060:2004年7月 第2週 安藤美保
または、寒天質に閉じこめられた若さはそのまま永遠に

君の目に見られいるとき私は
    こまかき水の粒子に還る

       安藤美保『水の粒子』(ながらみ書房)
 「君」はもちろん私が心を寄せている男性である。君のまなざしは、私を即自的存在から対自的存在に変える。そのとき私は人間としての輪郭を失って、ばらばらの水の粒子に還るような気がすると詠っている。「還る」というからには、私は元は粒子から成る存在であったと認識している訳だ。青春のほのかな愛を詠った歌であり、愛を受動的態度で表現しているところに、作者の控え目な人柄と世界にたいするスタンスが滲み出ている。

 作者の安藤美保は1967年生まれ。心の花会員。お茶の水女子大学文教育学部国文科に学び、研究テーマは藤原(後京極)良経。1991年修士課程の学生のときに、京都研修旅行中、比叡山の急斜面で滑落死する。享年24歳。『水の粒子』は翌年出版された遺稿歌集である。巻末に佐佐木幸綱の悲痛な跋文と、歌集編纂にあたったご両親のあとがきがあり、これも心を打たれる。

 作者本人が歌集を編むとき、最も腐心するのは歌の取捨選択と配列であろう。なかでも配列は歌集の印象を決定づける。編年順の場合、作られた時代順に歌が並んでいるので、作者の技量の向上、短歌世界の深化を時系列で辿ることができるという読者にとっての利点がある。しかし、なかには逆編年順の配列もあり、この場合一番最近作った歌が最初に並ぶことになる(例 錦見映理子『ガーデニア・ガーデン』)。作者の意識からすれば、最近作った歌が今の自分に一番近い歌なので、近作を歌集冒頭に配したいということなのだろう。だから逆編年順は読者のためではなく、作者の自己意識の現われである。編年順と逆編年順は、時間という要素を基準とした配列だが、配列原理から時間を排除すると、作者の構成意識が前面に出る。例えば寺井淳『聖なるものへ』は、全体が35の節から、各節は10首の歌から成るという均整美を追求している。また節の表題が逆五十音順に並んでいるという凝りようである。

 作者の短歌観と歌の配列に相関関係はあるのだろうか。詳しく調べたことはないのだが、日々の歌、折々の歌を作る日常生活実感派(別名、人生派)は編年順を好み、短歌から日常の〈私〉を排して美的世界を追求する歌人(別名、ことば派)は、編年順によらない構成的配列を好むように思う。

 安藤美保『水の粒子』のような遺稿集は、作者本人の意思による配列を反映していない。残された家族や友人の手になる選歌・配列であり、ある意味で作者本人の意思を裏切ることを宿命づけられているとも言える。ご両親のあとがきは、夭折した娘を悼む言葉に満ちていて、歌集編纂の経緯や方針は一言も述べられていない。だがいろいろな手掛かりから推測すると、多少の出入りはありながらもおおむね編年順に構成されていると思われる。そしてこの選択は、結果的には安藤美保という歌人の個性とマッチしているように感じられる。

 歌集冒頭には1989年に「心の花」連作20首特集で一席となった「モザイク」が置かれている。家族に題材を採った日常詠であり、視線が及ぶ世界の狭さを感じさせると同時に、安藤が短歌に詠むことを望んだ心の肌理を率直に表わしている。それは時々は波立つこともあるが基本的には穏やかな日常の世界であり、決して燃え上がる情熱でも思想的煩悶でもないのである。

 木材でしきられた空間を住み処とし母は手長き蜘蛛に似ている

 縄跳びをうならせて跳ぶ弧のさなか、父と我とが見つめ合うなり

 世界に対するこのような態度は、多くの歌に詠まれた作者の木への偏愛にも感じることができる。

 「前世は木だったかもね」自動車の扉を開けて吾をふりかえる

 思うまま幹うねらせて芽ぶきたる樟のした男二人おり

 『歌壇』2004年6月号に、三枝昴之による山中智恵子のインタヴューが掲載されている。そのなかで三枝は「木が好きな人もいますが山中さんは空ですね」と述べ、山中も「そういえば私はあまり木をうたわないですね」と応じている。確かに山中は空と鳥をよく詠っている。

 わが生みて渡れる鳥と思ふまで昼澄みゆきぬ訪ひがたきかも

 青空の井戸よわが汲む夕あかり行く方を思へただ思へとや

 空と鳥はこの地上の人の世では叶わぬ魂の希求の象徴である。それに対して木は地上にどっしりと根を張る安定感のある存在であり、魂の飛翔よりは日常への愛着を表わしていると言えるだろう。安藤は手の届かない空と鳥を希求する歌人ではなく、目線低く日常のわずかな波紋に目を留めるタイプの歌人なのである。

 とはいえ日常にも心を騒がせるささいな揺らぎはある。揺らぎによって自意識は乱される。安藤の短歌の魅力は、その揺らぎを静かに内省的な態度でそっと捉えるところにある。

 ふくらみをつぶす小鳥の肋骨に指あててすいと押さえるように

 悔いありて歩む朝(あした)をまがなしく蜘蛛はさかさに空を見ており

 うす青き扉(ドア)になりたし叩く人のなきまま昼も灯に照らされて

 真紅の林檎胸に蔵(かく)して渡る人くつくつと笑い見ており川は

 手をつなぎ桜をくぐる少女らの頬に影さし影はうつろう

 そして誰もいなくなった座席には鋏で切り刻まれた春の陽

 『現代短歌全景 男たちの歌』(河出書房新社)巻末の「戦後夭折歌人の系譜」を執筆した山下雅人は、「この『うす青き扉』に象徴される硬質で透明な不在感覚が、もしかしたら安藤美保のたましいの原質であるかもしれない」と評し、その才能を惜しんでいる。確かに次のような歌がある。

 寒天質に閉じこめられた吾(あ)を包み駅ビル四階喫茶室光る

 自分を「寒天質に閉じこめられ」ていると感じるのは、自己に未決定の部分が多く、また社会と直接につながっていないという若さ故である。しかしその感覚を思想的にいじくり回すこともなく、かといって自虐的になることもなく、このように素直に表現できるのは、ひとつの才能なのだろう。

 河野裕子によれば、短歌を作り始めるきっかけのひとつに肉親の死があるという (『現代うた景色』 京都新聞社)。「あの夏の数かぎりなきそしてまたたつたひとつの表情をせよ」という絶唱を残し交通事故死した小野茂樹の夫人である小野雅子は、夫の死後作歌を始め『花筐』という歌集を残した。また「地震(なゐ)太く轟き過ぎし夜半にして青春に入る思ひひそけし」などの思春期の痛みと不安を詠い、18歳で宇都宮大学農学部の屋上から転落死した杉山隆の父親杉山浩もまた、息子の死後作歌を始め、歌集『夜半の地震』を出している。安藤美保の父聰彦氏もまた、歌集巻末のあとがきに「涙して娘の遺作編む窓越しに冬の曙光すでに拡がる」という自作短歌を一首だけ挿入している。短歌としての出来不出来を云々することなど論外である。ただただそのままに受け取るしかない歌というものもある。