066:2004年8月 第4週 佐藤弓生
または、自己表現としての近代短歌の呪縛から自由に

風鈴を鳴らしつづける風鈴屋
  世界が海におおわれるまで

佐藤弓生『世界が海におおわれるまで』(沖積舎)


 今では見なくなったが、江戸時代には屋台に風鈴を積んで売り歩く商売があったらしい。風鈴と朝顔は江戸の都市文化の風物で、関西にはあまりない。掲載歌に詠まれた風鈴屋は、どことなくこの世のものではないようである。世界が海に被われるまで風鈴を鳴らし続けるのだから、永遠の生命を生きるか、あるいはそれに近い存在であろう。一首を流れる決して暗くはない終末感と、次第に強く鳴り響くように思える風鈴の音とが共鳴しあって、叙景でもなく抒情でもない、独特の夢幻的世界が作り出されている。

 掲載歌は歌集の表題が採られた歌であり、佐藤の代表歌と見なしてよいだろう。『短歌WAVE』2003年夏号の特集「現代短歌の現在 647人の代表歌集成」では、佐藤は掲載歌に加えて次の二首を自分の代表歌としてあげている。

 ぼんやりと街のはずれに生えている水銀灯でありたいわたし

 こなゆきのみるみるふるは天界に蛾の老王の身をふるうわざ

 佐藤弓生は1964年生まれ。「かばん」を拠点として活動している。唯一の歌集『世界が海におおわれるまで』は2001年に出版されている。詩集と英国小説の翻訳があり、歌集に収録された職場詠を見ると会社勤めもしているようだが、あまり歌のなかで自分を語らない人なのでよくわからない。この「自分を語らない」というのが佐藤の短歌の特徴でもある。

 荻原裕幸は『短歌ヴァーサス』4号の連載のなかで、近代短歌は手短に言えば「自己像を描くことによる自己表現としての短歌」だが、90年代を迎えて状況が変化したと述べている。荻原のいう自己表現としての近代短歌とは、例えば次のようなものである。

 ペシミズムにまたおちてゆく結論にあらがひて夜の椅子をたちあがる 木俣 修

 たたかひを終りたる身を遊ばせて石群(いはむらが)れる谷川を越ゆ 宮 柊二

 桃いくつ心に抱きて生き死にの外なる橋をわたりゆくなり 築地正子

 表現が直接的であったり、隠喩を用い暗示的であったりする手法の差はあれ、これらの短歌の中には明確に結像する「自己像」がある。それは、「心が暗い方向に傾斜する〈私〉」であったり、「戦争に疲弊した心を抱える〈私〉」であったり、「生を抱えつつ死の観念におののく〈私〉」であったりする。〈私〉の位相はさまざまであるが、いずれにしてもこれらの短歌は「自己表現」だと言ってまちがいない。明治時代の和歌革新運動の結果、短歌はそれまでの共有された美意識に基づく花鳥風月の世界から離れ、近代的自我を表現する器となった。佐佐木幸綱のことばを借りれば、普遍性・抽象性・集団性から、個別性・具象性・個人性へと移行したのである。その結果として近代短歌は、上にあげた三首にも色濃く滲み出ている孤独感を引き受けることになった。

 21世紀を迎えた今でも、短歌の裾野を形作る人たちの短歌観は変化していない。新聞の歌壇に投稿されるおびただしい数の短歌は、「自己像を描くことによる自己表現としての短歌」という近代短歌のセオリーをいささかも疑っていない。

 背に花火聞きつつ帰る抱いた子の重さも今日の思い出として 船岡みさ

 またひとり癌に倒れし友ありて同窓会の夏さむくなる 吉竹 純

 疎開児の袋に蝗わけくれし顔もおぼろなひとりの少年 林 理智

 2004年8月16日の朝日歌壇から引用した。近代を特徴づけるのはデカルトあたりを嚆矢とする「自我への信仰」である。どのような経験をくぐっても疑えない自我の一貫性は、近代の産物である。しかし、荻原は90年代あたりから、短歌の世界においてこの状況が変質したという。代わって目に付くようになったのは、枡野浩一の短歌に代表される「作家の自己表現でありながら、同時に読者が自分のことばだと錯覚するような場所で共感を誘発する文体」だという。これは「コピーライト短歌」である。もうひとつは、「東直子に見られるような、読者の側の自在な補完によってはじめて『自己像』が成り立つ文体」だとする。これは「何かが欠けている文体」と言える。埋めるべき情報のスロットがいくつか埋まっていないで、不飽和状態なのである。荻原は出版されたばかりの『短歌、WWWを走る』(邑書林)のあとがきでもほぽ同じ趣旨の文章を書いているが、こちらで指摘されているのは「自己像が何らかのかたちで明確に結んでしまうことを拒むような文体、もともと世界から断片化されている短歌の記述をさらに断片化するような記述」だとしている。こちらはポストモダンの「リゾーム的文体」とでも言うべきか。明治以来百数十年を経て、「近代的自我の一貫性」はそろそろ空洞化してきたようなのである。

 佐藤弓生もまた短歌の中で自己像を明確に結像させることに、あまり関心がないようだ。佐藤の短歌の文体は、荻原の分類したなかの二番目の文体に近い。確かに佐藤の短歌は、補完すべき情報が欠けている「不飽和文体」の代表選手である東直子や小林久美子の文体と、どこか共通するところがある。

 いつまでも薬はにがいみどりめくめがねの玉をみがきにみがく

 押しこんでぎしぎしかけたかけがねがひかるたとえば春の砂場に

 いくとせののちあけがたにくる人は口にみどりの蝉をふくんで

 いささか恣意的に選んでみたが、これらの歌に「明確な自己像」を探すことは不可能であるし、そもそもどのような情景が詠われているのかすらはっきりしない。しかしここにはリズムがあり、そのリズムはまぎれもなく短歌のリズムである。「みどりめくめがね」「みがきにみがく」の「み」と「め」の交替と連続、「かけたかけがね」の「かけ」の連続が生み出すリズム感は耳に心地よい。かつてヴァレリーは詩論のなかで、ことばによる意味の伝達が終って目的を遂げたその果てに、なおもそのことばを耳にしたいと願う欲望が詩の発生であると論じたが、その意味からすればここにはまぎれもなく「詩」がある。しかしこれは「近代的自我の表現」としての短歌とは相当にちがう位相で、詩と美を生み出そうとする短歌文体だと言わなくてはならない。今までの短歌理論や短歌批評は、このような新しい文体を正当に分析してきただろうか。

 佐藤の短歌は上にあげた三首のように、意味朦朧としたものばかりではない。

 白の椅子プールサイドに残されて真冬すがしい骨となりゆく

 みずうみの舟とその影ひらかれた莢のかたちに晩夏を運ぶ

 秋の日のミルクスタンドに空瓶の光を立てて父みな帰る

 さくらんぼ深紅の雨のように降るアルトの声の叔母のお皿に

 牛乳瓶二本ならんでとうめいに牛乳瓶の神さまを待つ

 てのひらに卵をうけたところからひずみはじめる星の重力

 一首目、プールサイドに放置されたプラスチックの白い椅子が冬の陽を浴びて、動物の骨のように見えるという情景は、夏と冬という正反対の季節の対比のなかに、生と死があざやかに視覚的に対比されている。二首目、鏡のように静かな湖に浮かぶ小舟と水面に映るその影は、水面を対称軸としてたしかに開いた豆の莢のように見える。発見の歌であり、静かな晩夏の印象が美しく、私の特に好きな歌である。三首目、駅のホームのミルクスタンドだろうか。通勤途中のサラリーマンが、牛乳を飲み干して、空になった瓶をそのままにして去ってゆく情景である。人の去ったミルクスタンドに光が立っているという描写が秀逸であり、神なき世界にささやかに立つ小さな神のような趣きすらある。四首目、さくらんぼが皿に降るというのはわかりにくいが、さくらんぼを水洗いした叔母さんが皿に勢いよく盛りつけているのだろうか。「深紅の雨」と「アルトの声」の取り合わせがポイントだろう。五首目、また牛乳瓶の歌だが、二本並んで神様を待つというのは、ベケットの不条理演劇の名作『ゴドーを待ちながら』が下敷きにある。ここにもまた神なき世界のかすかな終末感が漂っていて、印象に残る歌である。六首目、「卵の歌」のところでも引用した歌だが、卵の凸と手のひらのくぼみの凹の照応から、アインシュタインの重力場理論へと飛躍する発想が秀逸で、極小の卵と極大の星との対比が宇宙論的視野の広がりを感じさせる秀歌である。

 最近の作品も見てみよう。『かばん』2004年7月号から。

 水に身をふかくさしこむよろこびのふとにんげんに似ているわたし

 虚空からつかみとりては虚空へとはなつ詩人の手つき花火は

 淹れたての麦茶が澄んでゆくまでを沈める寺に水泡立つ見ゆ

「虚空からつかみとりては」は、「虚空を一閃して花束を掴み出す」と言った中井英夫を思わせる。佐藤も詩人の営為をそのように理解しているのだろう。「沈める寺」は、ドビュッシーの楽曲の題名だが、私の好きな日本画家・智内兄助の仏画のような連作の題名でもある。

次は『短歌、WWWを走る』から。

 秋天の真青の襞にひとしずく真珠くるしく浮くまでを見つ  題「浮く」

 もくもくと結び蒟蒻むすびつつたましいすこしねじれているか  題「蒟蒻」

 エヴァ・ブラウンそのくちびるの青きこと世界を敵と呼ぶひとといて  題「敵」

 まよなかにポストは鳴りぬ試供用石鹸ふかく落としこまれて  題「石鹸」

 ひともとの短歌を海に投げこんでこれが最後のばら園のばら  題「短歌」

 三首目のエヴァ・ブラウンはヒトラーの愛人だから、「世界を敵と呼ぶひと」はヒトラーその人をさす。四首目「まよなかに」は背筋がスッと冷えるような気がして、特に印象に残る歌である。だいたい真夜中にポストに投函されるのは不吉な知らせである。それが実は試供用石鹸という日常的で無害なものなのだが、下句の「ふかく落としこまれて」によって異次元にワープしている。石鹸をポストに深く落しこむことには、何か深い意味があるように感じられてくる。佐藤はこのような言葉の使い方が非常にうまい。それは言葉を日常的意味作用とは別の次元で把握しているからである。優れた詩人はみなそうなのだが。

 近代短歌のセオリーである「自己像を描くことによる自己表現としての短歌」を追求している歌人は、近頃あまり元気がないようだ。それは『短歌ヴァーサス』3号における「男性歌人を中心とする〈不景気な感じ〉」という荻原裕幸の発言が指摘していることでもある。生沼義朗『水は襤褸に』のような登場の仕方をした人を読んでいても、「この先いったいどこへ行くのだろう」という不安を感じてしまう。そこへいくと、自己像を描かない佐藤弓生のような短歌には、不思議と不景気感もなく、先細り感もない。ある意味で近代短歌の呪縛から自由な地平から詩想を汲み上げているからかもしれない。

佐藤弓生のホームページ