天ふかく陽(ひ)の道ありぬあぢさゐの
露けき青の花群(はなむら)のうへ
高野公彦
露けき青の花群(はなむら)のうへ
高野公彦
梅雨の季節がまたやってきた。梅雨は嫌う人が多いが、私はまんざら嫌いでもない。湿度と降雨にアジアの湿潤を実感するからである。梅雨を代表する花といえばアジサイだろう。アジサイは6月という近代短歌の歌枕と結びついて、短歌ではよく登場する花である。漢字では紫陽花と書き、短歌では「あぢさゐ」と表記されることが多い。
ものの本によるとアジサイは日本固有の植物で古くから自生し、万葉集にはアジサイを詠んだ歌が2首あるという。しかし短歌によく登場するようになるのは近代短歌の時代を迎えてからであり、特に戦後になってからだそうだ。
『岩波現代短歌辞典』によれば、明治時代にアジサイを詠んだ歌には、即物的な花の形や色に焦点を当てたものが多く、特に何かの心情を託した歌は少ないという。次の宇都野研の歌はずばり形と色の変化に着目したものであり、与謝野晶子の歌はアジサイの花を花櫛に見立てたものである。
球形(たまがた)のまとまりくれば梅雨の花あぢさゐは移る群青の色に 宇都野研
紫陽花も花櫛したる頭をばうち傾けてなげく夕ぐれ 与謝野晶子
アジサイの歌として有名なのは次の歌である。しかし、ここではアジサイの藍色という色彩に言及されているだけであり、この歌の眼目はむしろ下句の「ぬばたまの夜あさねさす昼」で、古風な枕詞をあえて連ねることで昼夜の交代から時間の変化を感じさせる仕掛けになっている。
あぢさゐの藍のつゆけき花ありぬぬばたまの夜あさねさす昼 佐藤佐太郎
アジサイの他の花にない特徴としては、やはりその丸く咲く球形花序という特殊な形と、色彩が変化するという点であり、この点に着目した歌が多くあるのは自然と言えるだろう。
美しき球の透視をゆめむべくあぢさゐの花あまた咲きたり 葛原妙子
昼の視力まぶしむしばし 紫陽花の球に白き嬰児ゐる
紫陽花のむらがる窓に重なり大き地球儀の球は冷えゐつ
「幻視の女王」葛原は「球形」という形にこだわりがあり、球形花序を持つアジサイは特に好みの花だったと思われる。球形は幻視を誘う誘因であり、上にあげた3首でもその効果はいかんなく発揮されている。特に3首目では、アジサイの球形と地球儀の球とが重なるという趣向であり、葛原の球形への偏愛がダブルで現われているところがおもしろい。
あじさいにバイロン卿の目の色の宿りはじめる季節と呼ばむ 大滝和子
あじさいの色づく速さかなしみて吾のかたえに立ちたまえかし
大滝の歌では特にアジサイの色に焦点が当てられている。バイロン卿の目の色が何色だったのか知らないが、おそらく透明感のあるブルーだと想像される。青または藍という表現ではなく、「バイロン卿の目の色」という措辞によって、一首に華やかさと象徴性と、一抹の悲劇性が付与されている。
近代短歌において特に好まれたのは、アジサイの花にまとわりつくこの悲劇性という象徴的価値である。
森駈けてきてほてりたるわが頬をうずめんとするに紫陽花くらし 寺山修司
寺山が15歳のときに作ったこの有名な歌には、色濃く現われている青春性と、それとは対照的なアジサイの「暗さ」が際立っている。同じ時期の「列車にて遠く見ている向日葵は少年のふる帽子のごとし」に見られるヒマワリの陽性とは逆である。ヒマワリが畑などの開けた場所に太陽を浴びて咲いているのとは異なり、梅雨どきの雨のなか下町の路地裏に咲くというアジサイがこの悲劇的なイメージの由来なのだろうか。
60年安保闘争という戦後最大の社会史的事件は、短歌史にとっても重要な節目であるが、6月に咲くアジサイに決定的な象徴的価値を付与したと言ってよいだろう。
色変えてゆく紫陽花の開花期に触れながら触れがたきもの確かめる 岸上大作
あじさいに降る六月の雨暗くジョジョーよ後はお前が歌え 福島泰樹
結句の「確かめる」という終止形が岸上らしさを強く感じさせる一首である。「触れがたきもの」とは自分の揺れ動く心だろう。福島の歌は、岸上への10年後の挽歌である。6月という月もまた現代短歌の季語となり、アジサイの叙情的価値を増幅している。この世代にとって、敗北感と悔恨にまみれた6月の雨はひたすら暗いのである。
小池光によれば、アジサイは現代短歌ではもっともよく詠われている花のひとつであり、どんな歌集を繙いても一首くらいはアジサイの歌が見つかるという。しかし歌人のなかには、特に好んでアジサイを詠う人もいる。掲載歌の高野公彦もそのひとりである。掲載歌は地上にうずくまるようにして咲くアジサイと、天上を移動する太陽の軌跡とを対比させた、いかにも高野らしい遠近感のある歌である。他には次のような歌もある。
みづいろのあぢさゐに淡き紅さして雨ふれり雨のかなたの死者よ 高野公彦
あぢさゐの毬寄り合ひて色づけり鬼(もの)籠(こ)もらする如きしづけさ
アジサイにかなたの死者を思い、その球形花序に鬼神が隠れていると幻視する。どうもアジサイにはこのような連想を誘うところがあるようだ。
小島ゆかりもまた好んでアジサイを詠う歌人のひとりである。
紫陽花にひねもす眠りゆふまぐれ猫は水色の眸(まなこ)を瞠く 小島ゆかり
雨に濡れあぢさゐを剪(き)りてゐる女(ひと)の素足にほそく静脈浮けり
影もたぬ妖(あやかし)われは歩み来て雨中に昏きあぢさゐ覗く
ものぐらく花塊(かたま)れるあぢさゐを過りて杳(とほ)し死までの歩み
1首目では、猫の見開いた目の水色とアジサイの花の色とが呼応して、ボードレールの万物照応のごとき世界が開かれており、短歌の醍醐味を感じさせる一首である。2首目の眼目は、花の色と女性の足に浮く静脈の対比であり、そこはかとないエロチシズムを感じさせる。3首目では自分を怪しい存在と見立てているが、その怪しさを際立たせているのがアジサイを覗くという動作であることは言うまでもない。ここでもアジサイは昏いのである。4首目はものぐらく咲くアジサイの花群と、その傍らを通り過ぎる私の歩みの対比が、死までの歩みという時間の流れを浮き彫りにする構造になっている。
最近の若い歌人は、古典的短歌の花鳥風月とは切れた地平で作歌しているので、植物を歌に詠み込むことが少ないようだ。それよりも、「歯ブラシ」とか「ペットボトル」とか「シュガーレスガム」のようなコンビニで売られている日常用品の方がよく歌に登場する。もうしばらくすると、近代短歌の歌人たちがアジサイに与えてきた象徴的価値もなくなってしまうかもしれない。
ものの本によるとアジサイは日本固有の植物で古くから自生し、万葉集にはアジサイを詠んだ歌が2首あるという。しかし短歌によく登場するようになるのは近代短歌の時代を迎えてからであり、特に戦後になってからだそうだ。
『岩波現代短歌辞典』によれば、明治時代にアジサイを詠んだ歌には、即物的な花の形や色に焦点を当てたものが多く、特に何かの心情を託した歌は少ないという。次の宇都野研の歌はずばり形と色の変化に着目したものであり、与謝野晶子の歌はアジサイの花を花櫛に見立てたものである。
球形(たまがた)のまとまりくれば梅雨の花あぢさゐは移る群青の色に 宇都野研
紫陽花も花櫛したる頭をばうち傾けてなげく夕ぐれ 与謝野晶子
アジサイの歌として有名なのは次の歌である。しかし、ここではアジサイの藍色という色彩に言及されているだけであり、この歌の眼目はむしろ下句の「ぬばたまの夜あさねさす昼」で、古風な枕詞をあえて連ねることで昼夜の交代から時間の変化を感じさせる仕掛けになっている。
あぢさゐの藍のつゆけき花ありぬぬばたまの夜あさねさす昼 佐藤佐太郎
アジサイの他の花にない特徴としては、やはりその丸く咲く球形花序という特殊な形と、色彩が変化するという点であり、この点に着目した歌が多くあるのは自然と言えるだろう。
美しき球の透視をゆめむべくあぢさゐの花あまた咲きたり 葛原妙子
昼の視力まぶしむしばし 紫陽花の球に白き嬰児ゐる
紫陽花のむらがる窓に重なり大き地球儀の球は冷えゐつ
「幻視の女王」葛原は「球形」という形にこだわりがあり、球形花序を持つアジサイは特に好みの花だったと思われる。球形は幻視を誘う誘因であり、上にあげた3首でもその効果はいかんなく発揮されている。特に3首目では、アジサイの球形と地球儀の球とが重なるという趣向であり、葛原の球形への偏愛がダブルで現われているところがおもしろい。
あじさいにバイロン卿の目の色の宿りはじめる季節と呼ばむ 大滝和子
あじさいの色づく速さかなしみて吾のかたえに立ちたまえかし
大滝の歌では特にアジサイの色に焦点が当てられている。バイロン卿の目の色が何色だったのか知らないが、おそらく透明感のあるブルーだと想像される。青または藍という表現ではなく、「バイロン卿の目の色」という措辞によって、一首に華やかさと象徴性と、一抹の悲劇性が付与されている。
近代短歌において特に好まれたのは、アジサイの花にまとわりつくこの悲劇性という象徴的価値である。
森駈けてきてほてりたるわが頬をうずめんとするに紫陽花くらし 寺山修司
寺山が15歳のときに作ったこの有名な歌には、色濃く現われている青春性と、それとは対照的なアジサイの「暗さ」が際立っている。同じ時期の「列車にて遠く見ている向日葵は少年のふる帽子のごとし」に見られるヒマワリの陽性とは逆である。ヒマワリが畑などの開けた場所に太陽を浴びて咲いているのとは異なり、梅雨どきの雨のなか下町の路地裏に咲くというアジサイがこの悲劇的なイメージの由来なのだろうか。
60年安保闘争という戦後最大の社会史的事件は、短歌史にとっても重要な節目であるが、6月に咲くアジサイに決定的な象徴的価値を付与したと言ってよいだろう。
色変えてゆく紫陽花の開花期に触れながら触れがたきもの確かめる 岸上大作
あじさいに降る六月の雨暗くジョジョーよ後はお前が歌え 福島泰樹
結句の「確かめる」という終止形が岸上らしさを強く感じさせる一首である。「触れがたきもの」とは自分の揺れ動く心だろう。福島の歌は、岸上への10年後の挽歌である。6月という月もまた現代短歌の季語となり、アジサイの叙情的価値を増幅している。この世代にとって、敗北感と悔恨にまみれた6月の雨はひたすら暗いのである。
小池光によれば、アジサイは現代短歌ではもっともよく詠われている花のひとつであり、どんな歌集を繙いても一首くらいはアジサイの歌が見つかるという。しかし歌人のなかには、特に好んでアジサイを詠う人もいる。掲載歌の高野公彦もそのひとりである。掲載歌は地上にうずくまるようにして咲くアジサイと、天上を移動する太陽の軌跡とを対比させた、いかにも高野らしい遠近感のある歌である。他には次のような歌もある。
みづいろのあぢさゐに淡き紅さして雨ふれり雨のかなたの死者よ 高野公彦
あぢさゐの毬寄り合ひて色づけり鬼(もの)籠(こ)もらする如きしづけさ
アジサイにかなたの死者を思い、その球形花序に鬼神が隠れていると幻視する。どうもアジサイにはこのような連想を誘うところがあるようだ。
小島ゆかりもまた好んでアジサイを詠う歌人のひとりである。
紫陽花にひねもす眠りゆふまぐれ猫は水色の眸(まなこ)を瞠く 小島ゆかり
雨に濡れあぢさゐを剪(き)りてゐる女(ひと)の素足にほそく静脈浮けり
影もたぬ妖(あやかし)われは歩み来て雨中に昏きあぢさゐ覗く
ものぐらく花塊(かたま)れるあぢさゐを過りて杳(とほ)し死までの歩み
1首目では、猫の見開いた目の水色とアジサイの花の色とが呼応して、ボードレールの万物照応のごとき世界が開かれており、短歌の醍醐味を感じさせる一首である。2首目の眼目は、花の色と女性の足に浮く静脈の対比であり、そこはかとないエロチシズムを感じさせる。3首目では自分を怪しい存在と見立てているが、その怪しさを際立たせているのがアジサイを覗くという動作であることは言うまでもない。ここでもアジサイは昏いのである。4首目はものぐらく咲くアジサイの花群と、その傍らを通り過ぎる私の歩みの対比が、死までの歩みという時間の流れを浮き彫りにする構造になっている。
最近の若い歌人は、古典的短歌の花鳥風月とは切れた地平で作歌しているので、植物を歌に詠み込むことが少ないようだ。それよりも、「歯ブラシ」とか「ペットボトル」とか「シュガーレスガム」のようなコンビニで売られている日常用品の方がよく歌に登場する。もうしばらくすると、近代短歌の歌人たちがアジサイに与えてきた象徴的価値もなくなってしまうかもしれない。