯に乗せた。そして、ホラー風の不気味な「うしろを見るな」という結句を置くことで、オランウータンという言葉の持つ異様さを浮き彫りにした技ありの歌である。大滝の歌はさらに異様で、「オランウータン食べられますか」はほとんど悪食かスプラッタの世界である。この歌の着眼点は、駅で列車を待つという日常のなかに不意に侵入する異物感を浮き彫りにすることにある。小池の手堅いが伝統的な読み込み方は別として、東と大滝の歌の面白さは、ひとえに「オランウータン」という題が、日本語の世界ではこなれた意味をその身にまとっていない異質な語であるという事情に由来する。歌を詠む(読む)とは、日本語を詠む(読む)ことである。それは、私たちが日常生活を通じて、言葉にまといつかせてきた意味(言語学では共時的意味connotation という)を読み解くことに他ならない。

 編集者・沢田康彦が主宰する素人FAX短歌会「猫又」でも、「芽キャベツ」というおもしろい題が出されたことがある。この会は、屈指の名作ぞろいになったのだが、それは「芽キャベツ」という題のユニークさに負うところが大きい。

 「芽キャベツ」は英語で Brussels sproutという。ベルギーのブリュッセル地方で古くから栽培されてきたからである。寒冷地に適した作物なのである。日本には明治初年に導入され、最初は大阪・横浜で栽培されていたという。そのころ日本人で食べる人がいなくて、神戸と横浜の居留地に住む外国人が食べたからだろう。今でも日本人になじみの食材とは言い難い。このため、「芽キャベツ」にまとわりつく意味は、共有化された意味ではなく、歌を作る人が自分で発見したものになる。

 芽きゃべつも靄でしっとり緑色おやすみなさいいつも寂しい 吉野朔実

 漫画家・吉野朔実は、畑で靄に濡れている芽きゃべつを連想している。「おやすみなさい」とあるのは、固く結球を閉じている有様が、目を閉じて眠っている様子を思わせるからだろう。

 めきゃべつは口がかたいふりをして超音波で交信するのだ  鶯まなみ

 鶯まなみは、女優・本上まなみのペンネームである。「口がかたい」という連想はやはり結球の様子から来ている。芽キャベツには、その形状から「内に閉じる」という連想が働く。「超音波で交信する」というのは意外な発想だが、言われてみればそんなふうにも感じられる。

 そこはだめあけてはならぬ芽キャベツの親戚一同が待ち伏せているから  肉球

 芽キャベツを思い浮かべるとき、一個だけをイメージする人は少ないだろう。芽キャベツは必ず同じ形をした複数個としてイメージされる。「芽キャベツの親戚一同」はこの複数のイメージで、「待ち伏せている」というところに、何を考えているかわからない不気味なよそよそしさが現われている。大根やトマトのように食卓に日常的に供される食材とはちがって、芽キャベツが身近でないところに、このよそよそしさという発想の源がある。

 芽キャベツはつやめきながら湯にうかぶ<生まれる前のことを話して> 東直子

 芽キャベツは煮るとつやが増すらしい。「湯にうかぶ」のは茹でているのだろう。<生まれる前のことを話して>は、芽キャベツに話しかけているととるのがふつうだろう。ここには上の歌にあったような芽キャベツの不気味さはなく、キャベツの赤ちゃんと捉えて愛おしむ視線が感じられる。

 芽キャベツは明治初年に日本に渡来したそうだが、斎藤茂吉や正岡子規は芽キャベツを食べたのだろうか。食べたとしても歌に詠むという発想はなかっただろう。斎藤茂吉にはトマトを詠んだ歌があり、「赤茄子」と表記されている。しかし、これはトマトそのものを詠んだものではなく、トマトが腐っている場所から現在自分が居る場所の物理的近さと心理的遠さの対比に眼目がある。

 赤茄子の腐れてゐたるところより幾程もなき歩みなりけり

『岩波現代短歌辞典』は見出し語として歌語をたくさん収録していて、「トマト」は立項されているが芽キャベツはない。やはり身近なものではないのだ。芽キャベツを詠んだ歌というのもあまり思い浮かばないのだが、ひとつ見つけた。

 壁ぎわに影は澄みゆく芽キャベツがこころこころと煮えるゆうべを 佐藤弓生

 この歌の眼目は芽キャベツが煮える「こころこころ」という擬音語にある。芽キャベツの形状から「ころころ」ところがる有様が連想されるが、それを「こころこころ」としたのには、言葉遊びの要素もあるだろうが、目の前のキャセロールの中で煮えている芽キャベツを、自分の心のようだと感じる気持ちもあるからではないだろうか。しかし、この煮え方は、「倖せを疑はざりし妻の日よ蒟蒻ふるふを湯のなかに煮て」(中城ふみ子)のように、不倫と離婚にまつわる激情を感じさせるものではなく、むしろ穏やかで幸せな夕暮れを思わせる。ここでは芽キャベツは、台所で夕食の支度をするささやかな日常の幸福の記号として働いている。芽キャベツが私たちに喚起する意味は、新参者であるがゆえにこのように多彩なのである。