065:2004年8月 第3週 三枝浩樹
または、青春の光芒を放つ短歌の行く末は孤独な歩行者か

透視図法の焦点となるかみしみの
      かなたにくらく森がにおえり

            三枝浩樹『銀の驟雨』
 短歌には「家族性」という、他の芸術には見られない特徴があるようだ。短歌に親しむようになった理由として、父または母が短歌を詠む人だったという家族的理由があげられることがよくある。例えば、加藤治郎の場合、もともと母親が短歌を作っていて、加藤治郎が歌人になると、兄と妹も歌を作るようになり、父はしかたなく短歌評論を始めたそうだ。一家総出である。永田和宏と河野裕子夫妻、その子永田紅のケースもある。

 これはなかなか面白い問題である。父子(母子)相伝による技芸といえば、歌舞伎・狂言のような高度の身体的修練を必要とする伝統芸能を除くと、造形芸術の分野では、やはり長期間の技術的修練が必要な画家・彫刻家にいくつか例を見いだすことができる(高村光雲と高村光太郎、上村松園とその子・孫など)。しかし、文芸の世界ではあまり例がないのではないだろうか。親が小説家で、その子もまた机に向かって物を書く親の後姿を見て育ち、長じて自分も小説家になるという例は少ない。親が詩人で子も詩人という例もあまりない。もちろん、森鴎外と茉莉、幸田露伴と文、太宰治と津島佑子、中上健次と紀の例はあり、皆無というわけではないが、その他にあまり例が思い浮かばない (なぜかみんな娘なのも興味深い点である)。

 関川夏央『本よみの虫干し』(岩波新書)は、明治以来の文学をめぐる時代情況と、とりわけ文学の経済的側面に焦点を当てた好著だが、関川流思考を援用すれば、文芸の世界で親子相伝がない理由は自明である。十中八九は食えないからだ。親が食えない小説家で、子供の頃から貧乏を強いられて育った子供が、自分も小説家になろうと考えるはずがない。

 しかしこの理論では解明できない問題も残る。詩人の場合である。小説家とは異なり、もともと詩だけで食べている人は少ないので、詩人は実社会で職業を持っている。たとえば清岡卓行はプロ野球のスコアラーであり、吉岡実は出版社に勤務していた。だから詩人の場合、経済的問題が親子相伝の否定的要因となる可能性は低い。にもかかわらず、親も詩人で子も詩人というケースは稀だ。

 このちがいはおそらく詩と短歌の文芸としての特性に由来している。詩の「孤独性」と短歌の「公共性」の相違である。詩は夜中にひとりで孤独に言葉を彫琢する過程から生まれる。詩とは詩人が世界に向けて放つ孤独な発語である。しかし短歌は、少なくともその発生においては「座」の文学であり、その名残は結社という主宰を頂点とする人の輪に残っている。短歌は人前で披露され、その場で評価されるものであり、孤独な発語ではない。これが短歌の公共性を支え、その開かれた性格が、短歌の「家族性」の理由となっているのではないだろうか。

 しかし、最近この短歌の「家族性」は危うい。現代短歌が「孤独性」を深める傾向にあり、現代詩との境界線が薄らいで来たからである。これは案外重要な問題で、文芸としの短歌の本質を変容させかねない問題だと思う。

 世はインターネット時代を迎え、短歌の「家族性」に替わって最近目につくのは「(擬似)友達性」である。若い女性によく見られる、「○○ちゃんの短歌ホームページ見ました。とってもカワイイ♥♥。私もこんな短歌を作ってみました」というノリである。この「(擬似)友達性」が、短歌の文芸としての本質に何を付け加えるのか(何を削減するのか)、私にはまだわからない。

 ほんの前置きのつもりが長い枕になってしまった。三枝浩樹の父は窪田空穂門下の歌人で、兄の昂之もまた歌人である。三枝もまた家族性歌人なのだ。歌人としては、歌集も多く、怜悧な批評家として知られる兄の昂之の方がよく知られている。兄の昂之も弟の浩樹も、ともに1960年代という政治の季節に短歌的出発を行なったという点で、深く時代の刻印を受けた歌人である。昂之は1944年生まれで、早稲田大学に入学し2年生のとき1966年に早大闘争が起きた。政治の季節にまともにぶつかったことが昂之の短歌を刻印した。浩樹は1946年生まれだから兄より2歳年下で、1965年に法政大学に入学している。第一歌集『朝の歌』に収録された歌が作られたのは1964年から1973年までで、政治の季節の昂揚と終息に正確に呼応している。だから『朝の歌』は時代の歌であり、この時代の空気を吸った人間にとっては、心の痛みなくしては読むことのできない歌集である。

 一片の雲ちぎれたる風景にまじわることも無きわれの傷

 透明な朝の光だ 傷ついた窓をあけいまは眼をみひらかん

 はかなさを美へとすりかえるいっしゅんの虚偽を射よ 杳(くら)き眼光もて

 スペインへ ! わが思想的昂揚へ ! ’69年冬の窓あけながら

 ああされど 火中(ほなか)に立ちて問うこともせず問われるままに過ぎゆきつ

 優しさを撃て 隊列のくずされてゆく一瞬の真蒼な視野

 ここには時代を撃つ姿勢と並んで、時代から受けた傷を自己の核として詠う姿勢がある。「虚偽を射よ」「優しさを撃て」「わが思想的昂揚へ !」という高らかな呼びかけと平行して、「問うこともせず問われるままに過ぎ」る姿勢への自己批判と悔悟とが共存していて、時代の波に引き裂かれる痛ましい青春がくきやかに描かれている。ここには、希望・夢・迷い・挫折といった、青春を彩るものすべてがある。青春の光のなかでは傲慢ですら美しい。

 関川夏央は、「短歌はやはり『青春』を表現するときもっとも力量を発揮するジャンルなのかとも思う」と書いた(『現代短歌そのこころみ』NHK出版)。三枝浩樹の『朝の歌』はまさに青春の歌集である。関川はそれに続けて、「しかし、あざやな光彩は持続しにくい」と付け加えることを忘れてはいない。あざやかな青春の歌集を持った歌人は、例外なくこの重い課題と向き合うことになる。

 『朝の歌』を一読して、ここには現代短歌がほとんど失ってしまったひとつの特質があると感じた。それは「他者への真摯な呼びかけ」である。

 純子、君のため書きしるすレクイエムの火のかなしみをふりしずめつつ

 ああソーニャ、霜おく髪の孤独より失意よりわれを発たしむなかれ

 60年代は集団と大衆の時代であり、他者との連帯が信じられていた。「手をつなぐ」こと、「呼びかける」ことが意味を持っていたのである。それがいかに幻想であれ。青春の精神の昂揚を定着する形式としてだけでなく、短歌はまた「呼びかける」形式として好適である。短歌から相聞と挽歌を除いたら何が残るかと、誰かがどこかで述べていたが、相聞と挽歌はともに「呼びかける」ことを本質としている。ふたつの違いは、呼びかける相手が生きているか死んでいるかの差にすぎない。もちろん相聞と挽歌では、それと相関的に逆照射される〈私〉の位相には違いはあるが。三枝の歌には「呼びかけ」がある。それは三枝が歌を生み出した地点には「他者」があるということを意味する。しかし現代短歌の多くはこの「よびかけ」という短歌の根底にあったはずの特性を失ない、孤独な「つぶやき」になってしまった。そう感じるのである。

 第二歌集『銀の驟雨』以降、三枝はキリスト教受洗をひとつのきっかけとして、急速に内省的傾向を深めてゆく。その主調音は内省を通じての自己省察である。三枝の好みの言葉を使えば、「自己の内に深く降りてゆく」作業である。その過程から生まれる歌もまた美しく私たちを打つ。

 あやめざるこころのなかへひきかえす夏のゆうべの火のほとりより

 南天の実のかたわらを過ぐるとき杳(とお)き悲傷の火のにおいくる

 告げなむとして翳る舌 灯のなかにわれらしずかな死をかさねあう

 雨の午後しずかに昏れてうつうつとむらさきの葡萄ジャムを煮つむる

 『朝の歌』で多用された「朝」「青空」という語彙は少なくなり、代わって「夕暮れ」「黄昏」と「雨」が頻出するようになる。第三歌集『世界に献ずる二百の連祷』でもその傾向は加速されてゆく。『朝の歌』で詠われた「青空」は、もはや痛みを伴う回想のなかにしか存在しない。

 喪失というくうかんを知りし日の青空 いまもわが内に棲む

 鳥のためかなしみのため鳥籠を買いて戻れる雨の夕暮

 神よいかなる諸力のもとにつかのまの光芒としてあゆむわれらぞ

 三枝が一貫して歌に詠み込む対象に「樹木」がある。三枝は「木の歌人」と呼ぶのがふさわしい。しかし対象としての木の詠み方その種類も、時代とともに変化している。

 日常の視界のかなた何ゆらぎつつあらん ひと群の樅そよげるを 『朝の歌』

 崩おれんばかりあわあわとせるゆうべいっぽんの樹の戦ぎにむかう

 風がふたたび閉じてしずまるゆうぐれをあかるくさむく銀杏こぼるる 『世界に献ずる二百の連祷』

 夕映えを支うるごとき樫の木の黒き塊(マッス)あり西はかなしも

 おのずから散るを見守りていたりけり友のごとしも庭の櫟は 『歩行者』

 ゆく人も来る人もなしひもすがらこまかなる葉をこぼすからまつ

 『朝の歌』でよく詠まれているのは、樅の木とポプラである。どちらも北方の樹木であり(北方の精神性)、空へと高く屹立する。この空の高みを目指すゴシック的特性が、青春の昂揚とよく似合う。またその詠まれ方も、一首目では樅の林は日常性のかなたに揺曳するものの象徴であり、二首目では心萎える自己を鼓舞するものの象徴である。いずれも極めて観念性の強い詠まれ方である。

 ところが歌に詠まれる木の種類も針葉樹系統は少なくなり、銀杏のようなふつうの街路樹や樫の木が登場する。また銀杏や樫は自らの心象の投影ではあるが、もはや初期の歌のような観念性はない。これが2000年に出版された第五歌集『歩行者』になると、樹木はもはや心象の投影ですらなく、より具体性を帯びて親しい友のように詠われている。

 『朝の歌』のあとがきに、「即物感と抽象感覚に充ちみちた歌を、というのが、かねてからのぼくの希求してきたところであった」と書いた三枝も、歳を重ねるにつれて、青春の観念性が洗い落とされ、より具体的にまた平明に身の回りの事物を歌にするようになる。

 秋の陽を日すがら浴びて育ちたる柿の実ならん食めば甘しも 『歩行者』

 むらさきのすずしき花の揺れいたり紫苑の庭と今日より呼ばん

 『朝の歌』に描かれた〈私〉と世界の厳しい対峙にひりひりするような感動を覚えた者には、〈私〉を自然に溶け出させるようなこの歌境は、物足りなく感じられるかも知れない。『歩行者』の歌境と修辞は、まるで大正・昭和初期の近代短歌への逆行ではないかとも感じられる。しかし、関川も書いたように、青春の光芒は一瞬にして去る。あとに残されるのは長い残りの人生である。観念性を洗い落した後に、なおも歌を作り続けようとすれば、市井に生きるひとりとしての境涯を詠む他はない。『歩行者』はひとり孤独に歩む人で、そこにはかつての他者への「呼びかけ」はもうない。三枝の歩みは、青春時代にあまりに光輝に満ちた歌集を持ってしまった歌人の困難さを象徴しているように思われる。それと同時に、『朝の歌』のように一瞬の光芒を永遠に定着したような歌集を生み出したあの時代から、私たちは何と遠く来てしまったのだろうという感慨を禁じることができない。今の時代に「青春歌集」を生み出すことは、ほとんど不可能なことなのである。