呼びだして妹の意地っ張り
平井 弘『顔をあげる』
平井の短歌には「兄」と「妹」がよく登場する。しかし、それは平井の現実の兄弟姉妹ではなく、昭和11年(1936年)生まれの平井の少し上の世代と下の世代をさす短歌的比喩である。終戦のときに9歳だった平井の兄たちの世代は戦争に行き、戦死した者は二度と帰らなかった。村には自分と妹たちの世代が取り残された。これが平井の短歌に執拗に詠われる主題である。
もう少しも酔わなくなりし眼の中を墜ちゆくとまだ兄の機影は
空に征きし兄たちの群わけり雲わけり葡萄の種吐くむこう
死んでいくものたちは眼をそらさないはず突き刺しておく妹と
脛すこし淫らなるまで踏みいれて苺刈るおぼつかなき妹は
だから、掲載歌の「いる筈のなきものたち」とは、戦死して帰らない兄たちである。その兄たちを執拗に栗の木に呼び出す妹の行為には、どこか性的なところがある。畠に入って苺を刈る妹のむき出しの脛を見ている自分の眼差しにも性がにおう。それは若くして戦死し、結婚することも子を残すこともできなかった兄たちの世代の無念を、平井が自分のものとしているからである。
死者たちの為しえざる愛継ぎしよりわれらに栗の木が騒ぐなり
このように平井は重い主題を短歌に塗り込めているのだが、その歌の魅力は、主題の重さと均衡をとるかのように巧みに計算された、句跨りと字余りを基本とする散文的語法である。掲載歌で見てみると、「いるはずの(5) なきものたちを (7) くりのきに(5)」までの部分は定型に従っているが、下の句が「よびだしていも (7)うとのいじっぱり(8)」と、「いもうと」が句跨りになっていて、全体として字余りである。平井は同世代の村木道彦や少し下の福島泰樹らとともに、短歌に口語を取り入れる手法の開発という点で、短歌の歴史に大きな役割を果たした。平井の作り出した語法はその後、多く歌人の模倣するところとなった。『サラダ記念日』で一世を風靡し、ライトヴァースの旗手と目された俵万智は、平井の短歌について、「ヘタをすると中毒にかかってしまいそうな不思議なリズム感覚」(『短歌をよむ』岩波新書)と表現したが、俵もまた次のような歌を見れば、平井の語法から多くを学んだことは明らかである。
外套の腕絡ませるようにしてなじりくる腹立てなくっていいの(平井弘)
「嫁さんになれよ」だなんてカンチューハイ二本で言ってしまっていいの(俵万智)
俵より上の世代に属する河野裕子の次の歌にもまた、平井の語法の影響は顕著である。
例えば 羊のようかもしれぬ草の上に押さえてみれば君の力も(平井弘)
たとへば君 ガサッと落葉すくふやうに私をさらつて行つてくれぬか(河野裕子)
特に平井の歌の魅力は、下の句に集中する散文的語法とともに、途中で口をつぐみ、残りはつぶやきとなって消えて行くような含羞に満ちたその言葉遣いにある。
膝ひらいて搬ばれながらどのような恥しくない倒されかたが
アキアカネ殺してなにも起こらねばましてひきとめなかっただけで
塚本邦雄は平井を評して、「四半世紀後のライトヴァースを予言するような文体だが、この苦みは空前絶後である」とし、「再評価、再々評価されて然るべき、稀なる歌人の一人である」(『現代百歌園』)と絶賛した。しかし、第一歌集『顔をあげる』(1961年)の出版以後、平井は7年にわたって沈黙し、その後、冨士田元彦の奨めにより作歌を再開して第二歌集『前線』(1976年)を上梓したのち、そのまま「歌のわかれ」をしてしまう。
兄が征き妹と私が残された村という独特の視座から戦後を凝視した平井は、まぎれもなく「遅れて来た青年」(冨士田元彦)であった。日本はやがて高度成長期を迎え、妹たちは村から都会に出て、団地に住みそれぞれの伴侶を得るとともに、兄たちは忘れ去られた。「もはや戦後ではない」と言われた日本のなかにおいて、平井はかつての自分の短歌のよりどころとした視座に替わる新しい視座を獲得することがついにできなかったのである。
【追記】
平井はおそらく冨士田元彦の奨めで作歌を再開し、『現代短歌 雁』にこのところ毎号のように出稿している。しかし残念なことに現在の平井の作る短歌には、かつての輝きはない。