『現代短歌100人20首』(邑書林)は、100人の歌人を選び、自薦20首と作歌信条30字以内をあわせて掲載した、なかなかおもしろい趣向のアンソロジーである。最年少の永田紅から最年長の浜田康敬までがずらりと並んでいる。編集は小池光、今野寿美、山田富士郎。こういうアンソロジーでは、それぞれの歌人が自薦20首に何を選んでいるかが興味深いが、これは別に論じる予定の代表歌に譲るとして、もっとおもしろいのは作歌信条30字以内の方だ。これは読んでいると興味尽きないのである。
年の若い歌人は、概して初々しく生真面目に、優等生的な作歌信条を披瀝している。
永田紅
定型を信頼して作り続ける。
横山未来子
言葉のもつ力を活かしながら、生を基盤とした歌を作ってゆきたい。
吉川宏志
言葉の手触りを大切にしつつ、生の実感に根ざした表現を生み出す。
〈言葉〉と〈生〉の間に成立する関係性が短歌の核心であるのだから、作歌信条が両者をいかに架橋するかに集中するのはある意味当然と言えよう。結果としてよく似た信条となる。
しかし、歌人も年を重ね経験を積むと、次のように煮ても焼いても食えない人たちと化すのである。
小池純代
歌わなければからだにわるい。
小池光
信条、そういうものはない。
穂村弘
愛の希求の絶対性。
小池光はこのアンソロジーの企画立案をした編者のひとりなのだから、「それはないだろう」とツッコミを入れたくなるが、この答えはいかにも小池らしい。決してはぐらかしているのではなく、この返答の背後には、短歌に対する小池の優れて戦略的思考が潜んでいるのである。一方、穂村の答えは、ある意味感動的ですらある。穂村の著書『世界音痴』の愛読者としては、このなかの「絶対性」は「不可能性」と等価交換できるように思う。この作歌信条を見てから、「サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい」のような破天荒な歌を読み返すと、「そうだったのか!」という気になるから不思議である。
何人かの歌人は、信条を短歌形式で披露している。こんなことができるのも、短歌のおもしろさだ。これは短歌を作る心構えを短歌で表現しており、「短歌についての短歌」だから、メタ短歌と言ってもよいのである。
加藤治郎
ぼくはただ口語のかおる部屋で待つ遅れて喩からあがってくるまで
大塚寅彦
一凡打にイチローは極意つかみしとふわれも凡打の歌かさねゆかむ
三枝昂之
どんな日々にも放蕩はあり花はあり歌の汀へゆっくり歩む
藤井常世
歌いつくすことあらざらむゆくすゑは花の山姥山めぐる歌
佐佐木幸綱
直立せよ一行の詩 陽炎に揺れつつまさに大地さわげる
加藤の歌はこの機会に作ったものではなく、第一歌集『サニーサイド・アップ』収録の歌の使い回しである。加藤がふだんからこのような歌を作っていることは、加藤の短歌には〈どのように短歌を作るか〉という技法論が、常設展示のように組み込まれているということを示している。大塚と三枝の歌が既作歌か新作かはよくわからない。三枝の七・七・五・七・七の初句二音余りの破調の歌は、とても美しくてうっとりしてしまう。佐佐木の「直立せよ」は、言うまでもなく『直立せよ 一行の詩』(1972)のタイトルともなった佐佐木の代表歌である。
上にあげた永田・横山・吉川らは、すでに指摘したように、〈言葉〉と〈生〉の関係性に作歌の基軸を据えていた。しかし、〈言葉〉と〈生〉とがじかに触れ合うことは、そういつでもあることではなく、ふつうは両者の間にさまざまなものが介在する。そのひとつに、社会があり、歴史があり、ときに時代と政治がある。次の歌人たちはむしろ、〈言葉〉と〈生〉の間に否応なしに割り込んで来るものとして、社会や歴史にこだわり続けている人たちである。
谷岡亜紀
言葉を恐れつつ、〈世界〉との対立葛藤のある作品を目指したい。
山田富士郎
ここと今を手離さず、魂を歴史の搾木にかける、それも楽しく。
島田修三
流動する時代・社会に生きて在る「私」の実感を歌いとどめること。
小嵐九八郎
食いつなぎながら、失いしものらへの魂の吹きこみ。
福島泰樹
直接伝達詩型短歌は、烈しく痛切な命の詩型である。
山田と島田は1950年生まれ、谷岡は1959年でやや年下だが、こういう感じ方はこのあたりが年齢的に下限だろうか。小嵐と福島の信条には、それとわかる形では歴史や社会や政治という単語は含まれていないが、その履歴を知る者にとっては、行間に滲み出ていることは明白である。ふたりとも浪漫的方向に進んでいることは興味深い。小嵐が講談社のPR誌『本』に連載していた「蜂起には至らず 新左翼死人列伝」は愛読していたが、最近本になった。「鰰(はたはた)はどこさ逃げたか聴けばあだシベリアおろしの風っこ騒ぐ」のような、故郷秋田の方言を駆使した民衆的土俗的な短歌を作る人である。
このようにさまざまなスタンスから披瀝された作歌信条があるが、私が一番心を打たれたのは次の村木の信条にとどめをさす。
村木道彦
神も思想も信じない現代人の、人間自体に対する祈りが歌である。
村木は自薦20首に、伝説的歌集『天唇』から一首も採らず、すべて歌集未収録歌から選んでいる。「歌のわかれ」を通過して、過去の自分を否定、もしくは否認しているからであることは言うまでもない。数首引いておこう。
夭死なる齢にはるか杳(とほ)くきて谷おりゆけば水流の音
傷口をこころにもてばガラス戸の雨滴は花のごとくひろがる
壮年に春は深しも翔けのぼる雲雀を蒼天の冥きに吸われ
年の若い歌人は、概して初々しく生真面目に、優等生的な作歌信条を披瀝している。
永田紅
定型を信頼して作り続ける。
横山未来子
言葉のもつ力を活かしながら、生を基盤とした歌を作ってゆきたい。
吉川宏志
言葉の手触りを大切にしつつ、生の実感に根ざした表現を生み出す。
〈言葉〉と〈生〉の間に成立する関係性が短歌の核心であるのだから、作歌信条が両者をいかに架橋するかに集中するのはある意味当然と言えよう。結果としてよく似た信条となる。
しかし、歌人も年を重ね経験を積むと、次のように煮ても焼いても食えない人たちと化すのである。
小池純代
歌わなければからだにわるい。
小池光
信条、そういうものはない。
穂村弘
愛の希求の絶対性。
小池光はこのアンソロジーの企画立案をした編者のひとりなのだから、「それはないだろう」とツッコミを入れたくなるが、この答えはいかにも小池らしい。決してはぐらかしているのではなく、この返答の背後には、短歌に対する小池の優れて戦略的思考が潜んでいるのである。一方、穂村の答えは、ある意味感動的ですらある。穂村の著書『世界音痴』の愛読者としては、このなかの「絶対性」は「不可能性」と等価交換できるように思う。この作歌信条を見てから、「サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい」のような破天荒な歌を読み返すと、「そうだったのか!」という気になるから不思議である。
何人かの歌人は、信条を短歌形式で披露している。こんなことができるのも、短歌のおもしろさだ。これは短歌を作る心構えを短歌で表現しており、「短歌についての短歌」だから、メタ短歌と言ってもよいのである。
加藤治郎
ぼくはただ口語のかおる部屋で待つ遅れて喩からあがってくるまで
大塚寅彦
一凡打にイチローは極意つかみしとふわれも凡打の歌かさねゆかむ
三枝昂之
どんな日々にも放蕩はあり花はあり歌の汀へゆっくり歩む
藤井常世
歌いつくすことあらざらむゆくすゑは花の山姥山めぐる歌
佐佐木幸綱
直立せよ一行の詩 陽炎に揺れつつまさに大地さわげる
加藤の歌はこの機会に作ったものではなく、第一歌集『サニーサイド・アップ』収録の歌の使い回しである。加藤がふだんからこのような歌を作っていることは、加藤の短歌には〈どのように短歌を作るか〉という技法論が、常設展示のように組み込まれているということを示している。大塚と三枝の歌が既作歌か新作かはよくわからない。三枝の七・七・五・七・七の初句二音余りの破調の歌は、とても美しくてうっとりしてしまう。佐佐木の「直立せよ」は、言うまでもなく『直立せよ 一行の詩』(1972)のタイトルともなった佐佐木の代表歌である。
上にあげた永田・横山・吉川らは、すでに指摘したように、〈言葉〉と〈生〉の関係性に作歌の基軸を据えていた。しかし、〈言葉〉と〈生〉とがじかに触れ合うことは、そういつでもあることではなく、ふつうは両者の間にさまざまなものが介在する。そのひとつに、社会があり、歴史があり、ときに時代と政治がある。次の歌人たちはむしろ、〈言葉〉と〈生〉の間に否応なしに割り込んで来るものとして、社会や歴史にこだわり続けている人たちである。
谷岡亜紀
言葉を恐れつつ、〈世界〉との対立葛藤のある作品を目指したい。
山田富士郎
ここと今を手離さず、魂を歴史の搾木にかける、それも楽しく。
島田修三
流動する時代・社会に生きて在る「私」の実感を歌いとどめること。
小嵐九八郎
食いつなぎながら、失いしものらへの魂の吹きこみ。
福島泰樹
直接伝達詩型短歌は、烈しく痛切な命の詩型である。
山田と島田は1950年生まれ、谷岡は1959年でやや年下だが、こういう感じ方はこのあたりが年齢的に下限だろうか。小嵐と福島の信条には、それとわかる形では歴史や社会や政治という単語は含まれていないが、その履歴を知る者にとっては、行間に滲み出ていることは明白である。ふたりとも浪漫的方向に進んでいることは興味深い。小嵐が講談社のPR誌『本』に連載していた「蜂起には至らず 新左翼死人列伝」は愛読していたが、最近本になった。「鰰(はたはた)はどこさ逃げたか聴けばあだシベリアおろしの風っこ騒ぐ」のような、故郷秋田の方言を駆使した民衆的土俗的な短歌を作る人である。
このようにさまざまなスタンスから披瀝された作歌信条があるが、私が一番心を打たれたのは次の村木の信条にとどめをさす。
村木道彦
神も思想も信じない現代人の、人間自体に対する祈りが歌である。
村木は自薦20首に、伝説的歌集『天唇』から一首も採らず、すべて歌集未収録歌から選んでいる。「歌のわかれ」を通過して、過去の自分を否定、もしくは否認しているからであることは言うまでもない。数首引いておこう。
夭死なる齢にはるか杳(とほ)くきて谷おりゆけば水流の音
傷口をこころにもてばガラス戸の雨滴は花のごとくひろがる
壮年に春は深しも翔けのぼる雲雀を蒼天の冥きに吸われ