若い人は知らないだろうが、卵は昔は貴重品だった。割れないようにもみ殻に入れて保存され、精がつくからという理由で、病人への見舞いによく使われた。近代以前の和歌に卵が詠まれた例をあまり知らないが、近代以降の短歌にはよく登場する。やや縦長の丸い形状、割れやすい殻、とりわけ内部に命を宿しているということが、豊かな象徴性を帯びる理由なのだろう。キリスト教では復活祭に彩色した卵を飾るが、これも生命の復活・再生を表わしていることは言うまでもない。またお隣の韓国には卵生神話というのがあり、伝説上の英雄は卵から生まれたとされているという。卵の持つ不思議な性質が、いかに昔の人々の想像力をかき立てたかをよく示している。
近代短歌で卵の歌というと、どうしても次の歌が最初に頭に浮かぶ。
突風に生卵割れ、かつてかく撃ちぬかれたる兵士の眼 塚本邦雄
ここで焦点が当てられているのは、殻がもろくて割れやすいという性質である。卵の持つこの性質は、豊かな譬喩の揺籃となるが、塚本の譬喩は鮮烈なイメージを残す。卵が激しく割れて卵白と卵黄がごちゃまぜになって流れ出すように、撃ちぬかれた兵士の眼からも流れ出すものがあるはずだ。生卵のもろさは、戦争の惨禍の犠牲となった人間の生身のもろさと呼応している。ちなみに、結句七音からして、最後の「眼」は「まなこ」と読むべきだろう。
取り落とし床に割れたる鶏卵を拭きつつなぜか湧く涙あり 道浦母都子
同じように卵が割れる場面を詠みながら、塚本の短歌の高度の象徴性にくらべて、こちらはずっと日常性と作者の心情に傾斜している。言うまでもないことだが、泣いているのは卵を落として割ったからではなく、別のところに理由があるが、それが何かは定かではない。しかし、卵を落として割れば、流れ出した中身を復元することはできない。だから取り返しのつかない出来事の喩として成立するのである。
殻うすき鶏卵を陽に透かし内より吾を責むるもの何 松田さえ子
卵を光線に透かすとぼんやり中身が見える。それが自分を責めているように感じるというのだが、もとより卵が責めているのではない。見ている作者の置かれた境遇と心情が、そのように見させているというにすぎない。松田は家庭の不幸をよく歌にしたので、嫁して数年経ても、いまだ子が生まれないことを婚家から責められているのかも知れない。ならば卵の喩ももっともである。
冷蔵庫にほのかに明かき鶏卵の、だまされて来し一生(ひとよ)のごとし 岡井隆
冷蔵庫ひらきてみれば鶏卵は墓のしずけさもちて並べり 大滝和子
ほんとうにおれのもんかよ冷蔵庫の卵置き場に落ちる涙は 穂村弘
昔は薄暗い台所の片隅にザルに入れて置かれていた卵も、現代ではその定位置は冷蔵庫と決まっている。卵というとどうしても冷蔵庫が登場することになるが、こうして3首並べてみると、ずいぶん趣の異なる歌が並んだ。いちばんわかりやすいのは大滝の歌で、卵が墓のように整列して並んでいる様を詠んだものである。ポイントはふたつあり、ひとつは卵の殻の白さが墓標を連想させたこと。もうひとつは、卵は生命を胚胎しているにもかかわらず、それとは逆に墓場を連想したことである。この連合と飛躍がこの歌を成立させている。
岡井の歌は少々わかりにくい。本来ならヒナを生むはずの卵が、冷蔵庫で食べられるのを待っているということが、だまされて来た一生を連想させるということかとも思うが、この読みに確信はない。しかし、ほのかに口中に苦さを感じさせる歌ではある。これに対して、穂村の歌では卵はたいした役割を演じていない。別に卵置き場でなくてもよい、やけっぱちの歌である。
卵はもちろん食べるものであり、日本では和食・洋食を問わず、朝食の食卓にのることが多い。ただし、卵を食べるといっても、そこは歴戦の強者揃いの歌人のこと、一筋縄ではいかないのである。
卵もて食卓を打つ朝の音ひそやかに我はわがいのち継ぐ 高野公彦
鳥の卵ひとつのみほすあけぼのへ冷え冷えと立つをとこののみど 小池光
うちつけに割つてさばしる血のすぢを鳥占とせむ春たつ卵 高橋睦郎
卵黄吸ひし孔ほの白し死はかかるやさしきひとみもてわれを視む 塚本邦雄
高野の歌はいちばん素直といえば素直だろう。卵を自分の命を明日につなぐ食料として捉えている。もちろんポイントは「ひそやかに」であり、これがないと歌として成立しない。卵を食卓に打ちつけているので、これは茹で卵だろう。しかし、昔は精をつけると称して生卵を飲むことがよくあった。小池の歌はその情景である。明け方に生卵を飲み干す男の上下に動く喉が、寒々しいと同時に奇妙に生々しい光景を作り出している。巧者高橋の歌は凝った作りだ。割った卵に赤い血の筋がついていることがある。これを鳥占に見立てている。鳥占とは、年の初めに山で捕った鳥の腹に穀物があれば豊作、なければ凶作と判定する年占の一種である。また「春たつ卵」も曲者で、本来「春立つ」は「春になる」の意だが、卵は春になると縦に立つという言い伝えをどこかで聞いた記憶がある。もしそうなら「春たつ卵」は両方の意味をかけていることになる。塚本の歌でも、生卵を吸っているのだが、ここでは卵そのものではなく、吸ったあとに殻に残った穴が問題である。それを自分を見つめる死の瞳に見立てている譬喩が秀逸と言えよう。七・七・五・七・七 (または七・七・五・九・五)の破調の韻律もまた、塚本らしい前衛短歌の一首である。
生(あ)るることなくて腐(く)えなん鴨卵(かりのこ)の無言の白のほの明りかも 馬場あき子
永遠にきしみつづける蝶番 無精卵抱く鳥は眠れり 錦見映理子
鮮麗なわが朝のため甃(いしみち)にながれてゐたる卵黄ひとつ 小池光
女学生 卵を抱けりその殻のうすくれなゐの悲劇を忘れ 黒瀬珂瀾
半日かけて卵の歌を探していて不思議に思ったのは、卵が生命を孵すことをストレートに祝福する歌が見あたらないことだ。近代化された鶏卵業界では、私たちの手に届くのはパック詰めされた無精卵だからかも知れない。いずれにせよ、歌人が卵に注ぐ眼差しは、卵という形象の薄暗い方面へと収斂している様子である。上にあげた4首はそれぞれに、卵を不毛性の象徴として詠っており、そのトーンの類似は驚くばかりである。黒瀬の歌では「うすくれなゐ」となっているから、卵の色は白ではなく赤玉だと思われる。ふつう卵は白として形象されることが多い中では珍しい。ちなみにフランスでは卵はすべて赤玉で、白いものは売っていない。
最後に、食材でもなく不毛の象徴でもなく、卵の存在そのものを詠った歌をあげる。
卵ひとつありき恐怖(おそれ)につつまれて光冷たき小皿のなかに 前田夕暮
てのひらに卵をうけたところからひずみはじめる星の重力 佐藤弓生
前田の歌は、卵という物体そのものの存在感と不思議を歌にしたもので、卵の歌のなかでは白眉というべき名歌である。こういう歌を読むと、それまで茫洋としていた世界に、くっきりとした輪郭と深い彫りが与えられ、目が覚めるような気がする。また佐藤の歌では、卵を手のひらに置いたときの感触が詠われている点が、他の類歌とは異なり新鮮である。確かに卵の大きさのその曲面は、手のひらのくぼみにすっぽりと収まる。また大きさのわりに手に重みを感じるのは、中に命があるからか。その感触を「ひずみはじめる星の重力」と表現するところが、歌人の想像力なのである。
近代短歌で卵の歌というと、どうしても次の歌が最初に頭に浮かぶ。
突風に生卵割れ、かつてかく撃ちぬかれたる兵士の眼 塚本邦雄
ここで焦点が当てられているのは、殻がもろくて割れやすいという性質である。卵の持つこの性質は、豊かな譬喩の揺籃となるが、塚本の譬喩は鮮烈なイメージを残す。卵が激しく割れて卵白と卵黄がごちゃまぜになって流れ出すように、撃ちぬかれた兵士の眼からも流れ出すものがあるはずだ。生卵のもろさは、戦争の惨禍の犠牲となった人間の生身のもろさと呼応している。ちなみに、結句七音からして、最後の「眼」は「まなこ」と読むべきだろう。
取り落とし床に割れたる鶏卵を拭きつつなぜか湧く涙あり 道浦母都子
同じように卵が割れる場面を詠みながら、塚本の短歌の高度の象徴性にくらべて、こちらはずっと日常性と作者の心情に傾斜している。言うまでもないことだが、泣いているのは卵を落として割ったからではなく、別のところに理由があるが、それが何かは定かではない。しかし、卵を落として割れば、流れ出した中身を復元することはできない。だから取り返しのつかない出来事の喩として成立するのである。
殻うすき鶏卵を陽に透かし内より吾を責むるもの何 松田さえ子
卵を光線に透かすとぼんやり中身が見える。それが自分を責めているように感じるというのだが、もとより卵が責めているのではない。見ている作者の置かれた境遇と心情が、そのように見させているというにすぎない。松田は家庭の不幸をよく歌にしたので、嫁して数年経ても、いまだ子が生まれないことを婚家から責められているのかも知れない。ならば卵の喩ももっともである。
冷蔵庫にほのかに明かき鶏卵の、だまされて来し一生(ひとよ)のごとし 岡井隆
冷蔵庫ひらきてみれば鶏卵は墓のしずけさもちて並べり 大滝和子
ほんとうにおれのもんかよ冷蔵庫の卵置き場に落ちる涙は 穂村弘
昔は薄暗い台所の片隅にザルに入れて置かれていた卵も、現代ではその定位置は冷蔵庫と決まっている。卵というとどうしても冷蔵庫が登場することになるが、こうして3首並べてみると、ずいぶん趣の異なる歌が並んだ。いちばんわかりやすいのは大滝の歌で、卵が墓のように整列して並んでいる様を詠んだものである。ポイントはふたつあり、ひとつは卵の殻の白さが墓標を連想させたこと。もうひとつは、卵は生命を胚胎しているにもかかわらず、それとは逆に墓場を連想したことである。この連合と飛躍がこの歌を成立させている。
岡井の歌は少々わかりにくい。本来ならヒナを生むはずの卵が、冷蔵庫で食べられるのを待っているということが、だまされて来た一生を連想させるということかとも思うが、この読みに確信はない。しかし、ほのかに口中に苦さを感じさせる歌ではある。これに対して、穂村の歌では卵はたいした役割を演じていない。別に卵置き場でなくてもよい、やけっぱちの歌である。
卵はもちろん食べるものであり、日本では和食・洋食を問わず、朝食の食卓にのることが多い。ただし、卵を食べるといっても、そこは歴戦の強者揃いの歌人のこと、一筋縄ではいかないのである。
卵もて食卓を打つ朝の音ひそやかに我はわがいのち継ぐ 高野公彦
鳥の卵ひとつのみほすあけぼのへ冷え冷えと立つをとこののみど 小池光
うちつけに割つてさばしる血のすぢを鳥占とせむ春たつ卵 高橋睦郎
卵黄吸ひし孔ほの白し死はかかるやさしきひとみもてわれを視む 塚本邦雄
高野の歌はいちばん素直といえば素直だろう。卵を自分の命を明日につなぐ食料として捉えている。もちろんポイントは「ひそやかに」であり、これがないと歌として成立しない。卵を食卓に打ちつけているので、これは茹で卵だろう。しかし、昔は精をつけると称して生卵を飲むことがよくあった。小池の歌はその情景である。明け方に生卵を飲み干す男の上下に動く喉が、寒々しいと同時に奇妙に生々しい光景を作り出している。巧者高橋の歌は凝った作りだ。割った卵に赤い血の筋がついていることがある。これを鳥占に見立てている。鳥占とは、年の初めに山で捕った鳥の腹に穀物があれば豊作、なければ凶作と判定する年占の一種である。また「春たつ卵」も曲者で、本来「春立つ」は「春になる」の意だが、卵は春になると縦に立つという言い伝えをどこかで聞いた記憶がある。もしそうなら「春たつ卵」は両方の意味をかけていることになる。塚本の歌でも、生卵を吸っているのだが、ここでは卵そのものではなく、吸ったあとに殻に残った穴が問題である。それを自分を見つめる死の瞳に見立てている譬喩が秀逸と言えよう。七・七・五・七・七 (または七・七・五・九・五)の破調の韻律もまた、塚本らしい前衛短歌の一首である。
生(あ)るることなくて腐(く)えなん鴨卵(かりのこ)の無言の白のほの明りかも 馬場あき子
永遠にきしみつづける蝶番 無精卵抱く鳥は眠れり 錦見映理子
鮮麗なわが朝のため甃(いしみち)にながれてゐたる卵黄ひとつ 小池光
女学生 卵を抱けりその殻のうすくれなゐの悲劇を忘れ 黒瀬珂瀾
半日かけて卵の歌を探していて不思議に思ったのは、卵が生命を孵すことをストレートに祝福する歌が見あたらないことだ。近代化された鶏卵業界では、私たちの手に届くのはパック詰めされた無精卵だからかも知れない。いずれにせよ、歌人が卵に注ぐ眼差しは、卵という形象の薄暗い方面へと収斂している様子である。上にあげた4首はそれぞれに、卵を不毛性の象徴として詠っており、そのトーンの類似は驚くばかりである。黒瀬の歌では「うすくれなゐ」となっているから、卵の色は白ではなく赤玉だと思われる。ふつう卵は白として形象されることが多い中では珍しい。ちなみにフランスでは卵はすべて赤玉で、白いものは売っていない。
最後に、食材でもなく不毛の象徴でもなく、卵の存在そのものを詠った歌をあげる。
卵ひとつありき恐怖(おそれ)につつまれて光冷たき小皿のなかに 前田夕暮
てのひらに卵をうけたところからひずみはじめる星の重力 佐藤弓生
前田の歌は、卵という物体そのものの存在感と不思議を歌にしたもので、卵の歌のなかでは白眉というべき名歌である。こういう歌を読むと、それまで茫洋としていた世界に、くっきりとした輪郭と深い彫りが与えられ、目が覚めるような気がする。また佐藤の歌では、卵を手のひらに置いたときの感触が詠われている点が、他の類歌とは異なり新鮮である。確かに卵の大きさのその曲面は、手のひらのくぼみにすっぽりと収まる。また大きさのわりに手に重みを感じるのは、中に命があるからか。その感触を「ひずみはじめる星の重力」と表現するところが、歌人の想像力なのである。