055:2004年6月 第2週 盛田志保子
または、天性の修辞力が生み出すひと味ちがうニューウェーブ短歌

十円じゃなんにも買えないよといえば
        ひかって走り去る夏休み

           盛田志保子『木曜日』(BookPark)
 盛田志保子は『短歌研究』が2000年に行なった公募による短歌コンクール「うたう」において、「風の庭」50首で最高賞である作品賞を受賞した。当時、若干20歳。岩手県出身で、早稲田大学に学び、水原紫苑の「短歌実作」という授業に出たことが作歌のきっかけだったという。

 短歌コンクール「うたう」の審査員は穂村弘、加藤治郎、坂井修一の3人である。『別冊フレンド』と『ホットドッグ・プレス』に募集要項を掲載し、インターネットを介しての添削アドバイスというユニークな試みが奏功し、新聞の短歌欄の常連投稿者とはまったく異なる作者層を発掘することに成功している。ここに集った歌人たちは、のちに「うたう」世代と呼ばれることになった。天道なお、雪舟えま、天野慶、玲はる名などは、すでに短歌結社や同人誌のメンバーとして活躍していた人たちだが、その他にも枡野浩一の隠し球である佐藤真由美や、加藤千恵、杉山理紀、脇川飛鳥といったマスノ教関係者が多く含まれている。その他にも、よくよく投稿者一覧を見ると、石川美南(『砂の降る教室』)、佐藤りえ(『フラジャイル』)、飯田有子(『林檎貫通式』)、入谷いずみ(『海の人形』)、佐藤理江(『虹の片足』)、五十嵐きよみ(『港のヨーコを探していない』)といった人たちも応募していたのだ。そんななかで盛田は作品賞を受賞し、その後「未来」に入会している。『木曜日』は2003年に出版された第一歌集で、「歌葉」からオンデマンド出版という新しい形式で刊行された。

 「うたう」の選評でも盛田の言葉の選択における詩人としての才能を評価する声が高いが、上に名前をあげたニューウェーヴ短歌の歌人たちとは、作品の伝える体温がいささか異なるように感じられる。それはたとえば次のようなちがいである。いずれも「うたう」の投稿作品から引く。

 すきですきで変形しそう帰り道いつもよりていねいに歩きぬ 雪舟えま

 投げつけたペットボトルが足元に転がっていてとてもかなしい 加藤千恵

 ビール缶つぶす感じでかんたんにぐしゃっとつぶれる時もときどき 杉山理紀

 台風は私にここにいてもいいって言ってくれてるみたいでたすかる 脇川飛鳥

 ここにあげた短歌に顕著に見られる特徴は、「対象性の不在」であり、そこから論理的に帰結する「対象と〈私〉との距離の不在」である。対象がなければ私との距離もない道理ということだ。言い換えれば、「私ベタベタ」だと言ってもよいかも知れない。

 たとえば、「おもむろに夜は明けゆきて阿蘇山にのぼる煙をみればしずけき」(伊藤保)のように、一見したところ対象を詠んだ単なる写生歌にしか見えない歌においても、その根底には対象である阿蘇山と、まんじりともせず一夜を明かしてそれを眺める〈私〉とのあいだに、距離があり対峙がある。作者伊藤が19歳のときにハンセン氏病療養所に入所した最初の夜が明けた時の歌だという実生活上の背景を知らなくても、その距離のもたらす緊張感は感じられるが、背景を知ればいっそう明らかだ。阿蘇山の風景を詠んだ景物歌ではなく、作者伊藤の心の奥底に沈む悲哀と絶望を詠んだ歌なのである。しかし伊藤は心情をそのままに吐露するのではなく、〈私〉とは関係なく存在し、ときには〈私〉を拒絶する阿蘇山という外的対象を描くことで、一首のなかに対象と〈私〉を対峙させた。それゆえこの歌は対立と緊張感をはらんだ歌となり、そのなかに作者の心情を透かし見る短歌として成立しているのである。そしてこのような歌だけが、時代を越えて読む人の心に届く。

 このようなことを踏まえてもう一度上にあげた歌を見てみよう。雪舟たちの短歌は、心に感じたことをつぶやきのように言葉に乗せたものであり、何かの対象が詠みこまれていたとしても、その対象と〈私〉のあいだには距離がない。だから短歌を一首の屹立する詩として成り立たせる緊張感がない。「ペットボトル」や「ビール缶」は、〈私〉と対峙するものではなく、むしろ〈私〉の一部であり〈私〉と全面的に感情を分け合ってくれるお友達のようだ。「私ベタベタ」とは、こういうことを言うのである。

 また、これらの歌に共通する特徴は、異様なまでに突出した「今だけ」感だ。今の私の感情を、今だけ通用する言葉で表現するこれらの歌は「賞味期限の短い歌」であり、そうあることを自ら欲しているのである。なぜなら「今の私」は移ろいやすいものであり、別れた彼氏とよりが戻ったら、また「新しい私」になるかもしれない。だから「今の私」の作る歌は、今だけ通用する言葉でよいのであり、またそうでなくてはならないのである。

  しかし、盛田の歌を読んでみると、このような点において他のニューウェーヴ短歌の作者とは微妙な位相の差が感じられる。

 少女の目少女漫画に描かれて黒い闇にも見開きいたり 盛田志保子

 制服を知らぬ妹まっしろな小鳥と分け合いし日々の朝

 天を蹴る少女の足を引き戻すべく冬の日のブランコが鳴る

 かなしみは夜の遠くでダンスする彼にはかれのしあわせがある

 ぼたゆきの影ふりつもる青畳天命を待つなんて知らない 

 たとえば、少女漫画に描かれた少女の目が暗闇に見開いているという一首目は、心象風景のようでもあり、目を見開く少女は謎に満ちた対象として、見る人に挑みかけているようにも見える。またそれよりもいっそう位相の差を感じるのは、「天を蹴る少女の足」「ぼたゆきの影ふりつもる青畳」という工夫された短歌的修辞だろう。「地を蹴る」「ぼたゆきが降り積もる」ならば、それは事実をそのままに表現したものに過ぎない。それを「天を蹴る」「ぼたゆきの影ふりつもる」と表現したところに、対象を見据える表現者としての〈私〉の視線が感じられるのである。このように修辞によって対象を描くとき、対象は〈私〉から離脱して〈見られるもの〉となり、そこに緊張関係が発生するのである。短歌に修辞が必要な所以と言えよう。

 このことは『木曜日』収録作品を見るとよりはっきりする。

 秋の朝消えゆく夢に手を伸ばす林檎の皮の川に降る雨

 暗い目の毛ガニが届く誕生日誰かがつけたラジオは切られて

 見ぬ夏を記憶の犬の名で呼べば小さき尾ふりてきらきら鳴きぬ

 人生にあなたが見えず中心に向かって冷えてゆく御影石

 一首目「秋の朝」の甘やかな喪失感は、「林檎の皮の川に降る雨」という意表をつく表現によって対象化されている。二首目の「暗い目の毛ガニ」という秀逸な措辞とそれに続く句により、私を拒む不吉な世界が鮮やかに描かれている。三首目の「見ぬ夏」の未来へ向かうベクトルと、「記憶の犬」の過去へ向かうベクトルが一首のなかで交錯する表現も手がこんでいる。四首目は「中心に向かって冷えてゆく御影石」という表現にすべてがかかっている一首だが、人生にあなたが見えないという、それだけならばよくある恋愛の不全感を、「中心に向かって冷えてゆく御影石」と対象化したときに、その感情は読む人にもまた追体験されうるものとして一首のなかに定着される。

 私がこの歌集で最良の歌と感じるのは次のような歌である。

 廃線を知らぬ線路のうすあおい傷をのこして去りゆく季節

 息とめてとても静かに引き上げるクリップの山からクリップの死

 今を割り今をかじるとこんな血があふれるだろう砂漠のざくろ

 もちろんこの歌集には、若者特有の不全感や未発感も詠われている。世の中のルールの嘘くささをいささか幼い視点から詠う歌もある。

 藍色のポットもいつか目覚めたいこの世は長い遠足前夜

 非常灯たどりつけないほど遠く自分自身だけ照らす真夜中

 幻想よたとえば人と笑いあうこと肩と肩を溶かしあいつつ

 なまいきと書かれた通信簿うわの空の国へ行けっていわれた

 しかし、盛田は言葉を選ぶ繊細な感覚と、修辞を駆使した対象との距離の取り方において、なかなか侮りがたい歌人ではないかと思うのである。


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